君に伝えたこと、君が伝えたいこと

ゆーかり

第1章 会いたかったが、会いたくなかった

第1話A

 自信のある人を見ると、胸に激しい痛みが走る。

 自信のある人に見られると、自分は情けなくて虚しい人間なのだと認識させられる。 

 だから常に下を向くのだ。何も見ないようにして、何も聞こえないようにする。 

 さすれば、そんな感情が湧き出ることなどない。

 そうするようになったのは、中学二年の冬の頃からであった。


 しんと静まるバスの車内で、ブレーキ音が轟いた。

 今日何度目かの赤信号。ため息が思わず虚空に漏れる。

 退屈な土曜日の午後二時。借りた本を返しに行った、図書館から帰り道。現在地がどこなのかを確認するために電子書籍から視線を上げ、車窓から外の景色をぼんやりと眺めた。

 視線の先には公園があり、木々の新緑が穏やかな風に吹かれて揺れている。子供たちがみな一様に哄笑し、サッカーボールで遊び惚けていた。

 雪国である我が在住の地の四月は、まだまだ長袖が必須だ。学生服の上に羽織った薄手のコートを、僕は未だに手放せない。

 そんな肌寒い空の下、子供たちは半袖半ズボンではしゃぎ回っている。その光景を見ていると、自分が歳を重ねたことをひどく実感する。

 一人の男の子が、ボールをあらぬ方向へ蹴飛ばした。周りの子供たちは文句を垂れている様子だった。しかしその表情はみな愉快そうで、それは非常に微笑ましいものである。

 それも、一般的に見ればという話だが。

 眩しい笑顔と純粋な瞳は、僕を惨めだと冷笑しているように思えた。

 その屈辱に堪えかねて、瞳をとっさに逸らした。

 少しの間バスに揺られていると、自宅近くのバス停に止まる。スマホをポケットに仕舞い、うたた寝する老人の横を通り過ぎて下車する。

 春の冷たい風が吹く。僕は肩を丸めて下を向き、コートのポケットに手を突っ込んだ。寒いのは苦手だ。身も心も冷たくなる。

 数分ほど坂を上ると、すぐに自宅に到着する。

 玄関付近に雑草が、生命力を誇張するように伸び伸びと生えている。今日はそこに生えたのかと、毎日地面と目を合わせていると分かるようになるものだ。

 鍵を開けて入り、そそくさと靴を脱ぎ、すぐ左手にある階段を駆け上がって自室に向かう。

 上がり切った先にある六畳ほどの和室が、僕のプライベートスペースだ。

 小学生時代から使用している傷とシールの剥がれ跡が残る勉強机、本が隙間なく敷き詰められた棚が二つ、そして常時使用するベッドなどが置いてある。それ以外には服を収納するタンスがあるくらいだ。

 そしてベッドの上には、白い毛並みのオス猫が太々しい顔で寝転んでいた。

 名前はソラという。亡くなった祖母が絶対に忘れないであろう、かつ、すぐに思い出せそうという理由から命名した。だから漢字で書くと、『空』だ。

 僕はソラの頭を撫でた後、ベッドから無理やり引きずり下ろす。抗議の鳴き声を上げるソラだったが、怒りでキッと睨む顔は非常に愛くるしく、怖さは微塵もない。

 ソラは僕のベッドの上をいたく気に入っているようで、一日の大半をそこで過ごしている。恐らく僕よりも使用時間は長いだろう。

 僕としては毛布に大量の毛が付くのでやめてほしいと願っているが、昔、部屋に入れないように襖を閉めていたら、障子を突き破ってまで部屋に侵入していたことがあった。

 なのでそれ以来、僕の部屋はいつもオープンの状態になっている。

 僕は着ていた学生服一式を脱いでから、ハンガーラックに丁寧にかける。休日は大抵どこに行くにしても、学生服を着用している。何となくその方が私服より落ち着く。

 箪笥に閉まってある店の制服に袖を通すと、柔軟剤のいい香りが仄かに漂った。

 そうして着替えている隙に、ソラがまたベッドの上に乗っていた。

 早く出て行けとばかりに視線を送り、ゴロゴロと喉を鳴らす。一応僕の部屋なのだが、これではどっちが主か分からない。

 掃除をするのが億劫だと感じながら、図書館で借りてきた本を持って自室を後にした。

 階段を降りて、リビングの裏口から家を出る。

 そこからほんの少し歩き、今度は店の裏口のドアを開ける。

 抜けると厨房があり、そこでは父がディナーの仕込みをしていた。

「ただいま」

「おう、おかえり」

 父は鍋から一旦目線をこちらに向け、またすぐに戻した。鍋の中身はカレーのようで、ふんわりと優しい香りが鼻孔を擽った。

 厨房を抜けるとカウンター席があり、その向こう側にはテーブル席が四つほど並んでいる。琥珀色を基調とした店内には、落ち着いたジャズが流れていた。

 カウンターでは、母が備え付けれたテレビに映るニュースをぼんやりと眺めていた。右手に持ったタバコを口に咥え、四秒程度ゆっくり吸い込んでから、紫煙をくゆらせた。

「ただいま……って、母さん、店でタバコ吸うのやめてよ」

 僕はかねてより時代の流れに逆行せず、店内を全面禁煙にしたいと考えていた。世間の流れに逆らったって、メリットは少ない。

「いいじゃない。お客さんいないし」

 母は不服そうな表情になり、そんな言葉を煙と共に吐く。

「喫煙できる店、最近は敬遠する人多いんだよ。喫煙不可にしたら絶対売り上げ伸びるし」

「またそれー? でも、ここならタバコ吸えるからって、来る人結構多いよ」

「吸わない人の方が多い時代なんだから、そっちを大事にする方向にシフトした方が断然いい」

「そうだね。私が死んだらそうしなさいね」

「……じゃあ、百歩譲って喫煙可能でいいけど、僕の小遣いを増やしてくれ」

「さーて、店番よろしくねー」

 母はタバコをもう一度深く吸ってから、灰皿の上に揉み消した。僕の肩をポンと叩き、厨房の方へと逃げるように引っ込んだ。指先からしたタバコの臭いが、苛立ちを増幅させる。

 僕は丸椅子に座り、今度は図書館で借りてきた本を読み始める。

 店内には、僕以外に人はいない。

 しっとりとした音楽が響き、アナウンサーの機械的な声がひどく眠気を誘う。

 我が家では、既に亡くなった祖父の代から、この小さな喫茶店『ホワイトライト』を営んでいる。正直、店の経営は芳しいとは言えない。赤字になるかならないかくらいを毎年彷徨っている状態だ。だが、父も母も経営に関してあまり熱心でなく、お客さんをたくさん呼び込もうと躍起になったりはしない。

 なのでこの店は、今風のカフェテリアとはかけ離れた古めかしい喫茶店となっている。しかし変わらないのが好印象を持たれるのか、何十年も通ってくれるお客さんもいるので、それも父と母が変わらずにあり続けようと思う一因だった。

「……ふわぁ」

 不意にあくびがこぼれた。業務中にこんなことは滅多にない。読んでいる本が少し退屈だということもあるし、ディナーの時間帯にならなければお客さんが来ないということもあり、気を張る必要もないのが理由であった。

 本当に、一眠りでもしようかと考える。

 恐らく今日もこうして意味のない時間を過ごし、一日が終わっていくのだ。

 友人もいないし、金もない。そもそもこの町には遊ぶところもそれほどない。

 もちろん平和なのに越したことはない。

 ただ、そんな環境下で将来を終えることは悪くはないが、決してよくもないだろう。

 だからと言って、刺激的な毎日を過ごしたいかと言われればそうでもない。そんなどっちつかずの状況に満足せず、でも求めることもしない。そうして日々が過ぎていく。

 今日は思考がマイナスに傾き過ぎている。たまにはそういう日もある。

 僕はテレビを消して、音楽の音量を小さくする。

 そしてカウンターに突っ伏した。枕にしたハードカバーは丁度いい高さだ。まるで僕に眠れと語りかけているみたい。

 するとそうした刹那、カランコロンと入り口のベルの音が鳴る。それは来客の合図であり、静寂の店内にやたら大きく響いた。

 僕はハッとして顔を上げる。流石にだらしない姿でお客様に応対する訳にはいかない。

「いらっしゃいませ。何名様でしょう……か?」

 息を吞んだ。出入口に立つその人の顔を見て、心臓が止まったような気がした。

 艶のある栗色の長髪に、吸い込まれそうなほど大きな瞳。その下には小さな鼻と桜色の唇。白く透き通るような肌には荒れが殆ど見受けられない。

 小柄であるが、ピンと伸びた背筋がその人を大きく見せる。飾り気のない幼顔と、雪の結晶の髪留めが子供らしい感じを滲ませていて非常に愛らしい。

「…………」

 僕は突然の来訪者に、言葉を失った。

 今までの勉学や読書で培い蓄えた数々の語彙は、その人を見た瞬間、全て弾け飛んだ。

 眼前に現れた人物は、ほんの数年前、彼女だったからだ。

 彼女もまた、瞠目して僕の顔を見据える。その目と僅かに開いた口から、強烈な驚きが見て取れる。

 そして彼女は一つ息を吸ってから、

「……石野いしの君……なの?」

 か細い声で、そう僕の名字を読んだ。

「…………いずみさん?」

 封じ込めていた記憶の箱が開かれる。

 凍えるような雪中で見たあの笑顔を。図書館で交わした会話の数々を。

 アンビバレントな感情に悩まされ、強く身を焦がしたあの日々が、頭の中を駆け巡る。

「……」

 彼女は何も言わず、ただそこでじっと佇んでいる。潤う双眸を瞬かせ、唇を真一文字に引き結んだ。

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