5人目の恋人

@fukiko

第1話

プロローグ



バンクは病室の前で足を止めた。

まだ温かい5人分の食事が入った袋で右手は塞がっているが、空いている手が一行にドアノブに伸びない。

この差し入れを病室に居る人間に押し付け、さっさと帰ればいい。

そう思っているのに、どうしても病室に入る気力が沸かない。

病室には苦手とする子供達が居る。

そして・・・顔を合わせれば、いつもいがみ合っていた年上の男も・・・


成り行き上、彼に連れて来られた病院。

もう用はないと一度はこの場から離れ、乗って来た車で大学に戻ろうとした。

その道中、頭の中を巡るのは病室で見た光景。

そして何を血迷ったのか、見かけた屋台で食事を買って戻って来てしまった。

弱みを握る気で首を突っ込んだ結果、予想しなかった彼の家庭の事情に動揺した。

友人や恋人にさえ、何かをしてあげたいと思ったことのない自分が・・・・差し入れなんて、らしくない行動をしている。

それが自分自身でも、理解出来ない。


引き返すなら今だ・・・どうせこんな事をしても、彼は癇に障る態度をとるだけ。

そして何時もみたいに、その場の空気を悪くする・・・・。


「はぁ・・・アホらし」


思った言葉をそのまま口にし、帰ろうと一歩後ろに下がる。

すると、そのタイミングで扉が開いた。

そして今会いたくなかった当人が、目の前に立っていた。

相手も開いた扉の向こうにオレが居ると思っていなかったのだろう、真っ黒な瞳が溢れんばかりに見開かれる。

それはオレも同じで、予期せぬ事態に体が硬直し、帰るに帰れない状況に頭の中が軽いパニック状態。

相手も何も言わずに、ただ呆然と立ちすくんでいるだけ・・・・

何かを言わなければと思うが、混乱した頭は上手く回らず「食べ物買ってきた」と馬鹿正直に口が滑ってしまった。

そんな自分に「馬鹿か」と心の中で罵る。

だが・・・相手の反応が気になった。

言い合いだけで、まともに会話すらしていなかったオレ達。

こういう時でも、彼は「お前からの慈悲なんてもらいたくない」と突っぱねるのか・・・・

そんな彼を想像してしまったが、それは大きな間違いだった。

ほんの少しの優しさを見せたオレに、彼は息を飲む・・・・・そして大きく開いた目が赤く色づいていく。

見上げてくる相手の目が潤み、やがて彼の白い頬にスーと雫が伝い落ちた。

次に、息を呑んだのは自分だった。

いつも向けられる敵意はなく、泣き顔を見せる相手に頭の中が追いつかない。

見てはいけないものを見てしまったと思っていても、目が離せない。

彼の両目から流れる涙に、頬が濡れていく。

なぜ、こいつは泣いているのか・・・そんな疑問よりも先に、ただ初めて彼の顔を綺麗だと思えた。


「お兄ちゃん、どうしたの?」


病室の奥から顔を出す、少女。


「食べ物持って来てやったから、皆でこれ食ってろ」


少女の問いかけに我に返った俺は、咄嗟に彼の肩を引き寄せ廊下へと連れ出す。

何故だかこいつの泣き顔を見せてはいけない気がして、少女の視線から隠す様に庇った。

そして手に持っていた袋を、少女の方へと差し出す。


「ちょっと、先輩と話があるから借りるぞ」


少女が袋を受け取ると、そう伝え扉を閉めた。

病室から遮断された廊下。

遠くから人の気配がするが、この空間に二人きりのような感覚になる。

彼の背中に回した手に感じるのは、彼の体温と体の震え。

俯いていてその表情は見えないが、鼻をすする音に本格的に泣いているのだと解った。


「泣き言も言わずに、いつも1人で頑張ってるから、心配だったの。だから、貴方みたいな友達がいて安心したわ」


戻って来た病院で鉢合わせになった、彼の家に出入りしている家政婦。

彼女が嬉しそうな顔で俺に言った言葉が蘇る。

その言葉の重みが、今になって理解できた。

らしくなく俺の前で泣く彼。

少しの優しさを見せた俺に、今まで張り詰めていた緊張が抜けてしまったのだろう。

そんな彼に、自分もらしくなく両手でその身体を包み込んだ。

彼を落ち着かせようと背中を優しく擦る手に、何故こんな事をしてるんだと自分に笑いそうになる。


いつも強気で刺々しい2つ上の先輩。

結局弱みを握った事になるのに、何故か清々しい気分になれず、心の中はザワザワと言いしれない感情に支配されていた。



******



1



「お兄ちゃん、まだ寝ないの?」


そんな声にハッとしたオレは、リビングの壁に掛かっていた時計を見上げた。

ちょっと集中しすぎた・・・もう少しで日付が変わる。

普段ならお風呂も済ませて、寝る準備に入っている時間帯。

だけど、せめてキリがいいところまで仕上げたい。


「寝たいけど・・・もうちょっとだけ」


パジャマ姿でリビングの入り口で佇んでいる、妹の品妤(ピンユウ)。

そんな彼女に、心配ないよと微笑みかける。


「昨日もそう言って、夜遅くまで勉強してたでしょ?」


「あと、もうちょっとだから」


「もう・・・それなら、もうちょっと私に頼ってよ。お兄ちゃんが勉強で忙しい時は、私が弟達の世話をするって言ったじゃない」


12歳となる長女は、両手を腰に当てて説教モード。

この家で唯一の女の子の品妤は、しっかり者に育って兄としては誇らしい。

だが最近、口うるさく説教しだすのは勘弁してほしい。


「品妤にはいつも助けられてるよ。大丈夫、もう一息だから」


レポートの提出は明後日。

殆ど出来上がっているし、追加すべき内容や誤字脱字の見直しだけ。

明日はどうせ、レポートが仕上がらず騒ぎ出すクラスメイトの面倒を見なくちゃいけなくなる・・・・だからせめて自分の分だけは完璧にしておきたい。


「本当ね!?」


「うん、本当」


「じゃ、ちゃんとベッドで寝てよね」


「はい、解りました」


まるで母親の様な口調の品妤に苦痛しつつも、聞き分けがいいように返事を返した。

すると彼女は満足したように頷き、リビングを出ていった。


「はぁ・・・母親が居ないのに・・・誰に似たんだか」


最近の品妤の態度は誰に似たものか・・・母親が居ない環境で母親に似る筈がない。

厳密には親らしい事を一切しない母親は、今はタイ人である夫と韓国で生活をしている。

例え一緒に暮らしても、子供に無関心で名前すら呼ばない。

だから遠くに居たとしても、何一つ変わらない。

そして別々で暮らして、もう3年近く経つのに一切音沙汰がない。

戸籍上の父親である男に、月に一度はメールで近況報告をするだけ。

だが必要以上にお互い接触しないからか、未だに2人は結婚生活を続けているかは謎。

父親から送金は続いているが、今までにない大富豪の男だ。

なので送金だけは続けてくれているが、実は既に離婚していても不思議じゃない。

そして母親は現地の男と既に再婚して、6人目を孕んでいても【またか】と納得できる・・・そんな碌でもない女だ。


ギネスブックを狙っているのか、母親が孕む子供は全て違うDNA。

唯一の生粋の日本人である自分意外の兄弟は、全て国籍が異なるハーフだった。

長女の品妤も、香港で生まれたハーフ。

その国々で産まれた子供たちは、皆名前のニュアンスも違い、見た目の特徴も異なる。

だから兄弟が揃えば自然と起こる、他人からの必要以上の干渉や、好奇な視線。

「母親の股がユルユルな結果です」と言えばスッキリするのに・・・場の空気を考えれば流石に言えない。

それでもオレは、半分同じ血が流れている兄弟達を愛している。

だから韓国に行く母親にはついて行かず、このタイで弟達と暮らすことを選んだ。

その決心を伝えた時の母親の顔は、今でも忘れられない・・・・「余計な物から離れられる」安堵した彼女の顔は、口に出さなくてもそう物語っていた。


「ふあぁ・・んん・・」


あくびを噛み締めつつ、ノートパソコンから手を離した。

手元のスマホの画面を見れば、夜の1時を回っている。

品妤にバレたらまた起こられるなぁ~~と思うも、体が気だるく椅子から立ち上がる気力が沸かない。

お風呂に入って・・・お弁当の準備して、授業の支度して・・・そう言えばノックから、ひとつなぎの大秘宝の続きを貸してくれって言われてたっけ・・・。

寝る前にすべき事をアレコレ考えれば、いつしか記憶は途切れ・・・・・・


次に気がついた時には・・・・


『え!?朝!?』


窓から燦々と差し込む陽の光で、思わず日本語で驚き立ち上がる。


「やばっ!!」


時計の針は7時前。

昨夜に入浴もせずにその場で眠りに落ちたオレは、慌ててバスルームへと向かった。

そこからは、一息もつけぬ程に動きっぱなし。

シャワーを5分で浴び、髪を乾かす暇もなく朝食作り。

それから弟達を叩き起こし、朝食を食べさせている間にお弁当作り。

小学生2人の準備を手伝い登校を見送ったところで、やっと救世主がやって来てくれた。


「おはようございマス」


「おはよう〜〜アキ君。やだ!どうしたの!?」


2人の女性が家に訪れるまで、てんてこ舞いだったオレは、よっぽどげっそりした顔だったのだろう。

家政婦のミタが、オレの顔を両手でがっしりと掴む。


「え・・・ちょっと寝過ごしちゃいまして」


品妤がいくらしっかりしてるとは言え、まだまだ目を放せない兄弟達。

大学に行っている間はどうする事も出来ず、家政婦とベビーシッターを雇い助けてもらっていた。

インド人のミタと、アラブ人のホボン。

本当は1人でも十分なのだろうが、用心する為に2人雇った。

物を盗られたり、子供に虐待する事件も多いと聞いたからだ。

だけどその心配は必要なく、2人は信頼に与えする人間で、オレ達を必要以上に気に掛けてもくれる。

2人とも子供の居るお母さん、だから色々と相談にものってくれるオレにとっては必要な人達だ。

それに・・・家の中の状況もオレ1人では中々立ち回らない。

5人も居れば部屋も汚れ、洗濯物の量も多い。

暴れ盛の下3人はものの数秒で、子供部屋を散らかしてしまう。

なので家の事はミタに任せ、学校に通えない下2人の面倒はホボンにお願いしていた。


「もうもう、せめて髪を何とかしなさいよ。物凄い事になってるわよ!?折角綺麗なお顔なのに〜〜〜」


「ミタさん、痛い痛い・・・」


人の顔を掴んで左右に振る彼女に抗議するも、彼女の言葉に笑いがこみ上げる。


「ミタ、アキを放してあげて。今日は朝から授業デショ、遅れるデショ?」


辿々しいタイ語で仲裁に入ったホボンに、「あっそうね!」と手を放すミタ。

未だ部屋着で授業の準備をしていないオレは、彼女の言う通り急がなければ遅刻確定だろう。

「ほら、早く」とパンとミタに尻を叩かれたオレは、そのまま洗面所に飛び込んだ。

洗い晒しで自由奔放の髪を整え、自室で制服に着替えて教科書を鞄に詰ると、再びリビングへ。

壁掛け時計をチェックすれば・・・うん、十分に間に合いそうだ。

それぞれに仕事を始めている2人に向かい「じゃ、お願いします!」と声をかけて、リビングを飛び出す。

そこへ「ちょっと待って!」とミタの呼び止める声が聞こえ、反射的に足を止めた。


「アキ君、何も食べてないでしょ?ほら、これ持って行って。娘が作ったクッキーよ、子供達のは別であるから」


玄関に向かおうとしているオレに、小走りで駆け寄ってくるミタ。

娘からそのまま手渡されたのか、小さなピンク色の紙袋。

可愛らしいドット柄の袋は、まるでこれだけ特別ですと言いたげな雰囲気だ。

年頃の娘を持つミタが「あの子、アキ君に彼女いないかしつこく聞いてきてねぇ〜」と前に漏らしていていたのを思い出したが、ここはスルーしておこう。


「それじゃ、頂きます。有難うございます」


どんなに急いでいても、御礼はちゃんとする精神。

両手を合わせてタイ式に礼を述べる。

そして袋を受け取ると「気をつけてねぇ〜」とミタの声を背中に受けながら、オレは急ぎ足で家を出た。



******



自宅から大学の距離は、ごくごく・・・本当にごく僅か。

なんせ自分の部屋の窓を開ければ、目の前が大学のグランドだ。

だが学部が多いこの大学の敷地は広い。

自分が向かう工学部の教室は、なかなかの距離。

それでも学校の敷地に入った時は、思いの外余裕がある時間だと気も緩んでいた。

目指す建物が目と鼻の先まで来た所で、見知らぬ女の子に声を掛けられるまでは・・・。


「アキ先輩、凄く頭がいいって聞きました。常に成績トップで語学も堪能だって」


「そうかな・・・そうでもないと思うけど」


唐突の成績に関する話題を振られつつ、こんな後輩いたっけと頭を巡らせる。

口では謙虚でいるが、本心では当たり前だろと自画自賛する。

語学が堪能なのは父親を取り替える母親のお陰、成績が優秀なのは良い会社に就職する野望を持っているから。

弟達の面倒をみつつも、自分を磨く手は怠らない。

いずれは・・・母親と完全に縁を切り、オレだけの稼ぎで生活したい。

そんな強い思いがあるからこそだ。


「実は私、英語が苦手で・・・・アキ先輩が家庭教師してくれたら」


「家庭教師なら、オレの友達のノックを紹介するよ。彼、何人か生徒もいるし。だから教えるのもうまいよ」


「え・・・けど。私、人見知り激しいし・・・アキ先輩は優しいし・・だから」


彼女のオレに向ける熱い視線に、家庭教師は口実だと馬鹿でも解る。

優しいと言うほど、オレの事を知りもしないのに・・・こういうの・・・正直嫌気がさす。

他人の勉強を見る暇もなければ、恋だ愛だの浮かれている時間もない。

本当ほっといてほしいのに・・・・

何故か、こうやって近づこうとする女の子達は多い。

この時期だと新入生が圧倒的で、どうして塩分あっさりのオレの顔が好意的に見られるのか、自分でも理解できない。

しかもオレの知らない所で写真を撮られ、人のSNSにあげられてもいる。

だから日々ウンザリしているオレは、彼女達にいつもの言葉を伝える。


「ごめんね、【恋人】と過ごす時間を大切にしたいんだ」


だからこれ以上はオレの時間を盗らないでね、と意味を込めて彼女に笑いかける。


「本当に家庭教師が必要なら、ノックを紹介するから」


“本当”の言葉を強調したオレに、彼女は分が悪そうな表情になる。

そして「はい」と小さく返事をし、クリルと背を向けて逃げる様に走り去った。

その時にコロンと彼女の懐から落ちるペンケース。

面倒臭いことにそれに気づいてしまったオレは、身を屈めでペンケースに手を伸ばす。

そしてそれを掴み、彼女に「落とし物!」と声を掛けようと顔を上げた瞬間。

視界に入ったのは彼女の後ろ姿じゃなく、誰かの背中。

視界いっぱいになるまで、それは近く。

ぶつかる!と思った瞬間に訪れた衝撃。

身体の大きな誰かにぶつかられ、それでも何とか踏ん張った。


「すみません」


明らかに背中の主が悪いのに、反射的に謝ってしまうのは・・・日本人である性か。

色んな国を転々としているにも関わらず、癖のように謝ってしまうのは【取り敢えず謝れば場は収まる】とDNAに組み込まれているのかもしれない。

そんな【オレは悪いとは思ってないけど、一応謝っとくわ】の謝罪の言葉が、一ミリの価値がないと解ったのは、相手が誰か知った時。


「あ?いって〜なぁ」


半場喧嘩腰で振り返った相手は、オレをひと目見ると途端に嫌そうに顔を歪ませた。

今の謝罪を返せと言いたいのをグッと抑えて、こちらも負けじとこれでもかと顔を歪ませた。

ぶつかって来た男は、この学校で一番オレが大っ嫌いな人間、バンク。

今年入ってきた1年のくせして初々しさの欠片もなく、可愛さもない男。

出会ったのは新入生のレクレーションの時。

あいつは「はっ、名前負けしてんじゃん」と鼻で笑いながら喧嘩を売ってきた。

今思い出しても、カチンと頭に来る。

周りは友人や新入生達がいる中、怒鳴らなかったオレを褒めて欲しい。

家が大金持ちが故に人を小馬鹿にしたような態度のこいつに、何故あんな良い友人がいるのかも理解出来ない。

今でも感じる上からの威圧感は、身長差じゃなくこいつの人を見下した態度の現れだ。

先輩を先輩だと思わないこいつに、皆に向ける優しさをくれてやる必要はない。

眼光鋭く見下ろしてくるバンクに、オレも負けじと睨み返す。

その高く鼻筋が通った鼻を掴んで、振り回してやりたい・・・・・

学校中の奴らはオレをガリ勉だと誤解しているが、治安が悪い国で身につけたモノがある。

だからバンクの方が身長もガタイもよくても、喧嘩で勝てる自信はあった。

掛かってくるなら掛かってこいや~~と荒ぶる気持ちを隠さず、睨み合いが続く中・・・・・目の前の男の存在で頭が一杯なオレは、すっかり忘れていしまっていた。


あと3分で授業が始まってしまう事を・・・・



続く

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