六月五日

「おっはよー!」

 朝起きて、最近特に思うのは目覚めがいいということだ。



 失ったものが大きい僕にはきっと感情の欠けている部分が間違いなくある。この姿になる前からずっと、夢の中で不安のようなものが形を取りその都度苦しめられてきた。

 それに負けたくなくて実生活では明るい振りをし続けた。もちろんそれが完全に自分のものになるまでは時間が掛かった。


 ――周囲から投げかけられるトゲのある言葉や反応が、心と体を貫いて僕はバラバラになる。

 そうなってもなお流れ込む悪意は身を包む。

 顔のない人達は決して容赦ようしゃをしてくれなかった――。


 けれど、そんな悪夢は冬月まひろになってからは一切見ることがなくなった。それはもう僕が春日祐かすがひろではないという証明になってしまうのだろうか。

 たとえそうなのだとして。いや、それ以外の理由があったのだとして。

 ただ一つ。この答えは誰にも僕にもわかりはしないだろう。



 目を開けてすぐに聞こえたその声は、不安を打ち消すようにいつも暖かく出迎えてくれる。それはここが現実の世界なのだとすぐに教えてくれる。

 目覚めたての僕は、私がまひろなのか祐なのかそれとも、得体の知れない何かなのか。それすらもわからないまま意識は薄ぼんやりとしている。それでも彼女は優しく微笑むのだ。

 ゆっくりと頭のモヤが晴れていく。


「ルナ。おはよ」

 毎朝、僕と入れ替わりに彼女はと倒れこむようにして眠る。僕の側につくというのはそれほどに大変な任務なのだろう。

 ――いつもごめんね。

 頭を撫でてそっと布団を掛ける。そうして鼻の詰まったような感覚とともに身支度を始めるのが冬月まひろの一日のはじまり。


***


「まひろちゃん、どうしたの――」

「冬月さん。まさか――」

「まひろん……。今日は部活――」


 誰の声も頭には入らない。終業のチャイム。愛想笑いを浮かべて逃げるようにして正門から出ていく。

 普段乗ることのない路線の電車で八駅。不意に差し込む日の光に目を細めながら、途中から段々と閑散かんさんとしていく景色が窓の外を流れていく。

 命日の今日、この電車は両親の眠る霊園を目指して進む。


 事務所で挨拶を済ませ墓石の並ぶ道を歩いている。これまでは、なんとなくひんやりとした空気がこの時期には似つかわしくなくてあまり好きではなかった。

 進んでもさほど変わらない風景の中をく。


 ――春日家之墓。


「今年は一人で来たよ。……って言っても僕ってわからないか。きっと驚くよね、祐だよ」


 桶いっぱいの水を柄杓ひしゃくですくい墓石全体に行き渡るようにかけ、スポンジでゆっくり丁寧に汚れを落とす。


「ふう、こんなものかな。すごく綺麗になったね」


 ふと見た墓石の右側面には両親の名前と――僕の名前が彫られていた。遺影を初めて見た時のような衝撃はもうないけれど、それでも見ていて心地のいいものではないのは確かだ。

 正面に戻ると線香に火をつけ、いくつか供え物と花を置いて手を合わせる。


「姉さんが元気になるまで支えるから。ね、僕に全部任せてよ」


「そうだ、来年はさ」

 思わず言葉に詰まってしまった自分に驚く。

 直後強い向かい風に目をつむる。

 遠くではカアカアとカラスの鳴き声が響いた。

 そして深い呼吸を一つして目を開ける。


「――姉さんが来てくれるからね。だから安心していいよ」


***


『まひろちゃん! やっぱり心配だよ。大丈夫なの?』

『冬月さん、おごるからとりあえず飯でもいこう!』

『まひろん。明日いっぱい本持っていくから。一緒に読も』

 帰りの車内、メッセージの音で目が覚める。いつの間にか眠っていたらしい。


 駅の改札を出て帰路きろにつく。

 それでも、こんな僕でも見てくれている人達がいるんだ。

 謝ろう。今日のことごめんねって、謝りたい。


 ――遊園地。夕焼けの中、二つの大きな影と小さな影が手を繋ぎこちらに振り向いて笑う。そして小さな影は観覧車を指差すと、僕は急いで三人のもとへ駆け寄る――。


 それぞれに返信をしながら、暗くなり始めた道の途中で。いましがた見た光景ゆめをたぐり寄せていた。

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