とある家族の形

黒宮涼

とある家族の形

 居間に集まった十数人の親戚が、思い出話に花を咲かせる。棘があるのは気のせいではないだろう。今日は祖母の十七回忌だというのに、叔母たちは相変わらずだった。

 座布団の上に正座をしていた俺は、足にしびれを感じて仕方なく胡坐をかく。見たくもない顔と聞きたくもない声を前にして、俺は億劫な顔を表にださないように必死だった。


「本当、最期は可哀想だったわよね。お母さん」

「まったくだ。やはりうちで預かるべきだった」


 伯父や叔母が口々にそう言うが、十六年前も同じことを言っていた記憶がある。そして結局は親戚の誰も何もしなかった。

 認知症になった祖母は老人施設で最期の時を迎えた。病気になってから十年後のことだった。症状が出始めた頃を含めるともっと前からだろうか。早くに気づいていれば何かできたかもしれないと思う。十六年たった今でも俺は祖母への罪悪感に蝕まれている。思い出したくもないことが、今日は頭の中を駆け回る。


「大地君も大変だったねぇ」


 隣に座っていた父方の祖父が、俺に向かってそう言いながら笑いかけてくる。思いのほか優しい顔だったので俺は少しだけ緊張の糸を緩めた。


「いいえ。一番大変なのは祖母でしたよ」


 俺は首を横に振った。この世にいない人のことを言っても仕方のないことだと思いながら。



 新しい友達の話はよくわからなかった。好きなアイドルの話とか、漫画の話とか。

 四月に学校に入学してからもう二か月も経つというのに、私はあまり学校に馴染めないでいた。これならば小学校のほうがまだ気が楽だったなと思いながら、小学生時代の友達とクラスが離れてしまったことを嘆いた。


「ねぇ、聞いているの。加奈」


 友達が眉間にしわを寄せながら言った。


「ごめんなさい。聞いていなかったわ」


 私は正直に答えた。


「もう。最近ぼうっとしてるよ。大丈夫?」

「ごめん、最近あんまり眠れなくてさ」


 私はそう言い訳をしながらあくびをしてみせる。


「夜遅くまでテレビでも見ているの」

「違う。最近、変な夢ばかり見るから眠るのが怖くて」

「変な夢? 怪獣でも出てきたの」

「知らない人がたくさん出てきて、何故か夢の中で違う名前で呼ばれてるんだよね。本当によくわからないの。あ、でも。一人だけ見たことのある人が出てくるの。数学の大原先生」

「大原先生って、かっこいいもんね」

「そういうのじゃないよ」


 先生の名前を出したのは迂闊だったなと私は思った。この年頃の女子はすぐ恋愛話に結び付けたがるのだ。確かに数学の大原先生は女子生徒に大変な人気がある。先生は細い体格のわりに数学教師に似合わぬ筋肉がついている。それが一因だとは思う。しかし、顔は芸能人並みに良いわけでもなく、普通だと思っている。だから私はそれほど彼に興味は持っていないはずだった。夢に出てくるまでは。


「大原先生って歳はいくつなんだろう」


 ふと疑問を口にしてみる。


「ほら、やっぱり気になっているんじゃない。年上が好みなんだ」

「だから、違うって。疑問に思っただけなんだって」


 友達が変に茶化すので、私は困った顔で否定した。


「三十だよ」


 突然横から男の人の声がしたので、私と友達はほとんど同時に肩を震わせた。それから声のするほうを向く。


「お、大原先生」


 驚いたことに、噂をしていたらご本人が登場してしまった。大原先生は呆れた表情でこちらを見ていた。私は冷や汗をかいた。


「私の年齢。三十歳。慕ってくれるのはありがたいんだけど、すまない」

「い、いつからそこにいたんですか」


 私は動揺しながらそう尋ねる。


「今しがたな。君に用があってね。そうしたら私の噂をしているもんだから、声をかけそびれてしまって。数学の課題、君だけ出していないんだよ。藍川加奈さん」

「忘れていました」


 大原先生に言われて思い出して、私は頭を掻いた。そういえばまだやっていないなどと言えず、家に忘れてきたことにしようとまで考えてから、友だちの席の近くから、自分の席へ戻る。それほど距離は離れていない。今は昼休みだ。教室内には、数人の生徒がいる。私は友だちが大原先生と雑談を始めたのを横目で見ると、机の中を漁るふりをする。


「先生」


 私は大原先生に向かって声をかける。


「なんだ」


 大原先生はすぐにこちらを向いてくれた。その瞬間、私は違和感の波にのまれた。なんだか懐かしいようなそんな気がして、自分でない自分の中の気持ちが雪崩れ込んできたようで気分が悪くなった。めまいがして、私はしゃがみながら机にもたれかかる。


「おい、どうした」


 大原先生が私に駆け寄ってくるのが見えて、気持ち悪さに拍車がかかる。やめて。と思わず呟く。夢の時と同じだ。大原先生が私を上から見下ろしてくる。その姿が、泣き出しそうなくらい、懐かしい。どうしてこんな風に思うのか、その時の私はわからなかった。



 大原先生に連れてこられて、私は保健室にいた。薬品の匂いが鼻に入ってくる。あまり好きじゃないが、仕方がないので我慢する。

 部屋には誰もいなかった。中央の机の上には小さな鉢に植えられた観葉植物と閉じられたノートとボールペンが置かれていた。保健の先生は不在らしい。


「上野先生を呼んでくるから、少し待っていろ」


 大原先生がそう言って私を入り口近くの長椅子に座らせると、保健室を出ていこうとする。


「待って」


 私は無意識に大原先生を呼び止めてしまった。すぐに我に返って口を手で押さえる。


「何だ。どうした」


 そう言って、大原先生は足をとめてくれた。

 大したことではないのに、と私は慌てていた。


「あの、ごめんなさい。最近、寝不足だから。だからちょっと寝ればすぐに元気になるというかなんというか」


 しどろもどろになってしまったが、本当のことを口にした。大原先生に迷惑をかけるのはどうしても気が引ける。


「そうか。何か悩みでもあるのか。よかったら聞くけれど」


 困った顔をしながら、大原先生が言う。ああ、困らせるつもりはなかったのに。と私は思う。けれど大原先生は私が話すのを待っている様子で、自分も私の向かい側にパイプ椅子を持ってきて座った。保健室には、私と大原先生の二人だけ。しばらく沈黙が流れた。私は諦めて話すことにした。


「夢を……。夢を、見るんです。知らない人がたくさん出てくる夢。そこで私は、違う名前で呼ばれているんです。幸恵。とかさっちゃん。とか人によって呼び方は違うんですけど」

「さ……さちえって」


 大原先生が呟くようにそう言って、頭を押さえる。見る見るうちに大原先生の顔色が悪くなっていく。私は何かまずいことを言ったかなと思い、慌てる。


「ご、ごめんなさい。先生にこんな話をしたって仕方ないのに」

「いや……。俺の祖母にあたる人なんだが。その亡くなった祖母の名前と同じで驚いただけだ。続けてくれ」


 祖母。と大原先生に言われて、私は私の中であることが繋がった気がしていた。でもそれは、私の心の中をかき乱した。まさか。という疑念が頭の中をよぎった。夢は夢であればいい。そうでないと困るのだ。

 私は疑念を振り払うように首を振り、夢の話を続ける。


「夢に出てくるのはみんな知らない人なんですけど、何故だかその中に大原先生がいるんです。いつも先生に呼びかけようとするところで夢が終わるんです」


 先生の反応が怖くて、顔を見ることができなかった。夢の話なのに少しだけ気恥ずかしい。夢の中では先生を、下の名前で呼びかけていたのだが、それを口にする勇気はなかった。先生とはそんなに親しい間柄ではない。夢とはいえ、図々しいと思うのだ。


「そうなのか。私を夢に見てくれるのは嬉しいが、君はその夢のことで悩んでいるんだな」


 確認するかのような物言いだった。

 私は頷いた。


「はい。夢のせいで、私はときどき私が誰かわからなくなるんです。大原先生がどうして出てくるのかも気になります」

「ふむ」


 大原先生が考える仕草をする。右手で顎を触るのが、彼の癖だった。

 癖。そう、彼の癖だ。見覚えがあるからそう思ったのではない。おそらく授業でもそんな姿を見せることなどほとんどなかった。

 けれど私は知っている。

 何故?

 疑問に思った瞬間。私は思わず立ち上がった。大原先生が驚いて目を丸くしている。


「どうした?」


 大原先生が首をかしげてこちらを見つめている。

 私はもう自分の中の衝動が抑えきれなくなりそうだった。


「先生……。お願いがあります。一度、私のことをおばあちゃんって呼んでくれませんか」

「え?」


 先生が目を丸くして、驚いた声を出す。それはそうだろう。こんなお願い、誰でも驚く。ましてや中学生に向かっておばあちゃんなどと誰が言うだろう。でも私はこのもやもやした気持ちを確かめたかった。先生におばあちゃんと呼ばれることで、何かがわかる気がしていたのだ。


「お願いします」


 私は頭を下げて先生に頼んだ。


「理由を言ってくれないか。そうじゃないと、生徒をおばあちゃんなどとは呼べない。それに俺は、いや私は、祖母のことがあまり好きではなかったから」


 先生の言葉に、傷ついた私がいる。私は先生にとってのおばあちゃんがどんなに重いことか何となくわかっていた。先生の顔色を見ればわかる。胸が痛む。先生にとっておばあちゃんはつらいこと。その事実が私の中のもう一人の私が悲しんでいる。


「夢の中の知らない人たちを見ると、私は何故か懐かしい気持ちになるんです。幸恵って呼ばれるのも嫌じゃないんです。私は幸恵なんだって認識しているんです。だからきっと、こんな気持ちになるのも。先生が夢に出てくるのも。私がその幸恵おばあちゃんじゃないかって、思って」


 知りたい。確信が欲しい。ただそれだけだった。

 私の言葉に、先生が驚愕したように思えた。それから、先生は深く息を吐いてから言った。


「君は、自分が私の祖母の生まれ変わりだとでもいいたいのかね」

「はい。別に信じなくてもいいです。ただ、私は確かめたいんです。私の憶測が正しいかどうか。先生を懐かしむこの気持ちが正しいかどうか」


 私は真剣な表情で肯定した。自分でもおかしなことを言っていると思う。けれど、そうじゃないと先生が私の夢に出てきたことも。先生に対するこの懐かしいと思う気持ちも、説明がつかないのだ。


「わかった。ただし、一度だけだぞ。それでいいかな」

「はい。それでいいです。お願いします」


 私はもう一度だけ頭を下げた。それから顔を上げて真っすぐに大原先生の目を見た。


「おばあちゃん」


 先生の声は優しい。その声は化粧水を肌につけたときみたいに、胸の中に馴染むように入ってきた。


   〇

 

 藍川加奈という生徒を初めて見たのは入学式の日だった。彼女は遅刻してきたらしく、ひどく慌てた様子で式場に入ってきた。そのため席は一番後ろの、俺からすぐ見える位置に座らされていた。肩まで伸びた艶のある黒髪が印象的で、最近の子どもにしてはずいぶん大人びて見えた。

 俺は彼女とすれ違った瞬間、何故だか懐かしい気持ちになった。理由は恐らく彼女からした匂いだ。あれは確か、祖母の作ってくれた漬物。それとまったくと言っていいほど同じだった。お店で売っているのとはわけが違う。親戚でもない藍川という生徒からあの匂いがするのはおかしい。俺は困惑するしかなかった。突然、理由を尋ねるわけにもいかず俺は疑問に思いながらも、担当の授業で時折目にする彼女を、普通の生徒と同様に扱う日々を過ごしていた。

 そしてその子は今、俺の目の前で涙を流していた。もし誰かがここへ来たら変な誤解を生みそうだ。まるで俺が泣かしたみたいじゃないか。


「どうして泣くんだ」


 俺は問う。不安な顔を生徒の前で見せるのはこれきりにしたいものだ。


「思い……。思い出したんです。全部。私が、家族に。――大地に迷惑をかけたこと」


 何を思い出したというんだろう。どうして彼女は俺を下の名前で呼ぶのだろう。色々と疑問は浮かぶが、目の前で泣くこの子を見ていると言葉が出てこない。藍川の願いを聞いてそれで彼女の中で何かが変わったのだろうか。俺にはわからない。


「何だっていうんだ」


 そう言った瞬間だった。突然、藍川が俺の両手を握ってきた。彼女の手は、俺の手の半分くらいしかなかった。


「ごめんね。ごめんね大地。ずっと謝りたかったの」


 藍川の額が俺の両手に触れる。両手から彼女の体温がすべて伝わってくるようだった。


「君は何を言っているんだ。遊びなら付き合わないぞ」


 俺はすっかり混乱していた。先ほど彼女が生まれ変わりがどうとか言っていたが、そんなもの信じられるはずがない。ましてや俺は祖母のことを嫌っている。もし彼女の言っていることが本当だとしても、すべてを受け入れることなんてできない。

 藍川はかがめていた体を起こして、俺の目を真っすぐに見つめてこう言った。


「私は長手幸恵。あなたのおばあちゃんよ」

「何を言っているんだ。藍川。どうして祖母の苗字を知っている。いい加減にしてくれ」


 俺は頭を横に振った。

 とても信じがたい話だった。藍川が祖母の苗字を知っているはずがないのだ。

 酷い嫌悪感を抱いた。俺には彼女がままごとでもしているかのように思えて仕方がなかった。どこかで俺のことを調べて祖母の名前を知ったのかもしれないし。もしそうだとしたら俺はこの子を警察にでも突き出せばいいのだろうか。いや、俺はそんなに冷たい人間だっただろうか。


「ただの妄想でも、夢でもない。私が幸恵よ。わからないの」 


 彼女が顔を上げて俺の目を見たときだった。一瞬だけ晩年の祖母のことを思い出した。 施設のベッドで横たわる祖母。自分で動くことさえままならず、ただベッドの上からこちらを見ているだけの彼女を、俺は人形のように思っていた。


「やめてくれ!」


 怒鳴り散らすように、声を荒げた。自分でも信じられないくらい大きな声を出した。

 藍川の手を振り払い、パイプ椅子から立ち上がる。それから、逃げるように保健室から出て行く。もう耐えられなかったのだ。彼女の視線が。

 やめろ。そんな目で俺のことを見るな!

 そう叫んで廊下を走りたい気持ちを抑え足早に歩く。途中で誰かとすれ違ったが、それが誰だか俺は気にも留めないで進んだ。


   〇


 大地が保健室から出て行ってしばらくしてから、上野先生が入れ替わるように入ってきた。彼女は身の丈に合っていない白衣を着て、驚いた顔をして私と廊下の先の誰かを交互に見ていた。

 上野先生は首をかしげたが、私に白いタオルを渡すと先ほどまで大原先生が座っていた椅子に座った。


「何があったか知らないけれど。生徒を泣かせるのは許せないわ」


 私はタオルで涙を拭いながら、上野先生を見つめていた。彼女はどこか達観した表情をしていた。

 上野先生の言葉に、私は長手幸恵だけれど藍川加奈であることを思い出した。

 大原先生は、孫ではない。私にとって彼は先生で、私は生徒。そんな簡単なことを忘れかけていた。思い出させてくれた上野先生に感謝したいくらいだった。


「上野先生。先生は、生まれ変わりって信じますか」


 私はなんとなく先生に尋ねていた。


「どうしたの。突然」


 上野先生は目を丸くした。


「私、記憶はずっと脳にあるって信じていたんです。だから前世の記憶とかって信じていなかったんですけど」


 私の言葉に、上野先生が困惑した表情をしている。


「心に残った出来事ってあるじゃないですか。それってどういうことなんだろうってずっと思っていて。記憶と心に残ったことって同じなのかなって。心に残ったことって死んでも残るものなのかなって」

「難しい話ね」


 上野先生が顔をしかめた。


「夢って見たことのある人しか出てこないって聞いたことあるんです。でも、知らない人が出てくるんです。そこにいる私も私じゃないみたいなんです」


 膝の上に置いた自分の手に視線を落とす。しわのある手が思い起こされる。これは幸恵の記憶だ。私のものではない。


「先生は。生まれ変わりとかそういうのよくわからないけれど。そうね。あなたはあなたよ。今、先生の目の前にいるのはあなた。苦しんだり、悲しんだりしているあなたはちゃんとここに存在しているわ。藍川さん」


 上野先生は微笑んだ。

 それを聞いて私は少しだけ心が軽くなった気がした。上野先生が保健室の窓を開ける。心地よい風が入ってきて、私は深呼吸をした。

 

   〇


 胸の苦しさが俺を襲う。

 逃げるように保健室を出てきたことを後悔していた。もしかしたら藍川を傷つけてしまったかもしれないという罪悪感でいっぱいだった。

 足は自然に中庭に向かっていた。俺は美化委員の管理している花壇の前で膝を抱えるようにしゃがみこんだ。何も考えないようにしてただ花を見ていたかった。目の前で枯れかけの黄色いチューリップが揺れていた。

 授業中のせいか辺りは静かだった。どれくらいそうしていただろうか。誰かの気配がして、俺は振り向いた。そこにいた人物に、俺は目を丸くした。


「やっぱりここにいたんですね」

「藍川」

「職員室にいるかとも思ったんですけど。大地だったらきっと、落ち込んだ時は花壇の前だって思って。大地は怒られたときは決まってそうやって庭の花壇の前でしゃがみこんでいたから」


 藍川の言葉に、俺は眉をひそめた。

 藍川の中で俺の子どもの頃の記憶があることに違和感しか覚えなかった。


「そんな顔をしないでくださいよ。先生」


 藍川はそう言いながら花壇の前に立つ。スカートの裾を手で押さえながら、俺の右隣にしゃがむように座った。藍川はチューリップを見てほほ笑んでいる。

 俺は藍川から視線を外し、花壇のほうを向いた。

 俺と藍川の間に沈黙が流れる。俺はしばらくして口を開いた。


「――私の幼いころ。祖母は既に認知症だった。少しずつ症状が重くなっていって私のこともわからなくなった。私が中学生のころには疲れきった両親が祖母を老人施設に入れることを決断し、祖母はそこで亡くなったんだ」

「うん。幼いころの大地の記憶は鮮明にあるの。でも、大きくなっていってからの大地の記憶は朧気にしか覚えていない。自分が病気だったのは何となくわかっていた。脳がおかしくなっていったのも覚えている。すごく迷惑をかけたの。家族のみんなに。ずっと謝りたかったのに、口すら上手く動かなくて。もどかしくて。苦しかった」


 俺と藍川の視線は決して交わらなかった。

 俺はただ淡々と自分の思いを吐露した。


「私は。実のところそんなに祖母のことが好きではなかった。幼いころからずっと、祖母は母の悪口を言っていたからだ。二人の仲は最悪だった。いつも言い合いのケンカをしていた。それが病気のせいか元からなのか今となってはわからない。どうだったんだろうな」

「それは――」


 何かを言いかけた藍川は、黙ってしまった。

 別に質問を投げかけたつもりもなかったので、俺は言葉を続けた。


「罵声を浴びたり横暴な態度をとられたり下の世話をしたりと。母が可哀想だと思っていた。そのくせ子どもの俺を見ると笑顔になるんだ。ふざけんなよって思ってた。でも病気だから仕方ないと今は思う。病気のことを色々調べたけど、完治する薬がなかったことも知っているよ」


 俺は立ち上がる。


「でもあなたが気に病むことはないんだ。大人になって色々気づいたこともある。私が思春期に入って、祖母の症状がひどくなって。タイミングが悪かっただけなんだ。老人施設に入れたのも、私が祖母に当たり散らすようになったのと、母がもう限界を迎えていたからだし。だから――」


 俺はゆっくりと息を吐いてから、まだ花壇の前でしゃがんだままの藍川に視線を送る。

 藍川は俺のほうを見上げた。その顔は、また泣きだしそうだった。


「だから、あなたにありがとうとごめんなさいを」

「だい、ち」


 かすれた声が彼女の口からでる。


「あなたの言うことを信じたからこんな話をしたわけじゃないんだ。ただ。祖母のことを思いだしたから。色々あったけど。いい経験だったから。教師として藍川加奈さんに知ってもらいたくて。私も結果的にこうして祖母への想いを吐き出せて胸のつかえがとれた気がする」


 長い間、誰にも言えなかった。親にも友人にも。理解してもらおうとも思わなかった。一人で抱え込んで、一生誰にも伝えることなく死んでいくのだと思っていた。

 けれど、藍川に嘘みたいな話をされて。祖母のことを思いだして。ただ何となく藍川には知っていてもらいたいと思った。本当に、信じたわけでもないのだけれど。


「先生は、先生なんですね」

「当たり前だろう」


 言うと、藍川も立ち上がった。


「幸恵としての私はね。大地のこと大好きだったの。今も変わらない。大人になった大地の姿を見れて良かったって思ってる。でも、これは幸恵の孫への感情で。私の感情じゃない。上手く言えないのだけど。うん。でも。先生には幸せになってほしいって思っているのは私も一緒なんです。信じてもらえなくてもいいけれど、これだけは譲れないです。先生、幸せになってください」


 藍川がそう言って俺に向かってほほ笑んだ。


「――わかった」


 俺は頷いた。

 春の風が二人の間を通っていった。藍川がスカートを両手で抑える。その姿は普通の学生らしさがあった。やはり藍川が祖母の生まれ変わりだなんて信じられないと思いながら俺は再びチューリップに視線を移す。枯れかけで茶色くなった花びらが、風にあおられて一枚地面に落ちていった。


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