第3話 日本人のアンチコメント

 私はよくYouTubeを見ます。好きなアーティストの方の音楽を聞きます。そしてそれと同時にコメント欄も読みます。自分と同じ思いであったり、新しい見方なんかを発見するのが好きだからです。 


 しかし、たくさんのコメントの中には、一定数、批判的なコメント───アンチコメントもあります。動画や出演する人に対するものや、コメントに対するもの。善良なコメントに対してまで、その刃は向けられます。その度に私は、ああ、本当にくだらないとため息をつきます。


 これは私の偏見なのですが、日本人って、(YouTubeに限りますが)アンチコメントを投稿する人、そしてそれに突っかかっていく人が多いような気がしています。


 たまに、外国の方のコメント──英語圏の方の──を読みますが、批判的なものを全く見たことがないです。これはいったいどういうことなのでしょうか。


 私はYOASOBIが大好きです。普段からYOASOBIの楽曲に元気付けられています。


 さて、先日、WOWOWでYOASOBIの有観客ライブを放送していましたね。私は見ることができませんでしたが。その動画が(いいことではありませんが)YouTubeにアップされていました。なので私はその動画を堪能し、いつもと同じようにコメント欄を開きました。


 するとびっくり。罵詈雑言の嵐が吹き荒れているのです。歌が下手だの、水泳でもやって体力つけろだの、それはもう吹き荒んでましたよ。


 なぜそういったことが書けたのか。私には到底理解できませんが、これはおそらく、YOASOBIへの「期待」から来るものだと思いました。


 少し話が飛びますが、この前、直木賞を受賞された米澤穂信さんの著書「古典部」シリーズが私は大好きで愛読書にしています。そのシリーズのとある一冊で、米澤さんは「期待をする」という行為を、「自分に自信がある時は使ってはいけない。期待というのは諦めからくるものだから、そうせざるを得ないどうしようもなさがないと空々しい。」と主張していました。


 その部分を読んで、私は1人、「はあ!」と声を吐き出しました。全くその通りだな、と。


 もし自分に相手と同等の、もしくはそれ以上の能力があるのなら、期待───なにかを諦め、相手に自分の分まで背負わせること───をしなくても良いのだから。


 誰かを批判する人の中には、期待を裏切られ、失望した。そんなふうに感じている人も少なくないのではないのでしょう。


 けれどもそれはお門違いもいいところではないでしょうか?

 持たざる者は、自分にはできないから君に託すよ、なんて勝手に持っている者に背負わせて、できなければなぜできないのだ、私は君に期待をしていたのに、と罵る。

 勝手に上乗せしていたものなんて、最初っからなかったかのように、それが当然だとでも言うように。


 これも米澤さんの言葉の受け売りなのですが、この世界の人たちは期待と言う言葉を容易に使いすぎている。その言葉の持つ重みがどれほどのものかも知らないで。


 知ろうとしないこと、無意識なことほど怖いことはないと思っています。何事に関しても。


 最後の方、自分でも考えがまとまらなくなって、よくわからない文章になっていますが、少しでも私の言いたかったことが伝わってくれたらいいなと思っています。


今回参考にさせていただいた小説は、

「クドリャフカの順番」 米澤穂信 /角川文庫      です。


 

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