2/3の巫女
真花
第1話
金魚鉢の中にいるような静けさ、私は寝る準備を終えた体で布団から半身起き上がる、部屋には他に男性とそのお供の人が二人、それとお父さん。私が掌で水を掻くような仕草をしたのを合図に、男性が私の横に来て、じっと座る。彼は私の言葉を待っている。でも私から出るのは託宣ではまだないから、そんなに緊張しないで欲しい。
「……首相さん」
「
彼の額に汗が、つ、と流れる。彼はハンカチを出すとそれを拭き取った。
「ありがとうございます。本名が、必要ですから」
私は笑って見せるけど、彼はガチガチのままで、そんなに不安なら来なければいいのに。彼は固まってしまった。でも、こう言うことはよくあるから、私だってもうベテランだし、慌てずに次の手順に進めばいい。
「高島さん。もしやめたかったら、引き返せますよ」
彼は首を激しく振る。
「いえ。覚悟は出来ています。是非、お願いします」
彼は私の目をしっかりと見る。言葉達はすぐに静謐に吸収されて消えてしまうけど、彼の目線は翳りがない。
「では、私の手を握って下さい」
私は彼からは遠い方の左手を差し出す、体を捻って。枕の向きが決まっていて、手も決まっているから、家の構造と合わせるとこうする他ない。用は達せられるからよしとしているけど、ちょっと恥ずかしい。それとも手を取る人には大切な儀式の一つに見えるのかな。彼は私の手を両手で包むように握る、握り方に指定はないし結果にも影響しないと思う。手から彼が入って来るのが分かる。それ専用の道が手から腕、胸まであるみたいだ。そして胸まで届いたなら十分量。
「はい、大丈夫ですよ」
彼が元の位置で神妙にする。お父さんが、す、と寄って来て、「後の説明は隣の部屋で」と彼を連れ出した。それは私がストレートに眠れるようにするための配慮、すぐに眠らないと意味がない、だから、そこには気を遣う、私もお父さんも。
私は布団に寝る。他人と握手した手のまま寝るのは不愉快だけど、それも慣れた。リモコンで電気を消して、夢に落ちる。この私の夢にこそ価値があり、そのために人が来る。明日を映す夢、巫女の夢。
期限までに削り終えなくてはならない鉛筆を、校舎の中で、ひたすらに削っている。汗が噴き出して、ポタポタと垂れて、それを拭いもしない。エアコンは故障して窓が開いている。遠くからズシンズシンと巨大な足音が聞こえる。悲鳴はない。僕は削り上げた鉛筆を全部持って校庭に、窓から出る。一階だった。空がピンク色に染まって、足音の主はサワガニの大きな宇宙人。僕は鉛筆を繰り出して戦う。鉛筆はカニの急所に刺さり、宇宙人は仰向けに倒れる。空から勝者の名乗りが響き渡り、隠れていた本物のサワガニ達――彼等は宇宙人に弾圧されていた――と、鉛筆の眷属が校庭中を埋め尽くす。僕はそれを認めたら最初からそこにいた、と認識した、馬に乗って走る。それはどこまでも加速して、いつの間にか僕はジェット機に乗っている。隣の席の恋人が「私だけを愛している証明をして」とはにかむから、僕は進退極まった、と正面を見つめる。光の緒になった世界に、僕は早く戻りたい。
首相が私の夢を神妙な顔で聞いている。朝早くから彼は家に来て、私が目覚めるのを待っていた。声を録音して渡すと言う手段もあるのに、敢えてそうするのはどうしてなのだろう。でも、必死な感じはする。私はもう三つ、感覚に訴えかけて来るものを言葉にする。
「日本中、秋……十月くらい、高島さん」
彼はしばらく真剣な面持ちで黙ってから、「ありがとうございます」と頭を下げた。私には夢の意味は分からない、ただ見たそのままを伝えているだけ、でも彼にとっては何か意味があり、いや、彼にだけはその意味が伝わるのだ。顔を上げた彼が自信に裏打ちされた表情をしている、何か価値のあるものを渡せたのだ、曖昧な気持ちにいつもなる、だけどこれが私の役目だから、生まれたときからずっとそう言われて育って来た、私はそれ以上を求めない。だから彼の解釈を問わない。彼は立ち上がってもう一度礼をすると、部屋を出て行く。廊下から「選挙は勝てるぞ」「スキャンダルの芽を潰せ」とお付きの人に、興奮が抑え切れない調子で彼が言い放つのが漏れて聞こえた。
私は布団から出て洗面所にすぐに向かい、手を洗う、胸まで侵入して来ていた彼を掌から流し出す、やっと私だけの私に戻る。伸びを一つしたら、朝食の匂いのする方へ、お母さんが台所に立っている。「おはよう」と声を掛けると、「お疲れ様」と彼女が振り向く。
「何かお仕事みたいだね」
苦笑いをする私に彼女は、それ、と笑う。
「何百回と聞いているわよ。そんじょそこらの仕事よりも大事なお仕事よ」
「分かってるけど」
そう生まれついたからそれをずっとするって、それでいいのかな。
私はソファにドサッと座る。体の下から風が起きて、肩までの髪がふわりと浮く。空は青くって、寝室では聞こえない蝉の声がここでは鳴っている。初潮を迎えた十一歳のときから、私は巫女になった。ずっとお父さんもお母さんも私が巫女をすることが必要で、大切なことと私に伝えて、いや、教え込んで来たから、それにおばあちゃんも巫女をやっていたから、私は何の疑問も持たずに巫女を始めた。そして今日までやって来た。でも。
「ねえ、お母さん。私ってずっと巫女やって生きるのかな」
「そうよ」
「他の道って、ないのかな」
「ないわよ」
そう言うとは思っていた。これまでずっとそうだったし、そこがブレることは一切なかったから、当然そう言うだろうと思った。でも、言葉にして突き付けられると、胸の中がもやもやして、お母さんの意見ばかりが本物じゃないんじゃないかって、かと言って私が何かしたいことがある訳でもないけど、このまま一生を送るのは、それが嫌だと言うことだけは分かる。でもこれ以上お母さんに言ってもどうにもならない、私は黙る。
お父さんが一仕事終えた顔で居間に入って来る。
「首相は満足して帰ったよ」
お母さんが嬉しそうな声で「よかったわね」と応じる。私はついてないテレビの方を向いたまま。
「
私は徐々に沸騰し始めていた自分を抑えて、はーい、と出来るだけ平坦な声を出す。三人で食卓に付くと、お父さんが「
「ねえ、私、大学は行っていいの?」
お父さんが渋い顔をする。味噌汁をずっ、と飲む。
「今のところその必要性は感じないが」
「でも、お兄ちゃんだって行ってるじゃない。私だって、大学行って、自立したいよ」
「お前はこの家にずっといるのだから、自立の必要はない。それに大学に行くことがイコール自立ではない」
私が膨れる。
「じゃあ自立関係なく大学に行かせてよ。巫女だけの日々なんて嫌だよ」
ヒートアップしようとした私に、お母さんが割って入る。
「希、そろそろ学校に行きなさい」
私は刺々を隠す気にもなれず、とんがった「はい」を食卓に放って、学校に向かう。
学校では巫女のことは秘密だ。と言うよりも家以外のどこでだって口外してはいけない。そう言うしきたりになっている。だからどうやってお客さんを連れて来ているのか分からないし、どう言う報酬を得ているのかも分からない。報酬。そうだ。もしうちの家の稼業が巫女なのだとしたら、私が稼ぎ頭、と言うよりも私がいなければ家は稼げないと言うことになる。お父さんも外で仕事をしているようには見えないし、お母さんもそうだ。……二人が私に巫女をずっとするように強要するのはお金のためなんじゃないのか。いや、きっとそうだ。お兄ちゃんの大学の授業料も、家の車も、家そのものだって、私がいなくちゃ維持出来ないんだ。私は家を回すための労働力として鎖で繋がれているんだ。
「それって酷くない?」
「どうしたの希、急に」
「いや、何でもないよ」
彼女は、そっか、と首を少し傾げて、ウインナーにかぶり付く。プリッと美味しそうな音が跳ねる。
「ねえ、希、進路希望ってもう決めた?」
「まさにそれが悩みだよ」
「私さ、小学校の先生になろうかなって思うんだ」
「どうして?」
「子供が好きだし、小学校のときにいい先生がいたんだ。今も年賀状のやり取りしてて」
「そうなんだ」
友里とは中学で知り合った。中高一貫の女子校の中で、気の合う人と出会えたのはラッキーだ。でも友里にも巫女のことは話していない。いつか話せる日が来るのだろうか。……今の生活の延長線上に生きていたらそれは叶わない。全てを話すことが友情じゃないことは分かっているけど、私は彼女にもう片方の私を知って欲しい。
「希は少しも?」
「うん。まだ全く」
こう言う小さな嘘を重ねなくてはならない。もう、嘘をつくこと自体には辛さはないけど、それと大事な人を裏切っている感覚が累積するのは別だ。もしかしたら私が出口を他に求め始めたのは、溜まったものが、それは怒りに似ている、限界に達しようとしているからかも知れない。
「そっか。まあ、高二だし、まだ時間はあるよ」
「ありがとう。友里は優しいね」
だから私は午後の授業も放課後の時間も、普通の人間として過ごして、おしゃべりも買い食いも、人の目があるところでは普通の人間を演じている。演じていると言っても、起きている私に特別な何かがある訳ではないから、ただ巫女であることを秘密にしているだけだ。家に帰ればテレビも見るし、本も読む、ご飯も食べるし、全く普通の人間だ。私は普通。だけど、普通じゃない。巫女の力は夢の力、その力を保つために禁じられていることもある。それは恋だ。
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