第17話 聖女と魔女の願い
「ジャンヌ・ダルクはオルレアンを救った、フランスの救世主なんでしょ? それなのにどうして処刑されたの? ジル・ドゥ・レみたいに何か悪い事をしたの?」
困ったようなジェルメ。きっと、思い出したくないことのはずだ。もちろんあたしだって聞きにくい。
「嫌な気持ちにさせちゃってると思うけどね、でもあたしだけ何も知らないのは寂しいって言うか。その、ジェルメが言いたくなかったのは分かるんだよ?」
自分勝手かもしれないけど、これ以上知らないふりはできないんだ。
「それとも今のあたしにはまだ早いと思う?」
「マリー、お姉さんになったのね。私が思っているよりもずっと」
目を細めて髪を撫でてくれる。
痩せっぽちで一人じゃ何にもできない。守ってもらわなきゃ生き延びることすらできなかった、無力な存在があたし。
「けど怖い体験も乗り越えたし、野宿だって平気になったし、ザントライユにも慣れたもん」
「そうよね! 修道院じゃ考えられないくらい色んな経験をしたものね。私もそうだった。お父さんとお母さん、きょうだいと一緒に毎日畑仕事と羊の世話をして、教会に行く生活だったのにね。けれどある時、黒い騎士が現れて、この家の本当の子じゃ無いと告げられてすべてが変わってしまった。いきなり足元の地面が消えたような感じ」
そんなことって。
修道院にいた頃のあたしなら「そんなのあるわけないし」って興味すら示さなかっただろう。けど今は違う。
「私は一体誰なのか、何のためにこんなことをされたのか、私を連れ出した黒い騎士は何一つ答えてくれなかった」
「そんな…、いきなり連れて行かれてよく従ったね。逃げようと思わなかったの?」
「もちろん最初は受け入れられずに、泣いてばかりいたわ。けれど、言う事を聞かないなら家族を殺すと脅されて。もう分かるわよね、黒い騎士はアンジュー公の家来。そんな大きな力を前に私なんかがどうひっくり返っても敵うわけないし、家族を救えるはずもない。言われた通りにするしかなかった」
うわ、レ家の領土を狙って修道院を襲撃したブルターニュ公も悪人だけど、アンジュー公って人もなかなかのワルだ。人の人生を何だと思ってるんだろう。
「それからは必死よ。髪を短く切って、馬の乗り方を覚えて、剣の持ち方や鎧の着け方を叩きこまれて。ちょうどマリーと同じ歳か、もう少し上の頃だったわね」
「…だから助けてくれた時、あたしの気持ちが分かると言ってくれたんだね」
そうだったんだ。
それまでの人生で大切に思っていたもの全てと切り離され、大きな力であらぬ方向に捻じ曲げられてしまった。あたしとジェルメは同じだったんだ。
「その後、故郷のドムレミ村がブールゴーニュ兵に襲撃されたの。家族は無事と聞かされたけど、友だちが何人も犠牲になったって…。だから戦なんて大嫌い。戦に関わりたくなんてなかったのに、逃げることすら許されずに、近い将来戦の道具として使われるのだと思うと、たまらなく嫌だった。心も体もどん底まで落ちてね。けれど家族が安心して暮らせる、戦のない世界という願いだけは消えなかった」
それは真っ暗な海を進む小さな船。行く先を照らすのは、頼りなく細い一筋の灯りだけ。糸のようにきっと朝日に繋がっているのを信じて、船を漕いでいく。
「シャルル様がフランス王座を取り戻したら、フランスを一つにしてくれる。そしたらきっと戦が終わる。そう思った時、”声”がしたの。『フランスを救え』と」
「声? だれの声?」
「こんなこと言うと笑われるかもしれないけど、神様の声だと思ったのよ。行動せずにはいられない、体の奥底から何かが湧いて来るような声だった。だから、大嫌いな戦場にも立ち向かえたんだと思う。その声が私に宿り力を与え、王太子シャルル様の元へ導いてくれたの」
「すごい…! 奇跡みたいだね! 王太子さまに会ったの?」
「ええ。でもいきなり現れた田舎娘に王太子さまはいたずらをしたかったみたいでね、謁見の場で下級貴族と入れ替わっていたのよ。王太子の恰好で待っていたのは全然別人で、本人は末席で突っ立ってて。ほんとお貴族ってしょうもないことするわよね」
「それでそれで? ジェルメはどうしたの?」
「速攻で見破ってやったわ。王になる人とそうじゃない人なんて、持ってるオーラが全然違うのよ」
「すごいすごーい! ていうかジェルメはオーラが見えるの?」
「見えるっていうか、感じる程度だけどね。そんなに特別な能力じゃないと思うけど? フィリップ様もなかなかのものよ」
「あっ、それは分かるような気がする。なんかこう、ほわ~っとさせるんだけど、自然に背筋が伸びちゃうっていうか」
「そうそう! それからはバタールが話した通りね」
オルレアンの戦いでイングランド軍を破り、窮地のフランスを救った救世主の
「ジャンヌ・ダルクのおかげでシャルル様は即位し、フランスを救ったんでしょう? それがどうして処刑になったの?」
「捕まってイングランドへ引き渡された私を待っていたのは、宗教裁判だった。フィリップ様が仰った通り、イングランド軍総帥のジョン・オブ・ランカスターはどうしても私を消したかったのね。救世主という存在を打ち消すには私を異端者、つまり悪魔と契約した魔女に落とすしかなかった。私が聞いた声は神様ではなく悪魔の声で、そそのかされて男物の服を着て、生まれながらの性を偽り戦をしたのが罪らしいわ」
「けど偽っていたわけじゃないよね! ジャンヌ・ダルクが女性だって、バタール様もポールもザントライユもみんな知ってたし、服が違うだけで…。ひどいよ。何にも悪い事してないのに」
ランカスターのジョンって人、許せない。もう死んじゃっててよかった。
「けれど私が叫んだ『フランスを救え』という”声”のせいで多くの人が参戦して、本当は死ななくてもいい人たちがたくさん亡くなったでしょう? だから罪を認めようと思った。私は地獄へ行くべきなのよ。なのに…」
ずっと穏やかに語っていたジェルメが、その時初めて唇を引き結び、眉根に力を入れた。
「なのにどうして姉さんは、身代わりになれと言われて頷いたのかしらね。家族だから? 私を愛していたから? だとしたら本当の聖女は姉。私は
死んでしまったお姉さんが何を思っていたのか、本当のところはもう分からない。
そのチカラゆえ、慕い愛してくれたものを死へと向かわせる魔女。ジェルメが抱えてきた葛藤は、体の中を焼き尽くすほどに熱く苦しいものながら、決して煤になり消えることを許さない。生きている限り続く、永遠の火あぶりだ。
なのにジェルメはそんな素振りは一つも見せずに、いつも柔らかくあたしを包んでくれた。
「ジェルメ、故郷のお父さんとお母さんは? きょうだいたちは今どうしているの?」
「分からない。村を再興して生活してると聞いたけど…」
「確かめてないの?」
「……、何も知らされず、薬を盛られて眠らされてね。私が目覚めた時にはもう、姉は骨と灰になっていたのよ。これじゃどんな顔してのこのこ会いに行けばいいのか分からないわ。だって私なんかいなければ、父と母が実の娘を失うことはなかったでしょう。きょうだいだちだって同じよ」
私なんか産まれてこなければ。存在しなければ。
その方が良かったんじゃないか。
思いはマリーも同じだった。でも、いつかあたしが受け入れられるようになったらジル・ドゥ・レのことを話さなきゃならないとジェルメは言ってくれた。
「だからジェルメにもお父さんやお母さんと———」
その時、部屋の扉がバタンといい、マリーの言葉は遮られた。
はっとジェルメの顔がこわばり、部屋を見回すがもちろん誰もいない。警戒しながらドアを開け、左右を確認するが、異常はなかったようだ。マリーを安心させるように、また寝台でくっついて座る。
「アンジュー公の陰謀で姉がジャンヌとして処刑されて、私はジェルメと名を変えた。けれど私は”声”の力を失ったどころか、普通に喋る事すらできなくなっていたの。そんな時に癒して助けてくれたのがアニエスさんよ。あんたが魔女ならアタシは魔女王さ! なんて言ってくれてね」
「だからあたしのことも連れて行ってくれたんだね」
アニエスの愛情深さにはマリーもずいぶん助けられたと思う。
「回復するには何年もかかったけれど、アニエスさんは根気強く支えてくれてね。その間何度も死のうとした面倒くさい小娘なのによ? 一度はプレラーティに救われたこともあったわ」
「えっ⁉ そっか、アニエスさんの弟子だったんだっけ」
「何人かのお弟子さんがあの館に住んでいてね。私がこっそり毒をあおろうとしたのを見ていて、『その毒では時間をかけて喉を焼かれて苦しむだけで、死ねません。やるならこっちの方が即効性があっていいですよ』って後ろから声をかけてきたのよ。飲んでみたらただの糖水で『ほら、すぐ落ち着いたでしょう?』って。毒気抜かれたわ」
「へぇ…。その頃はいい人だったんだ」
「今より多少はマトモだったかもしれないけど」
ジル・ドゥ・レに子供たちへの残虐な仕打ちを指南したのは、このプレラーティなのだという。
オルレアンを出てから一度襲われて以来、姿を見せなくなったけれど。
「…また来るのかな」
ここは天下のブールゴーニュ公宮殿。とはいえ、さっきバタンと閉まったドアに、背筋がうすら寒くなるのだった。
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