第16話
いよいよ鈴音の出番だ。
演目はドン・キホーテ三幕よりキトリのヴァリアシオン。
ドン・キホーテ。
原作はセルバンテスの同名小説。
振付はマリウス・プティパ。音楽はレオン・ミンクス。
1869年12月26日にモスクワのボリショイ劇場で初演された。
舞台はスペインのバルセロナ。小説では、騎士道物語を読み過ぎた老騎士、ドン・キホーテが主人公だが、バレエは若い恋人達の物語となっている。
クラッシックバレエの高度な技術に加え、スペイン舞踊も取り入れられている。演技的な要素も盛り込まれ、楽しく華やかな演目として知られている。最大の見どころは、三幕の結婚式の場面で踊られる、キトリとバジルのパ・ド・ドゥだ。
(でも……)
ドン・キホーテは情熱的なイメージがあり、鈴音がキトリを踊ることが意外だった。
かき鳴らされるハープの音色に、期待を煽られるも、鈴音の姿はない。
(え? も、もしかして!?)
鈴音が踊ろうとしているのは……。
「……ロシア風か……」
咲良は身を乗り出すと、食い入るように舞台を見つめた。
「やるね~! これは扱いが難しい……」
「うん……」
鈴音はロシア風のキトリを踊るつもりなのだ。
キトリの振り付けは英国風も有名だが、ロシア風は英国風に比べて、ジャンプや回転などの大技が無い。見栄えのする目立つ動きがないために、下手をすると、印象が薄くなってしまう。連続するパ・ド・ブレも至難の業だ。鈴音はどんなダンスを踊るというのか。
ハープの
小鳥のように軽やかで、それでいて、木の床に鋲を打ち込むような力強いパ・ド・ブレ。
舞台中央に立つと、手にした扇を頭上に掲げてポーズ。
艶やかな姿に心臓がぎゅっと掴まれるようだ。
(すごい!)
出だしのパ・ド・ブレは、このヴァリアシオンの命と言える。
鈴音は最高のスタートを切ったのだ。
ルティレをしながら移動。
ポジションの正確さ、膝の高さも申し分ない。
アティチュードでポーズ。
バランスの長さに感嘆の吐息が零れる。
そして、最大の難関。
移動せずに、その場でルティレを何度も繰り返すのだ。
上半身は柔らかく。扇を持った腕を優雅に動かしていく。
初めは、ポーズの美しさを見せつけるようにゆっくりと。
音楽は徐々にテンポを上げるが、ポジションが崩れることは無い。
リズムに遅れることなく正確に、鈴音はステップを踏み続ける。
だが……彼女の素晴らしさは技術だけではない。
―― 型 ――
鈴音はそれを極めたのだ。
“らしさ”とも言える。
ドン・キホーテは民族色の濃いバレエだ。カスタネットに合わせて踊ったり、フラメンコを取り入れた振り付けもある。作品の特徴をダンスで体現しなくてはならない。
腕の動き、顔の向き。扇子を操る手の角度。
細心の注意を払い、鈴音はキトリを演じ続ける。
明るく、勝ち気で町一番の人気者。
過ぎるお転婆も、笑顔の前では許される。
父親に恋を反対されれば、駆け落ちも辞さない。
キトリと恋人のバジル。
町中が若い二人の味方なのだ。
情景が浮かぶようだ。
スペイン。
ヨーロッパの南西に位置するイベリア半島。その大部分を占める情熱の国。
だが、広大な国土の大部分は不毛なのだ。
「スペインはね、他のヨーロッパの国とピレネー山脈で遮られていることや、アフリカに近いせいで、独特で複雑な文化を築いたんだ。それと国土の大半を占めるメセタという不毛な台地や、厳しい自然環境がスペイン人の情熱的で誇り高い気質に影響したって言われているんだ」
スペイン語のレッスンの合間に、結翔が教えてくれたことだ。
異民族の侵略に厳しい気候。
住む者にとって、どれほど過酷なものであったか。
だが、彼等はそれを乗り越えてきた。
陽気で情熱的なダンスと共に。
中世の街並み。生活を営む人々。
肉屋に仕立て屋、日没を待つ安酒場。打ち鳴らされるカスタネットに、挨拶代わりのフラメンコ。男達に酒を振舞う闘牛士。
賑やかで、猥雑な、歴史深き石畳の街。
古都に育まれた幼馴染の恋。
障害を乗り越え、キトリとバジルは結ばれる。
街をあげてのお祭り騒ぎ。音楽にダンス、繰り返されるは乾杯の声。
キトリのヴァリアシオンは、晴れの結婚式で踊られるものだ。
女性らしく華やかに、そして花嫁の初々しさを演じなくてはならない。
鈴音は巧みにそれを表現していく。
鈴音には演技力があったが、それ以前の問題なのだ。
古典バレエの振り付けには、受け継がれた型があり、鈴音は徹底して伝統を踏襲したのだ。
腰に手を当て、シェネターンをした後、アティチュードでポーズ。
鈴音のダンスが終わった。
全出場者の演技が終わると、私と咲良は、ロビーで結果を待つことにした。
自販機で珈琲を買うと、空いている席に座る。
「……どっちかな?」
「……どっちって……何が?」
「一位……」
咲良が紙コップを手に、審査員のように考え込んでいる。
彼女が悩んでしまう気持ちは十分に理解出来た。
今日の出場者の中では、光里と鈴音がダントツだった。
残るは、どちらが一位になるかという問題だろう。
光里のディアナは、恵まれた体格を生かしたダイナミックなものだった。
ジャンプも高く、切れも良かった。
一方、鈴音のキトリは、役作りへの強い意欲が見られた。
小柄であるからこそ、繊細で緻密な表現が際立つ。
ステップも完璧で、古典バレエのお手本のようなダンスだった。
光里と鈴音。
甲乙つけ難い二人の演者に、審査員も頭を抱えているに違いない。
「引き分けは? 両方とも一位とか……」
「あり得る」
私の予測に、咲良が納得したように頷いた。
休憩時間の後は、いよいよ結果発表だ。
結果は納得のいくもので、順位が上がるほど、その感は強まった。
だが……。
問題の一位は予測がつかない。
果たして、審査員はどんな決断を下したのか。
三位の発表。
そして……。
「……二位……ドン・キホーテ第三幕よりキトリのヴァリアシオンを踊った、白河鈴音さん……」
わっと、歓声が上がり、ざわざわとした空気が広まっていった。
残るは一人だけ。一位は光里に違いない。
どちらが一位になっても嬉しいけど、双方が友達だから緊張してしまう。
「そっかー。仕方ない。これがコンクールだから……」
「そんな! 二位だって凄いよ!?」
「さっ、沙羅!? 突然どうしたの!?」
ふっ、ふみゅー!
熱くなり過ぎた私に、咲良がドン引きしている。
「ごめん……驚かせちゃった?」
「いいよ。気持ちはわかる。いい勝負だったものね?」
「……勝負だなんて……」
熱くなり過ぎた私に不穏当な物言いの咲良。
どっちもどっちで笑ってしまう。
「ほら! 一位が発表になる。結果はもうわかっているけどね?」
咲良が指さす壇上に目をやると、開会の宣言をした人物が、緊張した面持ちでマイクの前で姿勢を正した。
そして、観衆が見守る中、勝者の名を告げるのだった。
※パ・ド・ブレ
移動の
つま先立ちの状態で、脚を交互に細かく踏みながら移動します。前後左右、それぞれの方向に進みます。
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