各国壁ドン事情 薄紅の国編
「壁ドン?」
薄紅の国シェンジェアンの王宮の寝所にて。公務を終えて休んでいた薄紅の王は、寝台の上にしどけなく肢体を投げ出しながら、不思議そうにそう言った。
やたらと広い寝台の上には、王以外にも数人の男女がいる。見目麗しい人間を、王自らが選りすぐって侍らせているのだ。
「聞いたことがないわねぇ」
そう言いながら王が彷徨わせたしなやかな手に、侍っている女性の一人が淡い赤色の果実を手渡す。良い子ね、と言って彼女にひとつ口づけてから、王はしゃくりと果実を口にした。それをゆっくりと味わい嚥下してから、王が壁ドンの話を振ってきた美男へと視線を投げる。
「それで、その壁ドンとやらがどうしたと言うの? 今夜は気分が良いから、話を聞いてあげても良くてよ」
「ありがとうございます、ランファ様」
視線を向けられた男は、どこか恍惚とした様子でそう言った。薄紅の王と言葉を交わす民は、普段からその美しさに慣れている者でもなければ、大抵は王に見惚れてこうなってしまう。この男は王に見初められてからまだ日が浅いから、他の者よりも耐性が低いのだろう。
うっとりと惚けたままの男が、それでも請われるままに壁ドンの説明をすれば、王は綺麗な薄紅の髪をさらりと流しながら、小さく首を傾げた。
話をまとめると、リアンジュナイルで流行している物語の中に出てくる壁ドンという動作が人気を博している、ということらしい。
壁に相手を追い詰め、両腕で閉じ込めるようにして迫る。
正直、説明だけではそれの何が良いのかいまいちよく判らなかった。追い詰められるという状況自体が、王の性には合わないのだ。だが、民の間でそれだけ流行しているからには、流行るだけの理由があるのだろう。実際壁ドンを口にした男も随分と壁ドンにご執心のようだし、寝所に侍っている他の者たちも、皆少なからず憧れを抱いている様子だった。
「壁ドン、ねぇ。それってそんなに良いものなのかしらぁ?」
素直にそう疑問を口にすれば、その場にいた美男美女はこぞって頷いて返してくる。
「それはもう、男女問わずあのシチュエーションには憧れるというものです」
「ええ。特に想い焦がれる方にして頂けたらと思うと、胸が高鳴ってしまいますわ」
言葉と共に送られてくる熱い視線を受け、王はもう一度首を傾げた。
「あらぁ、妾には判らないけれど、そういうものなのねぇ」
そう言ってから、王はもう一口果物を齧った。
美しい者に迫って追い詰めるのが楽しい、とかいう意見ならば理解できるのだが、迫られて喜ぶというのは、王にとっては全く未知の世界だ。世の中には、王が想像している以上に、追い詰められることを好む人間が多くいるらしい。
(上から目線で来られても怒りしか湧かないと思うのだけれど、判らないものねぇ)
しかし、いくら自分に理解できないからと言って、民の感性を否定するような王ではない。全く共感はできないが、そういうのが民の望みであるのか、と思った薄紅の王は、寝そべっていた身体を起こした。
突然起き上がった彼女に不思議そうな表情を浮かべる男女を見回してから、王の美しく白い指先が、壁ドンの話を持ち出した男を指した。
「貴方、少しそこにお座りなさい」
そこ、と王が示した場所は、寝台脇の絨毯の上だった。
指示を受けた男は、戸惑いつつも従順にそこへ座る。大人しく指示に従った彼に満足そうな顔をしてから、王は食べかけの果実を隣の女に預けた。そして、自身も寝台を降りて、座ったままこちらを見上げてくる男の前に立つ。
「ランファ様?」
「どうなさったのですか?」
背にかかる幾つかの声にひらりと手を振って応えてから、困惑しながら見上げてくる男の顔を見つめる。そして王は、すっと片脚を持ち上げ、男の肩にそのつま先をかけた。
「え、ランファ様、」
男の困惑を置き去りに、足にぐっと力を籠めた王は、そのまま踏みつけるようにして、男を床に押し倒した。
王が真上から見下ろした男は、呆気に取られた間抜けな面を晒している。だが、さすがは王自らが選び抜いた顔だ。呆けた間抜け面ではあるが、それでも変わらず美しい。そのことに満足して麗しい笑みを浮かべた王は、つつ、と足を動かして、つま先で男の顎を持ち上げた。そして、艶然たる微笑みが男へと向けられる。
「どうしたの? こうされたかったのでしょう?」
壁と床で多少の差異はあれど、やっていることにそう違いはない。要は追い詰める形になればいいのだろう、と判断しての行動である。国民が望んでいるのならば、叶えてやるのが良い王と言うものだ。美しいものに囲まれて気分も良かったし、自分の寝所を華やがせてくれる者たちへ褒美をあげるのも悪くないと思った。
さて、これでさぞ満足のいったことだろう、と薄紅の王が改めて下に敷く男の顔を確認すると――
「……あらぁ」
男はすっかりと気を飛ばしてしまっていた。
足を退けた王が、しゃがみ込んで男の顔を覗き込んでみる。真っ赤に上気した顔と、昇天したようなその表情には見覚えがあった。
薄紅の王のとんでもない美貌を過剰摂取しすぎた人間が、よくこうなってしまうのだ。普段から王宮内でもたまに被害者が出るし、国民が王の舞を拝謁できる儀礼祭などでは、王の美しさにあてられて失神してしまう者が続々と現れる。そのため、薄紅の国での祭りでは他国よりも多くの救護班を用意するのが通例だ。
寝所にまで招かれる者がこうなるのは稀なのだが、この男は寝所に侍るようになってまだ日が浅い。王にはそのつもりなどなかったが、王の美しさへの耐性が低い者にとっては物凄く刺激的な体験だったのだろう。
「……困りものねぇ」
そう呟いた王が、頬に手を添えて小さく息を吐いた。
己の美しさのせいで男が失神してしまったことに困っている、という訳ではない。薄紅の王が美しいのは当然のことであり、それにあてられた者が失神するのもまた、自然の摂理だ。美しいことこそ至上としている王にとって、己の美しさで倒れる者が出るというのは寧ろ喜ばしいことである。
ならば何が困りものなのかと言うと、単に男が床に転がっているという現状が、である。これが芋であればそのままで問題ないが、男は王に認められた美男だ。美しいものを床に転がしておくのは、忍びないのである。
だが、だからと言ってこの男を寝所まで運ぶ気になるかと言うと、それは有り得ない。何故なら王は基本的に、食器類より重いものを持つつもりがないからである。
そんな状況だったので、王は早々に結論をつけた。ここに侍らせている者たちはそういうことをさせるための人手ではないのだが、自分で運ぶのはもっと嫌なので、彼らに運ばせてしまおう。
そうして指示を出すために振り返った薄紅の王は、きょとりと瞬いた。
振り返った先、寝台の上にいる男女たちの、その表情。
煮詰めたような熱が点っている顔から、正確に彼らの感情を読み取った王は、もう一度瞬きをしたあと、うっそりと艶やかな微笑みを浮かべた。
「仕方がないコねぇ」
そう言葉を紡いだ王の手が、そっと彼らに向かって差し伸べられる。
「いらっしゃい。あなたたちも踏んであげるわ」
その言葉に、全員雪崩れるようにこぞって床に降りたのは言うまでもなく。
結局その夜の王は、床に転がって気を失っている男女を余所に、一人寝をするはめになるのであった。
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