覚えていて / 娘娘
追手門学院大学文芸部
第1話
私は、今も頭から離れない子が居る。
その子は、ずっと脳裏の片隅にいるという訳でもなく、記憶として鮮明に強烈に焼き付いているという訳でもない。
何気ない時間、変わらない景色、感傷に浸るでもなく機嫌がいいわけでもない、何も変わらない退屈な空間で、契機も違和感もないままふと思うのだ。
あの子は、どうしているのだろう、と。
そう考えた後に、あの子とはどの子のことを言っているのだと自身に疑問を抱く。しかし、ただ漠然と、気にしなければいけないような気がして、気にしたいと感じて、この行為が私にとって必要なのだと確信して。
大切にしまっていた記憶の宝箱を開ける。
そして、まだ指でなぞる前の、窓越しに見る冬景色のように朧気な。
それでいてやけに具体的でもある記憶が蘇るのだ。
この茶番のような、思い出すまでの工程と、何度となく繰り返す記憶への執着は理解しがたく滑稽なことだろう。
それでも必要なのだ。いつもこの記憶と向き合うため準備をして、時に面倒でも苦痛でもこの過去だけは覚えていたい。そう思える記憶だ。
給食が終わり長い休憩の後、一緒に掃除をする時間が私の一番のお気に入りだった。ちりとりを持って、ほうきを持ったあの子の後ろをついてまわる時は、わたあめの上を歩いているような感覚に包まれていた。
教室のほこりをちりとりで受け取る時、ちりとりを後ろに下げてほしいと催促する声を聴いた瞬間も、声をかけられて下からあの子を見上げる瞬間も、ほこりっぽい匂いが甘く感じるほどに浮かれていた。
少し仲良くなって初めて二人で遊ぶ約束が出来た時、家族との遊園地に行く約束よりも心が踊った。
楽しめるように、家中の漫画をかき集めて一緒に漫画を読んだ日。運動なんて嫌いなくせに家の奥からボールを引っ張り出して一緒にサッカーをした日。つまらないことが、どうしようもなく楽しくて。シャボン玉が作られて消えるように時間が過ぎた。
あの子が自分の家を教えてくれた日、夜に母が入れてくれたココアがやけに美味しかった。
あの子の家は意外と私の家から近くて、おつかいで出掛けた時に家の前を通ってみたり、家のある方角を見てみたりして、偶然ばったり会えないかなと考えていた。友達と外で遊んでいるあの子を見つけた時は、声なんてかける勇気もなかったけれど、私の視界は、おもちゃの宝石を眺めている時と同じように輝いた。
あの子が周りにからかわれて、嫌々私を呼び出している様子を見て、ビー玉を飲み込んでしまったような感覚をおぼえた。
あの子がなにか伝えたいらしいと、クラスメイトに言われた時、扉の後ろで不機嫌そうなあの子を見てつい断ってしまった。クラスメイトのこの状況を揶揄し笑う顔が嫌だったわけじゃない。不機嫌そうなあの子を嫌ったわけじゃない。ただただ、呼び出されるという喜ばしいはずの経験がどうしても喜べなくて。息が詰まり胸が痛かった。でも、どれだけ息が詰まっても胸が痛くても、あの子からの呼び出しを断らなければよかった。
チョコレートをあげる時、まるで万華鏡を覗いた時みたいに頭の中に様々な妄想が次々と姿を変え華やいでいた。
結局、チョコレートをあの子の家のポストに入れてしまった時は、安堵を感じると共にやるせない気持ちでいっぱいだった。受け取ってくれたか不安だった。食べてくれたのか知りたかった。食べているところが見たかった。もう全て叶えられないことがもどかしかった。
そして、突然あの子が転校することを聞いた。
最後に渡してくれた私への手紙に、チョコレートのお礼が書いてあった時。
その簡潔で、本当にお礼だけの内容の手紙を見て、熱いものが込み上げてくるような、冷たいものを飲み込んだような変な気分だった。その手紙はお気に入りのシールと一緒に、ランドセルの奥にしまった。みんなもうあの子のことは口にしなかった。私もあの子のことを話すことはなかった。聞かないようにしていただけかもしれないけれど、話さないようにしていただけかもしれないけれど。
あの瞬間から私はあの子を覚えることがなくなった。
突然あの子が転校した日から今まで、時折思い出しては今頃どうしているだろうと考える。どんな会話をしたかなんて思い出せないし、どんな顔の子だったか覚えていない。名前は覚えてはいるけれど漢字は書けないし、本当にこの名前であっているのかと自分の記憶を疑うほどだ。もうこんなにも忘れてしまったのに、宝物だと言わしめるように輝いて、その眩しさに耐えるよう準備が必要なほどだ。そうして、何度も思い出しては忘れていく記憶を確認している。
始まりは何がきっかけだったかなんて覚えていないのに。
覚えることを辞めても。
ほとんど覚えていなくても。
それでも、覚えている。
あの頃。あの時。あの瞬間。
今はもう忘れてしまったあの子を。
特別な時間を。
複雑だった感情を。
昔も今もこの先も、ずっと覚えている。
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あとがき
これまで、私は脚本をもとに小説を書いてきました。しかし、もう小説にしたい脚本が無くなったので、一から考えました。今回は、心情というより情景や感覚を大切にして意識的に比喩(?)暗喩(?)を多めに書いたのですが、「〜のような」がくど過ぎたかなと反省中です。
今回の小説を書こうと考えたのは、昔のクラスメイトをフルネームと小さな頃言っていた将来の夢の職業を併せて検索したのが始まりです。思いの外簡単に検索にひっかかり、近況が知れたものですから、吃驚して懐かしんで、「この職場、自転車で行けるなぁ」なんてとこまで考えて携帯を閉じました。私にはストーカーの気質があるのかもしれません。恐ろしい。もう会うこともない人ですが、懺悔と供養とその他色々を小説に込めてそっと大切にしまいます。また開けちゃうんでしょうけど。
覚えていて / 娘娘 追手門学院大学文芸部 @Bungei0000
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