AI絵の美しい自然性と無意味さ
森エルダット
第1話
近年のAIの台頭はある恐れをもって了解された側面がある。かつての産業革命のように既存の仕事は取って代わられ、職種によっては路頭に迷う者で溢れかえるだろうと。しかし、その職種というのは言い換えれば即ちほぼブルーカラーのことを指していて、多くのホワイトカラーはもちろん、芸術の分野においてはなおのことその影響をモロに被ることはないと思われていた。しかしてAIは絵筆をとり始めた。そして2018 年、ニューヨークで開かれたあるオークションにて、AIの描いた「Edmond De Belamy」という作品が出品された。そこまでの値がつくことはないだろうという事前の予想を裏切り、この作品は予想額の約43倍となる432,500ドル、日本円にして約4800万円で落札された。
一見するとこのオークション結果は、AIは絵画の領域においても人間を駆逐してしまう可能性を示しているようにも思える。確かにAI絵の特徴としてその新奇性以外にも、その発想の柔軟さや生成が容易かつ短時間で完了することなどが挙げられる。これらの特徴の単純な比較をすれば、およそ人が勝ることのできない強みを備えたAI絵が将来支配的になることを想像するのも無理はない。しかし、私はそんな可能性は全く無いと思う。というより、そもそも扱っている領域が全く異なっているように思える。そしてみんながこの差異に気づかない要因は、AI絵の真の魅力ともいえる「自然」性に目を向けていないからだと考えた。そこでこのエッセイでは私の考えるAI絵のもつその自然性と、ついでにそれのもたらす素晴らしい副次効果について書いていきたいと思う。
抽象的なことを書き連ねてもしょうがないので、具体例から入ろう。例えば「いちご」というお題に対してAIが白背景の真ん中に赤い丸が浮かんだ絵を生成したとしよう。その時あなたはこの絵をどのように感じるだろうか。単に白い背景に乗せられたいちごをこの赤い丸で描いたと思う人もいれば、お題をAIが取り違えて日の丸を生成してしまったと感じる人もいるだろう。またともすれば練乳にくぐらせた甘いいちごを食べるひと時を抽象的に表現したと見る人もいるかもしれない。しかし、端的に言ってこのようなあらゆる考察は全くもって無意味なのだ。なぜなら、当たり前のことだが、AIはなんの自我も意思も持っていない。単にAIは学習した何万枚の絵のデータを利用してお題にあった絵を生成しているのみであって、そこに絵に込められた意図を読み取るなどということは本質的に不可能なのだ。
対して、人の生み出す作品には常に考察がつきまとう。なぜなら、人は意図しない表現を用いえないからだ。アヴィニヨンの娘たちの身体はねじ曲がっていたわけではないし、デュシャンは展示会場とトイレを間違えたわけでもない。仮に意図の介入を退けようと、ランダムなドリッピングをしたというような絵があったとしても、結局それを作品として描いた(作品にした)以上、それ自体が意図となって作品に附着するのである。これはあまり本題と関係ないが、それなりに名の売れたボーカロイド曲には、必ずいくつもの長文の考察が投げられるという現象がある。これも歌っているのが機械音声でも、それを作っているのが生身の人間であるからこそ起こる現象だと言えるだろう。
以上のことを踏まえると、私の言うAI絵の自然性というものも意味が通るのではないだろうか。つまり、人の生み出す絵が意図という人為の入ったものにならざるを得ないのに対して、AI絵はその人為の入る余地がない。この意味で私はAI絵を自然と言っているのだ。何という皮肉だろうか。その名の頭にArtificialと冠する存在が、絵においてはNatureの極北に位置しているのだ。はんだ付けされた電子基板は、めいっぱいにカオスを孕んだ深山幽谷と繋がっていたのだ。
ここから私事になるのだが、私はAI絵に対する以上の見方に加え、あることをしてAI絵をさらに面白く鑑賞することができるようになった。それは、AI絵への考察である。勿論先述したことを忘れたわけではない。AI絵への考察は全て無意味である。しかし、だからこそなのだ。その純然たる無意味さこそが未だかつてない考察への道を切り拓いているのである。
人の作った作品への考察――つまり普通の意味での考察とはそもそもどういうことなのだろう。いくつか辞書を引いてみると、いずれも概ね「物事を明らかにするために考えること。」というような説明がある。つまり、普通の作品の考察というのは、まず絶対的な作者の意図の存在を前提として、それを明らかにするということになる。この意味で、普通の考察とは作者の出した問いに対する解答という構造を取らざるを得ない。普通の考察には明確に正解と不正解が存在するのである。ただ、そうならないこともあると言う人もいるかもしれない。例えば、谷川俊太郎は学生から自身の詩の意味を問われた際、詩というのは読み手の見方に応じてその姿を変えるというようなことを言っていた(らしい)。しかしそれは、谷川俊太郎があらゆる回答に○をつけたというだけであって、それを行った谷川の意図が存在する以上問答の構造は崩れていない。単に正の無限大に面積が発散した谷川俊太郎の手のひらの上で、筋斗雲に乗って自由に飛び回ることができるというだけのことである。
翻って、AI絵への考察はどうだろうか。前述の通り、そもそも明らかにすべき意図が存在しないのだから、前の意味の考察とは全く異なるものになる事がわかるだろう。AI絵への考察とは、すなわち考察が常に孕み続けた問答の構造からの解放なのである。我々はAI絵の考察をするとき、絵の考察という点において、高く高く突き抜ける、地平線さえ存在しないどこまでも続くNullの大空を初めて自由に羽ばたけるのだ。
ダリはミレーの晩鐘の男性は地面の下に埋まっている我が子を想像して勃起していて、それを妻から隠すために被っていた帽子を股間に当てていると考えたらしい。芥川はよっぱらった貴族が宴会芸で鼎を被って抜けなくなり、しょうがないので無理矢理に引き抜いたら鼻と耳がちぎれたという話を、世間に向けた自分の偽りの仮面をあまりに長くつけていると、本当の自分を露わにするのに痛みを伴わなければならないほどに癒着してしまうことのメタファーだと考えたらしい。少なくとも私の知る限り、二人の考察はいずれもまともに取り沙汰されているという話は聞かない。しかし、ミレーや話を作った平安貴族がAIだったならどうだろう。この二人のちょっとぶっ飛んだ考えも、比較的マトモと思われる考察も、全ては等しく無意味になる。いかなる考察も、いわゆる偏執狂的批判的方法じみたものとして扱われる。どれだけ好き勝手なことを言ったとしても、だれもそれを咎める人はいない。ああ、何という美しさと面白みを兼ね備えた無意味さだろうか!
これだけAI絵の良さを書き連ねてきたが、私は人の絵はその下位互換だと言う気は毛頭ない。なぜなら、そもそも生成過程や意図の有無、考察の構造など、あまりに根本的な違いが多すぎ、大きすぎて単純比較することが無意味だと思うからだ。AI絵にはAI絵の、人の絵には人の絵の良さがある。そしてここまで私が見つけたAI絵の良さを書いてきたが、もちろんその他にも色々な良さ、楽しみ方、美しさを見つけられるだろう。AI絵の可能性はまだまだ無限大だ。もし少しでも興味が湧いたら、是非AI絵をその目で見て、または作り出してみてほしい。規約上具体的な名前を出して紹介することができないのだが、「AI 絵」とでもグーグルに聞けばいろいろと作品やサービスを見つけられるだろう。海外のものに目を向けてみても良いかもしれない。最近になって短時間かつクオリティの高いAI絵のサービスが次々生まれており、その人気は加速度的に上がっている。このビッグウェーブに乗ってみてはいかがだろうか。
AI絵の美しい自然性と無意味さ 森エルダット @short_tongue
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