想いの昇火

rei

想いの昇火

 電車の中にある男が居ました。何の変哲もない平日のお昼時ですから、車内はそれほど混雑しておらず、空席も充分あります。しかしその男はドア近くの手すりに掴まって、一向に座ろうとはしません。ただ、流れる景色に顔を向けています。

 男は怖いのでした。心の底から怯えていました。突然、刃物を持ったジョーカーに襲われるかもしれません。男子中学生という可能性も十分あります。近くに座ってうたたねをしているあの女性は、サルバドール・ダリの信奉者かもしれないのです。その隣に座る高齢の男性が、いきなりガソリンをバラまいて火をつけたっておかしくはないのです。

 ですから男は不安に押しつぶされないように、とっておきのおまじないを唱えます。

「ああ、平田さん……、お疲れ様です。オツカレ。どうしたんですか。イヤドウシタッテ訳ハ無イガネ……。何だってんです。…………、北原君モウ来ナイデクレ。知ッテノ通リ経営ガイヨイヨ回ラナイ……。クビだ。クビ、クビです。どうしろって言うんですか、妻も子どももいるんです。言ってくれたじゃないですか、一番信頼しているって。イヤ、……スマナイ。北原クン、クビです。クビだ。裏切った。……ああ、平田さん……、お疲れ様です。オツカレ」

 男はこのおまじないを唱えていると、いくらか不安が取り除かれた気がしてくるのです。とは言え、やっぱり周囲のことには気を回さざるを得ないのでした。男の背後からヒソヒソと話す声が聞こえます。あの人……、シッ、あんまり見ちゃだめよ、ああいう変な人に絡まれると面倒でしょ。男がチラリとその窪んだ眼を向けると、その親子は恐れるように顔を背けました。男が視線を外すと、またこそこそ耳打ちを始めます。その内容すべてを、男はハッキリと聞き取っていました。意味も理解しています。当然です、男は少し疑り深いだけで、その他は何一つとして『健常者』と変わらないのですから。自分への陰口は全部耳に入りますし、後ろ指を差されて笑われていることも分かっています。

 ただ、不安なだけなのです。周りの人間が全て敵に見えてしまうのでした。むしろ男にしてみれば、平気な顔をして電車に乗っている人々のほうがおかしいというものです。周りは見ず知らずの他人だらけだというのに、平然としています。あまつさえ、ほとんど密着して座っているではありませんか。あぁ、と男は思います。

 俺以外の人間は頭がおかしいんだ。


「こんにちは、北原さん。今日もちゃんと来れてえらいですね!」

 そう気さくに挨拶をするのは、男が通い始めて一ヶ月になる施設の園長さんです。六十代も半ばですが、まだまだ元気に働き、いつもみんなのことを気にかけてくれます。男も最近ようやく心を開けるようになりました。まだ目は合わせられませんが、精いっぱい挨拶を返します。

「うんうん。それじゃ、今日はどうしましょうか?」

 男の通う施設では、社会復帰(もちろん人によってどの程度を指すのかは変わります)を目標に、他の入居者や通園者と共にレクリエーション等を行ったり、地域のボランティア活動に参加したりすることになっています。今日は書道、エクササイズ、パソコン教室の三つから選ぶようです。

「ちなみに、高橋さんなら今は書道を担当されていますよ」

 園長さんが訊いてもいないのに小さな声で教えてくれました。高橋さんというのは、この施設で働いている若い看護師さんです。看護学校卒業後この施設に就職してから三年足らずと経験は浅いですが、その明るい性格と、素敵な笑顔、なにより誰に対しても(障害の有無、程度に関わらず)分け隔てなく接するため、施設の皆から厚い信頼と親しみを得ています。

 さて、と男は考えます。パソコンは働いていたころに散々使っていたので、今さら何か教わることはないでしょう。とは言え、エクササイズなんて絶対に嫌でした。男は運動が全然好きではありません。そこだけは今も昔も変わらないのです。そういうことなので、選択肢は書道しか残されていないようでした。

「はいはい、書道ですね。教室は一〇二ですよ」

 園長さんが微笑ましいものを見るような顔をするので、男はなんだか恥ずかしくなって、早足に指定された部屋へと向かいました。


 男が緊張しながらも一〇二号室の扉を開けると、様々な人が和気あいあいと紙に向かって筆を躍らせていました。本当に色々な人がいます。その中で、可愛らしいクマの顔がプリントされたエプロンを付けた高橋さんが男に気づいて近づいてきます。

「北原さん! こんにちはー、書道を選んでくれたんですね」

 そのひまわりのような笑顔から目を逸らしながら、男は小さく一つ頷きを返しました。

「さささ、どうぞこちらに」

 高橋さんは嬉しそうに男に空いている席へ座るよう促します。机の上には下敷きと硯、筆などが置かれていました。高橋さんはすぐに半紙を数枚持ってきて、男に渡します。

「特には、これ書いてー、とかないので自由に書いてくださいね。水墨画っていうのかな、絵とか描いちゃってる人もいるくらい。あっ、でも出来上がったらぜひ見せてください」

 男が了解を示したのを確認すると高橋さんは、何かあったら遠慮せず呼んでくださいよ、と言いつつ他の利用者のところへ移って行きます。

 男はその姿をなんとなく目で追ってしまいます。うまく書けないと駄々をこねる少年の手を取って一緒に書いたり、墨汁を床にこぼしてしまった老婆の代わりに丁寧にふき取ったり、色々と忙しそうです。しかし高橋さんの顔には常に笑顔がありました。無理に張り付けたものではなく、本当に自然に表れた笑顔なのだと男には分かりました。

 人に尽くすことは、高橋さんにとって食事をするのと同じくらい当たり前のことなのです。それは、男にとってとても奇妙なことに思えました。ハッキリ言って男は高橋さんが恐ろしいのです。しかしその恐怖以上に、男の不安に囚われた心は、高橋さんに強く惹かれていました。



 男が施設に通い始めて五ヶ月が経ちました。今日はよく晴れた素晴らしい天気なので、普段は立ち入り禁止の屋上に上がり、そこから見える景色を思い思いにスケッチします。景色、と言っても別に絶景ではないですが、周りに高い建物がないという立地も手伝ってか、三階建ての屋上からでもかなり遠くまでよく見えました。それに頭上は一面透き通った青空です。男の心も、なんとなく晴れやかになっていくような気がしました。男は施設の皆とほんの少し離れて座ります。そうして男は、あまり面白みのない、しかしどこか安心するような光景を鉛筆で紙に写していきます。

 全体の半分ほどを描き終えた辺りで、高橋さんが男の描いている絵を覗き込みに来ました。渋る男をまぁまぁと宥めて、見せてもらうことに成功した高橋さんは、すぐにその表情を驚きへと変えました。

「えっ、北原さんめちゃくちゃ上手いじゃないですか、すごい!」

 大げさですよ、と男はこっ恥ずかしさを抑え込んだ仏頂面で言いました。

「そんなことないですよ。廊下かどこかに飾りましょう、きっと園長も快諾してくれるだろうし」

 高橋さんは感激したように目を輝かせています。男は、本当は後で笑いものにするだけなんじゃないか、とか、おだてているだけだ、とかその表情の裏を疑ってしまいました。しかし、高橋さんの純粋な笑顔を見ているうちに不安がるのが馬鹿らしくなって、まぁ好きにしてください、と言いました。

「やった! ではでは完成を楽しみにしていますね!」

 そう言い残して、高橋さんはいつものように他の利用者の様子を順に見てまわっていきました。男もまたいつものようにそれをなんとなく目で追います。男はふと思いました。高橋さんにはお付き合いしている人がいるのだろうか。あわよくば自分が……、なんて考えるほど男は自惚れていませんでした。全く釣り合っていないのは分かっているのです。高橋さんよりも一回りも歳を取っていますし、顔も全然よくありません、お金もない。ええ、分かっていますとも。

 なによりも高橋さんにはきっと交際相手がいます、根拠は特にありませんが。高橋さんのように優しくて明るい、イケメンな彼氏に違いないでしょう。けれどそれでいいのです。高橋さんが幸せなら、それで。高橋さんにとって、男はただの患者で、家に帰ったら忘れてしまうような他愛のない存在なのです。ただ、男はこの先何十年と続くであろう高橋さんの人生が、幸福であってほしいと、紙に鉛筆を滑らせながら想っていました。


 帰りの電車内は、かなり混雑していました。絵を描くのに夢中になっていたら、いつもよりも少し遅い時間帯の電車になってしまったのです。男は座席前のつり革につかまっていました。目の前には座りながら睡魔と戦っているサラリーマンが、左右にはひん曲がった首で携帯をいじっている若者と疲れた顔で読書をしている中年が、ほとんど男と密着して電車に揺られています。混雑した人々に押された結果その位置に行きついただけで、男が望んだわけではもちろんありません。

 しかし男は自分でも驚くほど落ち着いていました。目の前で船を漕いでいるサラリーマンのバックは有毒ガスで満たされているかもしれません。首のひん曲がった若者がポケットから拳銃を取り出したっておかしくはないし、疲れた顔の中年はロベルト・マッタの世界を夢見ているかもしれないのです。けれど男はその可能性がとても低いことを知っていました。自らの身に危険が及ぶことなんて滅多にないことですし、ほとんどの人はそんなこと初めから考えてもいません。そのことがやっと男にも分かったのです。もうおまじないは必要ないでしょう、不安は確実に消えつつあるのですから。あぁ、と男は思います。

 俺は頭がおかしかったのか。



 男が施設に通い始めてから半年が経とうとしていました。男はいつものように電車に乗って施設を目指しています。もうすっかり不安はなくなったようで、知らない人と隣り合って座っていても全く怖くありません。男は今やただの『健常者』でした。そろそろ卒園して社会に復帰も可能だろうと、昨日診てもらったお医者様が太鼓判を押すほどです。

 しかし男は現在、不安から来る恐怖とは全く別のものが原因でひどく緊張していました。今日は園長さんと卒園の日程を決めて、それからお世話になった方々、施設で親しくなった他の利用者たちへ挨拶に回る予定です。男はその際、高橋さんに自分の描いた絵を送ろうと決めていました。そうしてこう言うのです。あなたが好きでした。いい歳してそんな歯の浮くようなことを伝えるのですから、もうすでになんだか恥ずかしくなってお腹の辺りがソワソワしました。

 男は考えます。そんなことを言われて高橋さんはどんな反応をするだろうか。多分、この恋が叶うことはないでしょう。それは男にも分かっていました。けれどまた、男のつたない告白を高橋さんはバカにしたり気持ち悪く思ったりもしないだろう、という確信がありました。手渡された絵を見て、あの太陽のように暖かい笑顔になって、男の話す言葉に丁寧に耳を傾けて、少し驚いた顔をして、一つお礼を言って、それから男が傷つかないように最大限配慮しながら、しかしきっぱりとお付き合いはできないと、高橋さんは言うでしょう。


 改札を出て施設へ向かう途中、男はある異変に気が付きました。なんだかいつもは閑静な道のりが、妙に騒々しいのです。平日のお昼前ですからあまり人通りは多くないはずなのですが、たくさんの人々が皆同じ方向へと我先にと向かっています。中には大きなカメラやマイクを抱えた一団もあります。男は普段全くテレビを見ないのであまりぴんと来ませんが、取材か何かでしょうか。ただ男に分かるのは、皆一様に険しい顔をしていることと、その流れがちょうど男の通う施設に向いていることだけでした。


「えー、今事件のあった障害者支援施設の前に来ています。すでに消防が消火を終えてから五時間近くが経つのですが、辺り一面強烈な焦げ臭さが残っています。え、今日午前四時ごろ、二十代の男が一階の窓を割って施設の中に入り、そのままガソリンで火をつけたと見られています。当時施設内には入居者が五二名と職員三名の方が居て、これまでで判明しているだけでも、その半分近くの二十六人の死亡が確認されています。え、消火に当たった消防によりますと、その犠牲者の大半が三階部分の屋上につながる階段で発見されたということで、迫りくる火の手から必死に逃れようとしていたことが伝わってきます。えー、そして、容疑者は午前五時ごろ警察に自ら出頭し、現在取り調べを受けているということです。取材した警察関係者によりますと、容疑者は動機について『知的障害者は生きていても仕方がないと思うからやった』と述べていて、…………」

 半年間通い続けた施設は、なくなっていました。警察が周りをテープで囲い、防火服に身を包んだ消防が玄関だったところから中へ入っていきます。何社ものマスコミがカメラを構え、その様子を野次馬がひそひそ話をしながら眺めています。道路の真ん中で泣き崩れている人がいて、暗い顔で手を合わせている人もいました。

 男が状況をうまく呑み込めず、ぼうっと突っ立っていると、警察の張ったテープの向こう側にいた人物が男へ向かって駆け寄ってきました。それは、右手にひどい火傷を負った園長さんでした。

「あぁ……、北原さん、ごめんなさい。バタバタしてて……、その、メールを送るのを忘れていました。今日は休園なんです、そう、休園。再開はいつになるか……、いやそんなことより、北原さんにはショックかも……、でも伝えなきゃいけないことが、えっと」

 男は短く、独り言のように、高橋さんは、と聞きました。園長さんの顔が引きつって、ほとんど苦笑いのようになります。

「高橋さん昨日は夜番で……、多分、寝たきりの人たちを逃がすために一人一人屋上まで運んで…………、でも扉が開かなくて、それで、それで……。消防の人たちが、階段のところで見つけたって、その、高橋さんの…………」

 どうやら男は、絵を渡すことができなくなったようでした。


 電車の中にある男が居ました。何の変哲もないはずの平日のお昼時ですから、車内はそれほど混雑しておらず、空席も充分あります。ですからその男はそのうちの一席に座っていました。ただ、流れる景色に目を向けています。

 男にはすべてがどうでもよかったのです。男と向かい合って座っている女性は包丁で男の腹を裂こうとしているでしょう。目の前を通り過ぎる男子高校生は腹部に自家製のダイナマイトを巻いて神に祈っているし、隣に座る親子はパブロ・ピカソとジョルジョ・デ・キリコの生まれ変わりに決まっています。

 けれどそれがどうしたって言うのでしょうか? 男は微塵も気になりません。

「北原サンコンニチハ。特ニハコレ書イテ。書道……。水墨画ッテイウノカナ。何カアッタラ遠慮セズ。大げさですよ。北原サンメチャクチャ上手イジャナイデスカ、スゴイ……。アァ、北原サンゴメンナサイ、階段ノトコロデ見ツケタ、高橋サンノ、イタイ。完成ヲ楽シミニシテイマスネ。あなたが好きでした、ずっと幸せでいてほしいです」

 男がおまじないを唱えていると、ドア前に陣取る青年二人が男のほうにチラと目を遣ってヒソヒソ話し始めました。あの人やばいな。あれじゃね、この近くにあるショウガイ者施設の。ニュースになってたやつ? そうそう。あれかぁ、でもあの人みたいなのがいっぱいいるって考えると犯人の言うことも一理あるよな。えぇ、それはないでしょ、あれは共感しちゃいけないタイプ。まぁな、犯人は犯人でやばい人っぽいし、どうせ俺らには関係ない話だしな。あー、結局それ、関係ない話。

 彼らは知っているのだろうか、と男は疑問に思います。彼らと全く同じ『健常者』であるはずの高橋さんが、殺されていることを。多分知らないだろうし、本当のところ興味もないんでしょう。仮に知っていたとしても、彼らの言う『関係ない話』であることには変わりありません。自分たち普通の人とは全く違う世界で、やばい人がちょっとおかしい人たちを殺した、と考えているんでしょう。

 男がふと、自分の手に握られていたはがきサイズの紙を見ると、あの暖かく、優しい笑みを浮かべた高橋さんの似顔絵が、描かれていました。あぁ、と男は思います。

 俺も俺以外もみんな頭がおかしいんだ。

 

 

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

想いの昇火 rei @sentatyo-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る