5G

伴美砂都

5G

「あのね、5Gを浴び続けると頭の中にきのこが生えるでしょ?」


 美郷みさとが待ち合わせに指定したのはカフェとは名ばかりのほったて小屋のような建物で、私はうっかり三度も前を通りすぎてしまった。けれど、ここ知り合いがご家族で経営しててオーガニックなんだ、と嬉しそうに言う美郷の顔を見たら文句は言えなかった。

 目の前に差し出された名刺大の紙はテーブルに溶け込む鈍い茶色で、中央にはまだ見慣れない美郷のフルネームと一緒に、電磁波が地球と子どもに与える影響を考え護る会、という文字が横幅ギリギリに印字されている。創英角ポップ体。美郷が結婚した人の顔を、そういえば私はまだ見たことがない。


「だから阻止しなきゃいけないの、5Gを」


 その読み方ってごじーでいいんだっけ、ふぁいぶじーじゃなかったっけ、と軽く口に出すには、美郷の表情はあまりに真剣すぎた。そういえばこのお店にはwi-fiのマークはない。

 お待たせしましたと頭上から声がして、ランチプレートが運ばれてきた。一種類しかないパスタランチ。なんとか麦だかべつの穀物だったか、身体にいいのだというなにかの入った麺はぽそぽそとした見た目で、失礼だけど不味そうだ。具はなにかわからない緑のものと、きのこが入っている。あ、きのこ、と思ったけど黙ってグラスの水を飲んだ。夏の暑い盛りなのに水は常温で、てろんとした感触をのこして胃の中へ落ちていく。


「それで津田さんちのサトシくんもコミュニケーションに問題をかかえていたでしょ、いじめとかもあって、ほら、みんなちょっとでも自分たちと違う人のことまあいじめってわけでもないかもしれないけどきっと臆病っていうか?怖いんだよね人間ってさ、どんなかっこいいこと言ったって口だけではさ、ね、仲間外れになるのが怖いの、だから他人を仲間外れにするんだよねいじめたり、あたしだってそうだったもん銀行では、でも中田部長はかわいがってくれたんだけどね、でもそれも5Gなんだって、みむちんにも前その話したんだけどね、毒されてしまった人たちはもうどうにもならないけど、少なくとも電波をぜんぶ抜いたら普通学級にも戻れるしって、田村さんが」


 津田さんという人も田村さんという人も中田部長という人も、みむちんという人も私は知らない。みむちんは三村さんだろうか、それじゃ見事に田んぼと村ばかりだ。三村じゃないかもしれないけど、それ以外に「みむ」のつく名前の人を知らない。そもそも人なのか、いや人なのだろうけれど。だれの子どもがどこに戻ったのかも、一度聞いただけではよくわからなかった。みむちんはその話を聞いて何と言ったのだろうか。

 頭の中、脳の上半分をすぱんと切り落としたようなクリーム色の平面に、無数のきのこがさわさわと揺れる光景がまぶたの裏に浮かび、くっと喉が詰まった。そっとお皿から目を逸らすと、斜め向かいの空いた席に置かれた美郷のかばんは何が入っているのかぱんぱんに膨らんでいて、ぺたんとした花の形のキーホルダーがファスナーについて少し揺れている。


「なぎちゃんの職場も5Gって飛んでるの?デパートだから飛んでるよね?きっと」

「……え、っと、wi-fiは、飛んでると思う……けど」

「今どこでも飛んでるでしょ、この前だってね、5G止めてほしいってお店の人にたのんだのに、何言ってるの?みたいな感じで、本社?にも電話したんだけど、ほんと冷たい、取り合ってくれないっていうか、木で鼻を括るような対応で、言ったもんあたし、それはだって、おかしいでしょ、人として、対応が、人としてね、あ、なぎちゃんの職場が悪いって言ってるわけじゃないんだよ、違う店だからねごめんね、本部長さんって人が出てきて、やっと話を聞いてくれたんだけどね、」


 美郷がひたとこちらを見つめる視線と、話す口の前歯についた口紅の赤から逃げるようにして辺りを見回す。通りに面した窓には黄ばんだレースのカーテンがかかっていて、曇天の空を透かしている。店内に私たち以外に客はいなかった。そっと目線を戻すと美郷は下を向いて、お皿に残ったなにかのかけらを一生懸命フォークで刺そうとしていた。たぶん、きのこではないなにか。


「……あの、旦那さんも、そういう活動してるの、……その、」


 ふぁいぶじー、と発音したらなにかが壊れてしまいそうで、語尾を濁した。美郷はぱちぱちと何度か瞬きをして、ゆっくりと首を傾げ、そして、ギュンッと音がしそうなほど素早くまっすぐに戻した。しないわよおー、と言った声が突然大きくて、テーブルの下で知らず握っていた拳に力が入る。


「うちはさほらあたしがいまはパート勤務だから、まあお給料は安いんだけど、いいの、定時で帰れるし、向こうも夜遅いしね、家事はあたしになっちゃうよね、必然的に」

「……、」

「まあ、家のこと?に支障が出ない程度にはね、でもそんな大変なことしてるわけじゃないから、ただ少しでも、ほら次の世代に対する責務みたいなものがあるじゃない?」


 大学のころ美郷ととくべつ仲がよかったわけではない。でも、決して遠かったわけではない、と思う。それなのに、美郷がずっとこうなのか、なにかあってこうなってしまったのか、どうなってしまったのか、どうもなっていないのか、私にはわからない。ふっと目眩がして、軽く頭を振る。視界の端に黒い点のようなものがピッと飛んだ気がして、もしかしたらそれが5Gなのかもしれない、いや、ちがう、ここには飛んでいないんだったか。厨房の奥でギャアーッと子どもの叫ぶ声がした。あの子どもは、5Gから護られているのだろうか?


「なんか、顔色悪いみたいだけど、大丈夫?」


 私の顔を覗き込むようにした美郷と、目が合った。さっきまでこちらを瞬きもしないほどまっすぐ見すえていたはずの美郷の目が、どうしてか今、初めて私を見たような気がして、浅く息を吸った。


「うん、ごめん、……なんか、暑いからかな」


 店内は冷房の効きが悪いのかひどく暑かった。額に浮かんだ汗を、手の甲で拭う。ああ、前にも、こんなことがあった。大学の、食堂だったか、ちがう、あれは、三号棟の、講堂を出たすぐのところからバス停に行くまでの間のベンチ。あの日も、暑かった。貧血を起こしてしまった私の隣に座って、美郷は言ったのだ、大丈夫、と。同じように。


「……美郷、」


 美郷は大丈夫なの、と、言えなかった。ごめんね、帰るね、と言って、私は立ち上がった。


 美郷の名刺をテーブルの上に置いたままにしてきたことに、赤信号で止まるまで気が付かなかった。息切れしていた。美郷は私を止めることもなく、追ってくることも、なかった。信号が青になった。立ち止まって俯いたまま、汗で濡れた指先でスマートフォンの画面をなぞった。5G、というたった二文字を打ち込んで検索ボタンを押すのにひどく時間がかかり、私など見えぬように、追い越して行く人たち。

 5Gの検索結果を見る。読み方のところに、ふぁいぶじー・ごじー、と書かれているのを、見た。ああ、ごじーでも合っていたのだ。視界の端でまた黒い点が蠢いた。ごじーだ、と呟くと、顎先からアスファルトに汗が落ちた。また信号が青になった。まっすぐ顔を上げ、脳の隅に5Gを携えたまま、道を渡った。


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5G 伴美砂都 @misatovan

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