「生―権力と障碍者虐殺」
フーコーの権力分析の濫觴は、『なぜ近現代の全体主義と戦争は、健康主義から発軔したのか』という謎であった。
たとえば、ナチスにおいて、『ヒトラーによる禁煙運動がT4作戦や猶太人大虐殺および第二次世界大戦のはじまりであった』ことは常識となっている。
この禁煙運動からはじまった全体主義の構造を、フーコーは『生―権力』と呼んだわけだ。
『生―権力』のもとで、国民は『國家という肉軆』の細胞と見做される。
『生―権力』は国民=細胞の健康をねがうのだから、いいではないかというと、そうでもなく、『生―権力のもとでは、癌細胞を摘出するように、病的な国民が排除』されるのである。
健康なアーリア人以外の系譜を鏖殺せんとしたナチスは、まさに『生―権力』のもとで、前述のとおり、障碍者、同性愛者、猶太人を虐殺していった。
(此処で、ナチスが『障碍者や同性愛者は生産性がない』というように主張していたのは、植松の思想にも類似する)
ナチズムは、『生―権力』によって、自国民を殺戮したうえで、人種の純潔をまもるために、『他国民を殺戮するという建前で、自国民を戦争の駒として殺戮』した。
(戦争は二つの側面をもった。他国民を殺すことと、自国民を殺すことである。――ヴェイユ)
さらに、フーコーは『生―権力』の典型的な強迫観念として、括弧つきの〈人種〉という概念を発見する。
括弧つきの〈人種〉とは、単純明快に、モンゴロイドとコーカソイドは相違する人種である、という意味ではなく、『國家の全体性を乱す分子』を峻別するものとでもいえる概念であった。
この〈人種〉は、ナチスにとって、矢張り、アーリア人と他民族を峻別するのみならず、『純粋で健康な独逸人と、そのほか』を区別することを意味するものだった。
斯様に論じると、たんなる『植松の思想はナチズムだ』という、定番の結論にいたるだけかとおもわれるが、問題は然様に単純ではない。
『生―権力』は、『福祉社会』とほぼ同義とみられ、瞥見すると、『福祉と健康を冀求するのだから』根源的に正論にみえるので、これに叛逆することは本統にむずかしいのである。
其処で、フーコーは、躬自らがゲイであることを告白し、そのうえで、『必死になってゲイになろう』と標榜する。
前述の『純粋で健康な国民』の『そのほか』である、『生産性のない存在』に、『あえて積極的になってやろう』と、『そのほかとされた人間たち』が蹶起することによってのみ、人類は根源的に『生―権力』を打破できると、フーコーはかんがえていたようだ。
語弊を厭わずに敷衍すれば、これは、『必死になって障碍者になろう』とも、『必死になってLGBTになろう』とも、『必死になってひきこもりになろう』とも換言できる。
此処から、フーコーは、古代希臘のプラトン哲学を中枢とする、『生―権力の発生の歴史』を爬羅剔抉してゆくのだが、フーコー自身の斃仆によって、『生―権力』への叛逆という大事業は未完におわった。
ただ、フーコーは前述のとおり、重要なメッセージを遺してくれた。
『必死になってそのほかになろう』ということだ。
――予告
次回は、ダーウィンとドーキンスによる進化論の視座から、障碍者の存在意義をかんがえてゆきたい。
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