第2話 2021年4月1日ーはじまりはいつもファーストポジションからー

 

 2021年4月1日。

 

 爽やかな風が吹く晴れた午後。

 

 有宮沙羅(ありみやさら)は、家族と共に五年ぶりの我が家へ向かっていた。

 父の転勤が終わり、ようやく懐かしい街へ戻れるのだ。

 

 沙羅は高校への入学を控えた十五歳の少女だ。

 曾祖父をフランス人に持ち、ミルクティー色の髪と金茶の瞳。

 腰まで伸びた髪は、風に乗って金色にたなびき、瞳は光を弾いて琥珀(アンバー)に輝く。

 たまご型の面立ちに、白い肌、大きな瞳を縁取る長いまつ毛。

 

 母は幼い沙羅の頬を撫でながら、

 

 「ジュモーのビスクドールみたいね」

 

 と言った。

 

 身長はこの前図った時は164cmだったが、まだ伸びるだろう。

 だが、何よりも人の心を捉えるのは、沙羅の品のある仕草と、しなやかな動きだった。

 これは六歳から続けているバレエの訓練による賜物だ

 

 ―― バレエの練習はいつも、第一(ファースト)ポジションから始まる。

 

 踵をつけて、まっすぐに立つ。

 これが第一ポジション。

 膝はまっすぐに伸ばす。

 

 バランスをとるためにバーに手を添えると、ひんやりとした感触が手に伝わる。

 

「膝を伸ばして! 沙羅ちゃんの長い脚をみんなに自慢するつもりでね!」

 

 と、教師は言った。

 

 そしてプリエをする。

 膝をゆっくりと曲げる動作のことだ。膝は爪先と同じ方向に。

 緩やかな動きだが、バランスをとろうと、体中の力が総動員される。

 バーを握る手に思わず力が入る。

 

 (だめよ! バーは添え物なのだから! 自分で立たなきゃ!)

 

 ぴりりと心を引き締めれば、伸びた背筋に音楽が通り抜け、心が高く舞いあがる。

 風に乗った羽のように。

 

 次はバーを離れてのレッスンだ。支えが無くなるけれど、自由に動けるのが楽しい。


 水を零した床を濡れないように爪先で歩く。


「目線は遠くにね。夢を見るように。向こうにおとぎの国があるのよ!」


 言われるままに目線を上げ、軽く胸を張り、爪先に神経を集中させる。

 

 踵を下ろして斜めに立つ。

 軸足に重心をかけ、もう片方の足を前に出しながら、沙羅は古い記憶を手繰り寄せる。

 

 「足を出すときは、足の裏で床の埃を残らず拭き取るイメージで!」

 

 そう言われた時、可笑しくて笑ってしまったが、あの表現は的確だった。

 その教えを守ることで、沙羅の踊りは上達したのだから。

 

 沙羅は踊りながらも、教師の言葉に集中する。何一つ逃してはならない。

 

 斜めの角度はスマホカメラの自撮りのようにダンサーを美しく見せる。

 加えて長い手足に、小さな頭、ミルクティー色の髪に金茶の瞳。

 鏡の中の自分は、パリ・オペラ座バレエ学校の少女のようだと思う。

 

 そして、心の中で叫ぶのだ。

 

 “ねえ! 沙羅を見て! 私って綺麗でしょ!”

 

 と。

 

 幼い日、沙羅は何にでもなれた。プリンセスでも、可憐な村娘でも、妖精でも。

 自分は何にでもなれるのだと信じていた。


 あの日までは……。



 ――ガタンッ!



 車が揺れる。


「大丈夫?」


 助手席から母が覗き込んでいた。


「目が覚めちゃったわね。よく寝ていたから起こさないようにしていたのに」

 

「……夢を見ていたの。六歳でバレエを習い始めた頃の……」


「まぁ。そう言えば、沙羅ちゃん。そろそろレッスンを再開しなきゃ。怪我も治ったし、受験も終わったんだから。こちらはね、お教室の本部が近いの。先生も“お待ちしてます”って仰ってくれて、本当にありがたいわ」


「は〜い」


 沙羅はいつものように返事をし、言いそびれたことを後悔する。

 

 「バレエを辞めたい」


と。



 車がバス通りを抜け、細い道に入った。家の間を縫うように走ると、懐かしい光景が窓外に広がる。


 やがて、車は一軒の家に止まった。


(いよいよ着いたんだわ! 私たちの家に!)


「沙羅ちゃん。空中庭園には入らないでね。パパが点検をするまで待って。フェンスとかが壊れていると危ないでしょ?」


 母の言葉に、沙羅は「わかったわ」と返事をする。


 沙羅の家は白いタイル張りの二階建てで、二階中央は空中庭園になっている。

  空中庭園というのは、屋内にある小さな庭のことだ。空中庭園の下、一階中央には客間がある。

 

 陸屋根のこの家は、中央に屋根がないため、上向きに開いた、窪みの浅いコの字の様な印象を与える。


 この家は二所帯住宅で、空中庭園を挟んで、正面向かって【右側】が沙羅と両親、【左側】が祖父母のスペースだ。

 それぞれに、キッチン、浴室、トイレと独立した玄関があり、互いのプライバシーが保たれるように設計されている。

 だが、祖父は“元気なうちは二人きりで暮らしたい”と言って、今は葉山の賃貸マンションで暮らしている。

 

 それで、父の転勤中、“人が住まないと傷むから”と、【左側】を貸すことになった。


 父の転勤で家を出る前、空中庭園は沙羅のお気に入りの場所だった。

 花壇や小さなガゼボ(東屋)があり、ガゼボの下にはベンチとテーブルが置いてある。

 天気の良い日は、ベンチに腰掛けてお茶をすることが、沙羅の日課だった。

 もっとも、今日は引っ越しの作業で、それどころではないだろう。

 

 遅れて到着した段ボールの山を片づけ、それは夕暮れ時まで続いた。


「今日はここまでにしましょう」


 母の言葉で作業は中断し、買ってきた惣菜で簡単な夕飯を済ませることにした。


 積み上がった段ボールをくぐり抜けるように自室へ入る。


 五年前と変わらない街。懐かしい家。でも、沙羅にとって、一番身近なところが大きく変わっていた。


 間もなく日付が変わろうとする夜更け。


 沙羅は、自室の窓から【左側】を見た。

 空中庭園のフットライトが、自分たちの住む【右側】から【左側】まで続き、周囲を仄かに照らしている。

 

 間借り人は未だ戻らない。

 

 自分たちの帰宅は知らせてあるのに、留守にしているのは非常識ではないだろうか?


(……いけない…決めつけちゃだめよ、沙羅!)


 間借り人にも都合があるのだ。

 それに会ってみたら、いい人かもしれない。


 今日は疲れているから休むことにした。



 ブランケットにくるまると、車の中で言いそびれた言葉が、頭の中でぐるぐると回る。

 

 「バレエを辞めたいの」


 怪我が治り、受験も終わった。休む理由が無くなった今、曖昧にしていたことに決着をつけなくてはならない。


 教師は子供のころから目をかけくれたし、両親もレッスンが続けられるように助けてくれた。

 バレエは自分の努力だけで続けられる習い事ではないのだ。

 それを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 そしてなによりも……。


 ―― 沙羅はバレエが好きだった。


 目をつむると楽しかったことを思い出し、涙が頬を伝う。

 

 幼い日、沙羅は何にでもなれた。プリンセスでも、可憐な村娘でも、妖精でも。

 自分は何にでもなれるのだと信じていた。

 

 あの日までは……。

 

(車の中であんな夢を見たせいだわ……)

 

 明日が春休みでよかったと思う。

 泣きはらした顔で学校へ行かずにすむのだから。


 ※ジュモー

 ビスクドールの製造会社です。

 ビスクドールは19世紀にヨーロッパの令嬢、貴婦人の間で流行しましたが、現在は製造されず、アンティークドールと呼ばれるようになりました。

  



 

  

  

  


  

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