第6話

  ***


 持ち帰った服を洗濯機に押し込む以外には整理するような荷物もなく、部屋も母親に片付けられていたため特にやることもなくなった公太は、まずは壊れたバイクをどうにかするため、購入したバイク店へと顔を出すことにした。

 幸い、公太のアパートから目的の店までは、歩いて10分程度の距離だった。外の気温は高かったが、空には雲がかかっていて日差しも強くないことから、公太は自転車を使わず歩いて店へと向かった。

「ふーん、これがコウちゃんの住んでる街かー」

「……」

「ねーねー、お店までどれくらい?」

「……」

「あ、猫いたよ猫!」

「……」

 外では話し掛けないようにしてくれ、という公太の頼みを早速忘れたのか、はたまた覚えていながらわざとやっているのかはわからなかったが、しきりに話し掛けてくるヒナのことを、公太は意識的に無視しながら歩き続けた。自然と早足になっていたのか、店に着く頃には額にうっすらと汗が滲んでいた。

 公太がバイクを買ったのは『みやたサイクル』という個人経営の小さな店だった。名前の示す通り、店は宮田という男性が経営している。正確には宮田みやた義臣よしおみ夏海なつみという夫婦の店なのだが、夏海夫人はたまにしか店先におらず、もっぱら旦那のほうが店を切り盛りしていた。

「いらっしゃい。おう、お前さんか」

 公太が表に並べられた自転車やバイクの間を縫い、開け放たれたガラス戸をくぐると、奥から出てきた宮田が声を掛けた。背丈は公太より少し低いくらいだが、肩幅が広くがっしりとした体型で、短く刈り込まれた髪もあいまって、いかにも働く男といったイメージがしっくりくるような男だ。店には公太の他に客の姿もなく、おそらく暇で奥に引っ込んでいたのだろう。

「こんちゃす」

「なに、どしたのそれ?」

 宮田は細い目を若干大きくしながら、自分の首のあたりを指し示しながら公太に尋ねた。首に巻いたカラーのことを言っているようだった。

「いやぁ、ちょっと事故ってムチ打ちみたいになっちゃって」

「え、もしかしてバイクで? 大丈夫なの?」

「とりあえずは、生きてますよ」

 身を乗り出して心配そうに聞く宮田に、公太は苦笑いで答えた。久々に店に来たので忘れていたが、宮田はまるで親戚の子でも相手にするように、近所の学生にフレンドリーに接するのだった。それを好む学生もいれば、苦手になって別の店に行く人もいる。公太も最初は少し苦手だったが、単にものすごく人が良いだけの男性なのだと気付いてからは気楽に話ができるようになったのだった。

「まー生きてるのは見りゃわかるけどさ。バイクは?」

「あー、それなんですけど……」

 大事に乗ってくれよな、と言われた手前、壊れたことを言い出しづらい。公太が言い淀んでいると、宮田も気まずそうな表情になった。

「あぁ、やっちったかー」

「えっと、まぁ、そうです。すんません」

「いやいや、謝るこっちゃねーべ。なんだって壊れる時は壊れるんだから。んで、車体は?」

「実はそのことで相談なんですけど」

 公太はあらたまって話を切り出した。

「うちのアパートの駐輪場に置いてあるんですけど、どうしたもんかなって」

「動かせないのか?」

「自走は無理っすね。ハンドルも曲がっちゃって、押すのもしんどそうで」

「へぇ……って、それでよく無事だったな君は!」

「まあ、運が良かったんすかね」

 反射的にそう言ってから、あらためて公太は、助かったのは運が良かったのだと感じた。自分自身は意識を失っていたことや、目覚めてから今まで大きなリアクションを取った人がいなかったせいかもしれないが、重大な事故に遭ったのだという感覚が欠けていたらしい。打撲やらムチ打ちやらはあるものの、こうやって自分の足で歩いて生活できているのは幸いだった。

「それでもう修理もできなそうだし、処分をお願いできないかなって思って」

「んー、実物見てからかなあ。ちょっと待ってて」

 そう言うと宮田は、店の奥へと引っ込んでいった。

 手持ち無沙汰になった公太は店の中を見回した。先ほどからヒナがうろうろと歩き回っている展示スペースのほとんどは、シティサイクルや折りたたみ自転車で占められている。みやたサイクルは、正確にはバイク屋ではなかった。自転車屋がついでに中古バイクを販売している、というのが実情だ。

 本当はバイク販売をメインにしたかったらしいが、狭い地域に大学や高校が林立していることもあって、需要に合わせて自転車販売をしていたら、いつの間にか自転車屋がメインになっていた、とのことだった。

 宮田自身は、大がつくほどのバイク好きだ。夏海夫人ともバイクを通じて知り合ったということで、いまだに夫婦で揃ってツーリングに出かけることもあるという。そういった夫婦関係というのは憧れもするが、それだけ好きでも仕事の中心に据えられないというのは、やはり商売とは難しいのだなと公太は思ったものである。

「おまたせ」

「おーおー、元気かー?」

 揃って奥から出てきた宮田夫婦が、口々に公太に声を掛けた。気さくな感じで話し掛けてきたのは夏海夫人だ。首のあたりが若干ヨレヨレになっているシャツにハーフパンツという、見るからに部屋着といった装いの姿に、公太は一瞬目を奪われた。はっきりとした目鼻立ちの顔は、美人若妻といった表現がよく似合う。何より、サイズの大きいシャツの上からでもわかる大きな胸が、どうしても見る者の視線を引き付けてしまうのだった。過去にも何度か見かけたことはあったが、これだけは慣れることができなかった。

「ええ、まあ、生きてます」

「ははっ、それは何より! えっと、君、なにクンだっけ?」

「ガンマの萩原君だよ。悪いなー、こんな女房で」

 横から、やれやれといった様子で宮田が答えた。口ぶりから、どうやら公太のことは、長らく売れ残っていたガンマを購入した大学生という認識をしているようだった。

「うんうん、まあ今となっては元ガンマの萩原クンだな!」

「あ、まあ、はい……すんません」

 事故で壊れたことを聞かされていたのだろう、あっけらかんと言った夏海夫人に公太はうつむきながら返事をした。

「やめてやれよ……」

 公太と同じくらい弱々しく、宮田も言った。

「まあそれはともかく、ちょっと見に行こう。いま軽トラ回してくるから、表で待っててくれ」

「軽トラですか?」

「どうせ動かせないんだろ? とりあえず回収するよ。そのほうがいいっしょ?」

「あ、はい、助かります」

 公太が頷くのを見ると、宮田は店を出て裏へ回っていった。

「そんじゃ私も着替えてくっかなー。あ、もし誰か来たら待っててもらっといてね」

「え?」

 返事を待つこともなく、夏海夫人は再び奥へと引っ込んでいった。誰かお客さんが来たら待っててもらってくれ、ということらしい。

 良くいえばサバサバ、悪く言えばガサツなのだろうと感じつつも、そういったところも魅力的なんだろうなと公太は思った。宮田自身はたしか四十路も半ばのはずだったが、夏海夫人はまるで年齢不詳だった。たまに同い年くらいに感じることもあれば、ずっと歳上のように見える時もある。そんなことを考えつつ、公太は夏海夫人の背中を見送った。

「ねーねーコウちゃん」

「……なんだ?」

 店の表に出ようと歩き出したところで、ずっと店内をウロウロとしていたヒナが話し掛けてきた。周囲に誰もいないことを確認してから、公太は答えた。

「コウちゃんああいう人が好みなの?」

「なんで?」

「見とれてたじゃん。鼻の下伸ばしちゃってさー」

 公太が夏海に見とれていた、ということだろうか。頬を膨らませるヒナに、公太は言葉を詰まらせた。

「そんな、いや、そんなことねーし」

「ふーん? なんか意外だなーって」

「なにが?」

「胸……」

 そう言いながら、両手で自分の胸を抑えながらヒナは自分の胸を見下ろしていた。

「あたしこんなんだし、コウちゃんはてっきり貧乳が好きなものかと……」

「いや、え、なんでそうなるわけ?」

「言ったじゃん、あたしの姿はイメージ映像だ、ってさ」

 口を尖らせるヒナに、公太はたじろいだ。

「いやいや、大きい物に目がいっちゃうのは本能みたいなやつで、別に好みとかは関係なくてだな」

「じゃあ、やっぱり貧乳好き?」

「え? いや、え?」

 これはどっちに転んでも自分のイメージが固定されてしまう、と公太は気付いた。訊かれた時点で負けなやつだ。そもそも答える必要などないのだ。公太はこの場は流すことにした。

「そういうのは、いいから」

 それだけ言い残すと、そのまま店の表に向かって歩き出した。

「あ、ちょっと待ってよー。これからどこ行くの?」

「宮田さんの軽トラで、うちまで行くよ」

「軽トラ?」

「壊れたバイク引き取ってもらうからさ」

「あ、そっか」

 ヒナは公太が胸のことについて答えなかったことは気にしていないようだった。ただ単にからかっていただけなのかもしれない。

「軽トラって何人乗れるの?」

「運転席と助手席で、二人じゃないの?」

「それじゃ、あたしはどうしよう?」

「荷台にでも乗ればいいんじゃない?」

「だよね!」

 待ってましたと言わんばかりに、ヒナは顔を輝かせた。まるで公太がそう答えるのを期待していたようだった。

 公太の頭には一瞬、幽霊なら車の定員を気にする必要もないのではないか、という疑問が浮かび上がったが、表から鳴らされたクラクションの音にかき消された。

「それじゃあたし、先に乗ってるね!」

 ヒナは元気よく言うと、公太より先に店の外へと飛び出していった。数歩遅れて公太が外へ出ると、既にヒナは荷台に登って小さく跳ねていた。軽トラが全く揺れていないことに、公太はヒナが幽霊であることを再認識するのだった。

「おし、じゃあ助手席に乗ってくれ」

「あ、はい」

 窓越しに宮田から声を掛けられ、公太も軽トラの前を通って助手席側へ回った。そのままドアを開けると、助手席に乗り込みシートベルトを締めた。

「家まで道案内よろしくな。あ、窓は勝手に開けていいから」

「わかりました。とりあえず国道のほうに出てください」

 手回し式のドアウィンドウを開けながら、公太は答えた。

「りょーかい」

 宮田はそう答えると、サイドブレーキを解除して軽トラを発車させた。

 公太が助手席側のサイドミラーをのぞくと、ちょうどヒナがバランスを崩して荷台の上で転ぶ様子が見えた。

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