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 「人が物を見るとき、外からの光が眼球の中へ入ってくることによって、映像を捉えることができるよね。


 まず角膜から入ってきた光は水晶体を通過し、硝子体で満たされた先、眼球の奥にある網膜へとまっすぐに到達する。

 角膜と水晶体はレンズ、そして網膜は映画でいうところのスクリーン、こういうイメージはマナちゃんの中にもできてるよね?


 んで、佐藤のおばあちゃんが昼間にうちのクリニックの方角で見たりなんかしていたっていう幽霊の正体なんだけど、これ結論から言っちゃうと、剝がれかけた網膜だったんだよね」



 「佐藤さんちのおばあちゃんの眼、網膜剝離してたんですね…でも、それがどうして昼間の幽霊とつながるんですか?」



 「映画のスクリーンが破れていたら、映写機で映像を流したってスクリーンに映すことができないから、物を見ることが出来ない。

 同じく、網膜が破れてしまうと人間の眼は失明してしまう、ここまではオッケーだねマナちゃん?


 で、網膜というものは、破れてしまっては絶対にダメな部位と、ちょっと破れててもそれでもなんとかなる部位があるんだよ、映画館のスクリーンだってド真ん中が破れちゃってたら映画を見るのキツイと思うけど、スクリーンのはじっこが破れてるくらいだったら、まあ最後まで映画を見れるよなぁってカンジするでしょ、これも同じこと。


 んで佐藤のおばあちゃんの網膜は、ちょっぴり端の方が破れてカーテンみたいにさ、だらんと垂れ下がって、それが眼球の中で揺らめいてたんだよね。

 その、破れて揺らめいていた網膜の一部の影が、ちょうど昼間のよく晴れた日にさ、うちのクリニックの方角を見たとき…佐藤さんの家の庭から今の時期、うちのクリニックの方角へ視線を向けた場合、太陽の位置的にとても強く明るい光線がまっすぐに佐藤のおばあちゃんの眼球へと入っていくと想定される、そういう一定のタイミングが揃うことによって初めて佐藤のおばあちゃんに自覚症状が現れるわけだ。


 角膜、水晶体、硝子体を経過し、中心窩に光がたどり着く、その平行光線の通り道の過程で、その剝がれかけた網膜の影が映り込むとき、それは不思議な幽霊となって佐藤のおばあちゃんだけに視える存在として認識される。


 剥がれかけた部位がどんどん広がっていって、大事な部分まで網膜の破れが進んじゃったら失明しちゃうからね、大学病院へ行ってもらって、網膜の破れを貼り付けてもらうんだよ。

 それが終われば、佐藤のおばあちゃんが昼間に庭で洗濯ものを干しているとき、うちのクリニックの方角で幽霊を視ることはなくなるでしょう」



 すらすらと症状の解説を終えた仁見先生は、そのまま近所のお弁当屋さんへと、本日のお得なランチ弁当をいつものように買いに出かけていった。

 

 そうして去っていく仁見先生の背中を見送りながら私は、ふうとため息をつく。(白衣を脱いで外へ買い物へ出かける仁見先生は、よれよれのパーカーを着ている…)


 なんか…結局、今回の幽霊騒動って、やる気のない仁見先生の横やりの推理で全部解決しちゃった感があるなぁ。


 私と赤間さん、二人だけの力で内密に解決させようって意気込んでいたのに、気が付いたら、幽霊の正体も、ステファニーの居場所も、『幽霊の右手』の在処も、ぜんぶ仁見先生が言い当てて解決したっていう…。


 仁見先生は、頼もしくないけど、頼りになる。

 仁見先生は、へらへらしてるけど、しっかりしてる。


 …なにこれ、なんだっけ、なんていうのかなコレ?

 矛盾? ジレンマ? よくわかんないけど、とにかく、うちの仁見先生はそういうむちゃくちゃのかたまりなのだった。


 本当だったら私がこっそりと、賢いけれども眼科の診察以外はダメダメな仁見先生を守ってあげようと思って行動していたのに、結局は、私が仁見先生に助けられてしまった。


 うーん…と私は腕を組んで、今回の事件の総括について考えてみようかとも思ったけれど、やめた。

 なんかめんどくさくなってきちゃったし、私もお昼ごはんを買いにいかないと、おなかすいちゃったから。


 とにかくこうして、私のご近所の平和は守られた。

 失恋のほろ苦さだけは私のなかに残ったけれど(しかも小学生の男の子に好きな人を取られてしまうという、微妙な結末…)彷徨える幽霊は成仏し、ステファニーはおうちに帰り、仁見先生はニートにならなくて済んだ、これって万々歳のハッピーエンドじゃんね?


 午後からも眼科診察を求める患者さんたちの予約で埋まっている、このあともがんばらないとね!

 よしっ、と気合を入れて私は仁見先生の医院の玄関扉を開け、ぽかぽかとあたたかい日光で満たされた外へと、白衣のまま飛び出していくのでした。


 

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