もしもロステアールが王様ではなかったら

一年以上前にある人から、ロステアールが王様になっていなかったらどうなっていたのか、と訊かれた際に書き下ろした短編です。王ではなく、中央騎士団の団長であるロステアールが出てきます。

本編とは掠りもしないどころか本編とは全く違う設定の話なので、長い間放置していました。

(こっちの方が本編よりよっぽどBLじゃねーかって言われたけど気にしない)

※唐突に終わる尻切れトンボです。




 どかっ、と。遠慮会釈なく跳ね上げられた赤の王のつま先が、深く頭を垂れていた騎士団の誉れたる男の頬を蹴り飛ばした。衝撃に身体を僅か揺らした男は、だがその場に留まり、更に深く叩頭する。男のくすんだ炎のような長髪が地に広がるのを眺めながら、王は唇の端を歪んだ形に吊り上げた。武勇に名高きこの騎士団長が床に額をこすりつけている様が、どうしようもなく愉快なのだ。

 グランデル王立騎士団の誉れ。歴戦の勇士。騎士の中の騎士。男を讃える声は途絶えることを知らず、それらはすべて事実に基づく賞賛であった。その奇跡のような騎士が、己に頭を垂れている。

 それは、王の虚栄心を満足させるに足る光景であった。

 嫡子と庶子。そこには決して覆り得ぬ身分の差があり、それは明確な主従関係となって緋色の騎士を律する。現に、王は何度もこの騎士を貶め、辱め、まるで玩具のように扱ってきたが、それに対して騎士が苦言を呈することはただの一度もなかった。

 だが、木偶のようなこの騎士の瞳が鋭さを以って王を見据える瞬間がある。

 あの、庶民の子供を話に出したときだ。王がその名を口にするだけで、ただでさえ気に食わない金色の瞳が、ひときわ強く光を放って、まるで王を睨めつけるように見つめてくるのだ。王はそれを、酷く不快に感じていた。

 地べたに押し付けられている騎士の頭を踏めば、彼は僅かに呻いた。ふと床を見れば、少量だが血液が飛散している。

 どうやら、先ほど蹴り上げた時に騎士が何処かを切ったらしい。それ自体にはなんの感慨も湧かないが、よくよく確かめれば、王の靴には僅かだが血がこびりついているではないか。

 穢らわしい、と呟いた王は、苛立ち任せに足下の頭を踏み躙った。だがそれだけでは飽き足らず、叩きつけるようにして何度も何度も騎士の頭に踵を振り下ろす。癇癪じみたこの行為は、その異様な光景に反して、日常的に行われているものだった。

 騎士の唇や鼻から溢れた血液が、じわじわと床に広がる。

 暫くの間足を振り下ろし続けた王だったが、ようやく満足したのか、床に顔を伏している騎士の横面をもう一度蹴り飛ばしてから、玉座に戻って腰を下ろした。そして、相変わらず歪んだ笑みを象る唇を開く。

「庶子の血で床が汚れた。そこは王たる私が歩む場所だぞ?」

「……申し訳ございません」

「そう思うなら、床を舐めて血を洗うくらいの誠意を見せろ」

 酷く楽しげな声に、騎士は顔を上げぬまま血に濡れた唇から舌を差し出した。そして、そろりと舌先を床に触れさせる。

 大理石でできたそれは冷たく、舌に触れた血液は、錆と埃の味がした。

 騎士が床に散った己の血液を舐め取る様を見下ろしていた王は、玉座の肘掛けを指先で叩きながら、愉しそうな声を上げた。

「そう言えば、貴様が熱を上げているあの庶民。確か、キョウヤだったか? あれは元気か?」

 その名が出された瞬間、騎士の肩がぴくりと震えた。

「……はい」

 短い回答は、それ以上の追及を拒みたかったが故のものだ。だが、王は許さない。そして、そのことを騎士は知っていた。

「よほど気に入っているらしいなぁ。見目麗しい訳でもなし、何か才がある訳でもなし。そこまであれの抱き心地は良いのか?」

 あからさまな嘲笑を含んだ声に、騎士はきつく目を閉じた。

 抱き心地など、知るものか。抱いたことがないのかと問われればそれは否であるが、騎士があの少年に見ているのはそんなものではない。

 ただ、彼が唯一だっただけだ。彼の笑顔が騎士の幸福であり、彼の涙は騎士の悲嘆となる。それだけなのだ。

 だが、騎士にはそれを伝える方法が判らず、そして伝えられたところで王がその言葉を受け取ってはくれないことも知っていた。

「……はい」

 己の意志に反する空虚な肯定が唇から滑り落ちる。ああ、なんと醜いのだろう。これは疑いようもなく裏切りではないか。自分に向かって綺麗だと微笑んでくれた彼を侮辱する行為ですらある。彼の言葉を何よりも尊いと思うのならば、騎士は常に美しくあらねばならぬのに。

 騎士の言葉が空であることを知っているのか知らないのか、王は満足そうに一つ笑い、投げ出していた脚を優雅に組んだ。

「ほう。そういったことに執着を見せぬ貴様がそう言うとは、中々に興味深い。そうだなぁ。近いうちに、私も一度相手をしてもらおうか」

 さらりと放たれた言葉に、騎士が目を見開く。そして彼は、思わずと言った風に顔を上げて、玉座に座す王を見上げた。

「お待ちください陛下、」

 言いかけた言葉はしかし、ねめつけるような王の視線を受け、続けることが叶わなかった。

「誰がその汚い顔を上げることを許した?」

「っ、申し訳、ございません」

 再び深く叩頭した騎士は、王の視線から隠れた唇を強く噛んだ。

 どうすれば良い。どうすれば良い。どうすれば、キョウヤを守れる。

「よもや、王たる私に己の玩具を触れられるのは不快だ、などとは申すまいな?」

「そのような、ことは、」

「ならば良かろう。何もお前から奪おうと言うのではないのだ。一度遊ばせろと言っているだけではないか」

「……しかし、あれは酷く臆病なのです。肌を晒すことを恐れ、他者が触れることを怖がる。……私は、あれを傷つけたくは、」

 だん、と言う音が響き、騎士は口をつぐんだ。王がその足で床を踏み鳴らしたのだ。

「私に意見するのか? たかだが騎士団長の分際で?」

「申し訳ございません」

 更に額を床に押し付けた騎士は、それでも懇願をやめない。

「どうかお許しを。私で良ければお望みのことを何でもいたします。ですからどうか、キョウヤのことはお見逃しください」

 珍しく感情を滲ませて縋る騎士に、王はその笑みを深くした。そして玉座から立ち上がり、ゆっくりと騎士へ歩み寄る。

「まあ、我が王立騎士団が誇る騎士団長がそこまで言うのならば、私も鬼ではない、その願い聞き入れてやろう。だが、ただで聞き入れるのでは示しがつかんからなぁ。そこで提案なのだが、」

 そこで一度言葉を切った王は、つま先で騎士の右肩を軽く叩いた。

「三日後に、ギルディスティアフォンガルド王国軍の大将との親善試合が開催されるだろう? それに見事勝利し、我が国の権威を示すことができた暁には、此度の話はなかったことにしてやる」

 王の提案は、騎士にとっては僥倖であった。

 ギルディスティアフォンガルド王国の大将と言えば、かの国における最も優れた軍人ではあるが、それでも緋色の騎士には敵わない。しかし、それは国王とて知っているはずだ。ならば、何故こうも簡単な条件を提示したのだろうか。

 疑問を孕んだまま、それでも騎士は深謝を述べようとした。だが、その唇が開く前に、王が先に言葉を発する。

「だが、非常に喜ばしく誇らしいことに、我が国の騎士団長の才は群を抜いて優れている。それがそのままでギルディスティアフォンガルドの大将に挑むのは、少々礼に欠けよう。そこで私に良い考えがあるのだが、」

 ぐり、と騎士の右肩を強く踏みにじった王が、未だ深く下げられている赤髪の頭を見下ろし、その顔に微笑みを浮かべた。

「貴様の利き腕、封じてしまえ」

 王の命に、騎士は僅かだけ金の目を開いた。だが、次いでその唇が小さな笑みを象る。

「……御意」

 王が自分の肩から足を離すのを待ってから、騎士は身体を起こし、右膝を立てて床に座った。そして、立てた膝に己の右腕の肘を押し当てる。

 王は再び玉座から騎士を見下ろしている。騎士は主の意図を正確に理解していた。だから、ただそれに従うだけなのだ。

 左手で右手首を掴む。掴まれている方の拳を強く握って目を閉じ、彼はそのまま、力任せに右腕を折り曲げた。

 瞬間、木の幹が折れるような音が肉の内側から響き、同時に騎士はほんの僅か眉を寄せた。常人ならば悲鳴を上げてしかるべき痛みが騎士を襲うが、彼は呼吸一つ乱さない。

 意志のままには動かなくなった利き腕を数秒見つめてから、姿勢を正し、騎士は再び深く頭を垂れた。

「ふん、つまらぬ。悲鳴のひとつも上げれば良いものを」

「申し訳ありません。しかし、私の悲鳴は耳に障るかと」

「正論だな。もう良い、興がそがれた」

 ひらりと手を振った王に退出を命じられ、騎士はゆっくりと立ち上がった。そして、再度王へ深々と頭を下げる。

「必ずや、王陛下に勝利を」

 誓いを立てるように述べてから、玉座の間を出る。己の誓約をゴミ同然に扱う相手に対する誓いほど空虚なものはないが、それでも騎士が誓いを立てるべきは王だ。

 熱を持った右腕がどくんどくんを痛みを訴え、騎士の額に僅かだが汗が滲む。だが、この程度で済んだのだから、やはり運が良かった、と彼は思う。

 少なくとも、これで騎士が試合に勝利さえすれば、暫くの間キョウヤは安全なはずだ。騎士の主は騎士を忌み嫌っているが、約束を破ることはしない。

 だが、それは本当に一時凌ぎなのだろう。キョウヤに目をつけられてしまった以上、彼に危害が加えられる未来は確定してるも同然だ。それだけは避けたかったから、できる限り彼を王宮から遠ざけていたというのに。

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