天界素描

嵯峨野吉家

水晶林

天界の最果てが、目の前にある。

透明な水晶樹は風にそよがぬ代わりに、朝日に瑞々しく煌めく。歩を進めるたび鳴る砂は、微細に砕けた色とりどりの宝石だ。水晶林すいしょうりん、天の北限は不実の楽園である。ほんの僅かな薬草種の他に、この土地に芽吹くものはない。鉱物であるがゆえ、命を育む力に欠けるのだ。柔らかな翡翠の土から生える紅玉の花がどれほど輝こうとも、種をつけることはない。

奥に進めば、藍玉の低木に囲まれた小川に遭遇する。サァッと濁りの無い音を立てながら、果てまで流れていく。最も上流まで歩けば、東方の大水脈にたどり着けるだろうが、私は下流に向かう。宝石と水が互いを磨く光景は、ここでしか見られない。

紫水晶が夜明けを再現するかのように、水の中で乱反射する。周囲の水面が暁の空のように色づくが、次には別の色に変わる。稲妻の走る晴天、火炎の踊る夕暮れ。目まぐるしい色彩の転調に、瞳を奪われる。

そのせいで、私は進む先にある気配を察し損ねた。

下り坂めいた川の中途で、身を清める人影があった。非礼となる前に身を翻すべきだったが、私はそのまま前に出てしまった。水が暗くなったから、黒水晶が洗われているのだろうとしか思わなかったのだ。実際は、長い黒髪が洗われていたのだが。

この最果てを守護する古神の存在を、私はすっかり忘れていたのである。水晶林の主様は、そんな呆けた乱入者が居るとは御存知のはずがなく、早朝の沐浴をされていた。ミルクに星屑をとかしたような柔らかな肌を陽光に晒し、眷族たる鉱物達が濾過した水で黒々とした長髪を濡らしていた。四肢はのびやかであるが、やさしげで、体のどこにも男の証も女の印も無い。鉱物神の無性の体を、私はこのとき初めて見た。正直に言えば、もうしばらく眺めたかったが、目があった瞬間に深々と頭を下げた。故意ではなくとも非礼は非礼である。

しかし有り難いことに、主様は穏和な気質であったので、不埒者を咎めようとはしなかった。ただ、驚きを表すように小さく口を開くと、私に用向きを尋ねた。薬草の採取希望者かと思われたらしい。ただ旅をしているだけであると伝えると、記念に水浴びをするかと誘ってくれた。磨き抜かれた宝石水はさぞ心地好いだろうとは思ったが、この無垢な体を持つ人の前で哀しい有性の裸体を見せる勇気はなく、私は丁寧に断りを入れ、水晶林を後にした。

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