世界を知らない
酢味噌屋きつね
世界を知らない
「アラスカに行ったことはあるかい?」
男は唐突にそう口にした。お酒と、煙草と、あとはたぶん何かの香水。その全部が混じったような、そんな匂いを漂わせながら。
「いや、行ったことないですね」
僕がそう返すと男は残りの酒を全部口に放り、それを転がすように味わった。
「じゃあ、マイアミに行ったことは?」
「それもないですね」
「サンディエゴは?」
「いや、ないです」
「セントルイスも?」
「もちろん、ないですね」
「そうか」
男は質問を終えるとグラスをカウンターに置き、腕を組んだ。
「どうやら君は、あまり世界を知らないようだ」
「そうかもしれませんね」
僕は男に同意する。僕はあまり世界を知らない。それは事実だ。
「君はまだ若いから、そういうのに興味がないのかもしれないが、君が思っているより世界は広いし、君が思っているより世界は良いところだよ」
「そうですね」
「今の若い人らは自分の世界にこもってしまってるんだ。そう思わないか?」
「そう思います」
男は段々アルコールがまわってきたようで、機嫌よく声も大きくなっていく。
「そうだろうそうだろう。君は話が分かる若者だね。でも世界を知らない」
「そうですね。知らないのかもしれません」
僕は余計な口を挟まず男に同意する。と言っても口を挟む必要なんか、元よりありはしない。何故なら男の言っていることは正しいからだ。僕は世界を知らないのだ。
それから男は自分が見てきた世界の話や、自分が生きてきた世界の話をした。
その一つ一つを僕は静かに頷きながら聞いていた。同じような話を繰り返すこともあったが、特に退屈はしなかった。男の話はどれも正しかったからだ。
「ふぅ、今日は少し飲み過ぎてしまったようだ」
しばらくすると男はそう言って席を立った。掛けてあったコートを羽織り、勘定を済ませると男はこちらを振り返った。
「お先に失礼するよ。いやあ楽しかったよ。そうだ、一つ助言をしておこう」
男は一呼吸おいた後、少しよろめく足取りをなんとか堪えて僕の方に指を向けて言った。
「世界をもっと見ろ若者。世界は広いんだ」
そうして男は店を出ていった。
僕はまだ残っていた焼酎を少し口に含み、それから少し短いため息を吐いた。
「大変でしたね。あの人、いつもああやって若い人に絡むんですよ」
男が出ていったのを見計らってバーテンダーの女性が話しかけてきた。
男と話していたときも時々こちらに視線を送ってきていたが、僕はそれに手で合図を送り制止していた。おそらくずっと気にかけていてくれていたのだろう。
「大丈夫ですよ。僕が世界を知らないのは本当のことですから」
そう、男の言っていたことは正しいのだ。
僕はグラスを手の中で傾けた。
僕はまだ世界を知らない。
サンディエゴに行ったことも無ければクーリサルトに行ったことも無い。カレバトールに行ったこともないし、エンテグリティにもまだ行っていない。それどころかコンサバルチェを食べたことすらないのだ。
僕は世界の何事にも関われていないのだ。まだまだ生まれたばかりの赤ん坊と何ら変わらない。
だから男の言っていることは正しいのだ。僕は世界を知らない。地球にだってまだ3回しか来ていないのだから。
世界を知らない 酢味噌屋きつね @konkon-kon
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