第83話 お隣さんと春休み最終日①
こうして紗夜と一緒にいる時間は幸せで、だからこそ体感時間としてはあっという間で……気が付けばもう、春休み最終日になっていた。
しかし、だからといって特別なことは何もなく、いつも通りで平穏な時間を過ごしている。
まぁ、周から『宿題終わんないよ~!』とメッセージが来ていたので、アイツは平穏には過ごせていないようだ。
鈴音は鈴音で、いつもなかなか揃う機会のない家族で旅行に行くことが出来たらしい。
皆それぞれに、この春休みを過ごしたのだ。
紗夜はと言うと、すでに宿題は終わっているはずだろうに、リビングテーブルで参考書とノートを開き、シャーペンを走らせていた。
ポトッ、と腕に当たって落ちた消しゴムもすぐに拾い、またシャーペンが走る。
「紗夜、まさかそんな宿題はなかったよな?」
この日になって、まだ俺の知らない宿題があるかもしれないと思うと肝が冷えるが、紗夜は「安心してください」と言って首を横に振った。
「これは、二年生の範囲の先取りをしているだけです」
「さ、流石は学年首席。意識の高さが違うな……」
「そんなたいしたことではないですよ? どうです、颯太君も一緒に?」
「い、いや。俺は遠慮しとくよ。こうして勉強してる紗夜を眺めている方がよっぽど楽しい」
「そ、それは恥ずかしいんですが……」
もぅ、と微かに頬を赤らめながらも、再び視線を手元に戻す紗夜。
別に俺も勉強が嫌いではないし、むしろ紗夜と一緒にするとなると最高だが、今は春休みという名の通り、身体も頭も休めたい気分なのだ。
それに、こうして紗夜を眺めていると目の保養にも――――
あれ?
俺はそこまで考えて、違和感を覚えた。
今の俺の気持ちを説明するならば、良い例がある。
日々普通に生活している成長期の若者。
本人は毎日自分の身体を見ているし、それは身近な存在である家族も同様――毎日身長を測るわけでもなく、背が伸びている実感というのは認識しづらい。
しかし、久し振りに親戚のおじさんと会い、「おぉ! 背が伸びたなぁ~?」と言われ、若者は初めて自分の身長が伸びていることを自覚する。
結局何が言いたいかというと、見慣れた日々の些細な変化の蓄積により生まれた大きな変化は自覚しづらいということだ。
――そう、今の俺や紗夜本人のように。
「な、なぁ紗夜?」
「はい?」
「お前、その距離から参考書の小さな文字が読めるのか? それに、さっき床に転がった消しゴムを普通に見付けて拾ってなかったか?」
「……あ」
不思議な沈黙が訪れる。
紗夜が何度も瞬きをしながらこちらを見てきているが、ソファーに座っている俺と、床に座って勉強している紗夜の彼我の距離は、間違いなく一メートル以上離れている。
「そういえば、颯太君の顔が……ハッキリ……」
だそうだ。
ということは…………
「紗夜、視力が……」
「わ、私っ……いつの間にかほとんど見えるようにっ……!」
紗夜の視力障害は心因性――抱えきれなくなった多大なストレスが視力に影響を及ぼした結果だ。
そして、幸せを見付けていき、抱えたストレスを緩和することによって視力が回復するというのは、すでに実証済み。
いつも一緒にいるからこそ、紗夜がモノを見る距離が徐々に離れていっていたことに気付きづらかった。
紗夜もまた、徐々に視力が回復していたのだろう――日に日に少しづつ景色がクリアになっていてもなかなか気付きづらいものだ。
今まで紗夜が視力の回復を自覚していたのは、大きな幸福を感じたあとで、それに比例するかのように大きく視力が戻っていた。
しかし、こういう一緒にいる時間が小さな幸せの積み重ねとなって、徐々に紗夜の視力を回復させていたのだろう。
「や、やりましたよ颯太君っ……!」
「あぁ……!」
俺はソファーから降りて紗夜の前で膝立ちになり、そのまま正面から抱き寄せる。
紗夜もそれに完全に身を任せ、俺の背中に腕を回してきた。
「これも、颯太君のお陰です」
「いや、俺は何もしてないぞ」
「いえ、こうして一緒にいてくれるだけで幸せな気持ちになれます」
「それはこっちのセリフだな」
「なら、お互い様ですかね?」
「いわゆるウィンウィンの関係ってやつだな」
紗夜が俺を抱く力をギュッと強めた。
「私、もう何も見逃しません。颯太君と並んで、颯太君と同じ景色をこれからずっと見ていきます」
「な、何というか……それはこれからもずっと隣にいてくれる宣言と受け取って良いのか?」
当たり前じゃないですか、と紗夜が顔を埋めているため籠った声で言ってくる。
腕の中に感じる紗夜の温もりが、身体の柔らかさが、放すまいと回された腕が――それら全てが、紗夜の言葉が嘘でないことを語っていた。
俺はそんな紗夜の頭を優しく撫でる。
「これから、色んなものを見ていこう。一緒に」
「はいっ。どこへでも、一緒に連れて行ってくださいね?」
「もちろん」
春休み最終日。
紗夜の視力がほぼ元に戻ったと言っても過言でないほどに回復してきていることの発覚と、これからもずっと隣にいてくれるという誓い。
この妙にくすぐったい空気感の中、俺と紗夜はどちらからというわけでもなく、そっと唇を重ねた――――
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