第8章 マトリックス

 昔々、昭和と言われた時代、東京の街には、喫茶店と呼ばれるカフェがたくさんあったそうだ。ビルの地下なんかに入ってて、席数は三十席くらい。ちょっと薄暗くて、すわり心地のいい椅子とブースがある。軽音楽とコーヒーの香りと煙草の煙が店内を満たしている。(その頃、嫌煙権は存在しなかったという)カウンターの向こうにいるのは、この店のオーナーで、「脱サラ」して自分の城を持った。それだけに、コーヒーの淹れ方からカップの選択、店内のインテリアにもこだわりがあった。それぞれの店に個性があって、常連客がついていた。あの時代の作家は、喫茶店で原稿を書いたらしい。パソコンもスマホもまだなかった頃、行きつけの喫茶店の片隅で原稿用紙を広げる。そうやって、コーヒー一杯で何時間ねばっても許された。何もかもが、もっとのんびりしていた時代だった。

そう言うと、そんなことはない、日本経済が一番、活気のあった時代だ、俺たちは忙しかった、と後藤は言う。だから言い直そう。活気があって、心豊かだった時代。デジタル時代に入って、アナログの時計や、万年筆やレコードと一緒に何かが消えた。僕らはインターネットを手に入れ、百科事典を失った。豊富な情報を手にして、無駄な時間を失った。効率が玄関から入ってくると、人情は裏口から出て行く。今、喫茶店は町から消えつつある。スタバやドトールのような大資本に、個人経営の小さな店が勝てるはずはない。喫茶店は、今や、絶滅危惧種のレッド・データ・ブックに載っている。

 後藤が指定した「バルドール」は、そういう、消えゆく喫茶店の最後の生き残りだ。硝子戸を押して開けると(今時、手動)チリリンと鈴が鳴る。店内は暗い。ダークウッドの長いカウンター席に、壁際にブース席が三つほど。客はカウンターに二人。白髪のマスターらしき男と、低い声で話してる。

 僕は、入口が良く見えるブース席を選んだ。すぐにマスターらしき男が、おひやとおしぼりとメニューを運んできた。腹が減ってたので、ミックスサンドとコーヒーとサラダのランチセットを頼んだ。背もたれに寄りかかって、凝ったステンドグラスの笠のついた電灯を眺めた。壁には、バイキング船を描いたエッチングが掛かっている。「バルドール」ってのはたしか、北欧神話に出てくる、イノセントを象徴する神様の名前だ。バルドールが殺されて、「神々の黄昏」が始まる。インテリアといい、名前といい、確かに後藤好みの店だった。

 徐々に客が増え始め、正午を過ぎた頃には、満席になった。僕は心配になった。後藤の口車に乗ってうかうかと出てきたけれど、やっぱり無謀に過ぎたかもしれない。待ち合わせの相手は殺人者だ。しかも、相手は僕を知ってるのに、僕の方は、相手の顔を知らない。やつはもうここに居て、黙ってこっちの様子をうかがっているのかもしれない。すでに一人殺している、凶暴な奴だ。周りで談笑している人たちみんながひそかに僕の様子をうかがっているような気がした。

 ひとり、特に気になるやつがいた。一人でカウンターにすわってる会社員風の若い男で、僕がここへ来た時は確かにいなかった。コーヒーカップを前に、誰と話すでもなく、スマホをいじっている。時折、こっちにちらりと目を向ける、その視線が鋭くて冷たい。なんなんだ、こいつ。頭の中をさらってみたが、過去の知り合い、共演者、スタッフもろもろの中に思い当たる顔はない。職業柄、人の顔はよく覚えている。賭けてもいい、初めて見る顔だ。また、視線が合った。目が合うとすっとそらす、いけ好かない野郎だ。今度目があったら、なんのつもりか問い詰めてやる。

チリリン、とドアベルの音が鳴った。反射的に顔を向けると、これは確かに見覚えのある顔が、店の中をきょろきょろと見回している。「いらっしゃいませ」マスターが声をかけたが、引き目かぎ鼻の特徴のある顔は、まっすぐに僕の前にやってきた。

「あなたね、どういうつもりなんですか」

「ネクスト企画」の案内係は初めからけんか腰だった。ショルダーバッグをブースに投げおろすなり、向かいの席に挨拶もなしに腰をおろした。面接の時の、お上品な言葉遣いはかけらもない。「こんなとこに呼び出したりして。私、忙しいんです」

「それは僕の方が言いたい」

 最初の驚きから立ち直ると、騙された怒りがよみがえってきた。「君はメリル・ストリープじゃないじゃないか。他人の名前を騙って人を呼び出して、なんのつもりだ」

 案内係はきょとんとした。

 僕はスマホを取り上げて、メールを声に出して読み上げた。「このメール、僕に送った覚えがあるだろう?」

 細い目がさらに糸のように細くなった。

「あったらどうなんですか?」

 ふてくされたような返事。僕はかっとなった。

「そんな言い方はないだろう。僕がどれだけ迷惑して……」

「いらっしゃいませ」

 白髪のマスターが、案内係の前に、おひやとメニューを置いた。絶妙のタイミング。沸騰点に達しようとしていた僕の怒りに水をさした。

注文を受けてマスターが立ち去ると、僕ら二人は気まずく顔を見合わせた。楽し気に昼食をとっている人々の間で、声を荒げて非難の応酬をするのは、あまり褒められたお作法じゃない。

「まず」

と、僕はできるだけ冷静を保って言った。「君の名前は北沢千秋じゃない」

「違います」

「じゃ、彼女になりすまして嘘のメールを送ったことは認めるんだね?」

 彼女は黙っていた。

「返事は?」

「知りません」

「知らないって……」

「答えたくないってことです。あなた、何様のつもりなんですか。警察みたいに人のこと呼び出して質問攻めにして」

「勝手なこと言うなよ。君が偽のメールをよこしたことが発端じゃないか」

「あなただって、嘘ついて呼び出してるじゃないですか。忘れ物ってなんのことですか」

「へえ、気になるんだ」

「なりません!」

「じゃ、どうしてここへ来たんだよ」

「あなたに一言、言っておきたいからです。くだらないメールを送るのは止めてもらいたいって。いい迷惑です」

「迷惑って、君がそもそも……」

「お待たせしました」

 彼女の前に、湯気の立つ、香り高いコーヒーがすっと差し出された。「砂糖とミルクはこちらです」

僕らは二人とも黙り込んだ。彼女はコーヒーにミルクを入れる作業に没頭し、僕は残っていたハムサンドを片付けにかかった。ここのマスターは、争いに水をさすタイミングを心得ている。こういう人が国連の事務総長になると、世界のもめ事は減るだろう。

 僕がハムサンドを咀嚼している間、彼女はスプーンでコーヒーをかき混ぜていた。強気の態度と裏腹に、うつむいた顔に疲れたような表情が見える。クリップボードを小脇にかかえて、さっそうと歩いてた女子社員とは別人のようだ。

「君、なんていう名前?」

「イマイジュリアです。今井は現在の今、井戸の井。ジュリアは果樹の樹に、さとの里、アは、西という字に似た亜です。樹里亜」

 彼女は慣れた様子でテーブルの上に人差し指で漢字をなぞってみせた。

「しゃれてるね。外国生まれみたいだ」

 彼女の顔は、しもぶくれのひき目かぎ鼻、どう見ても純血種の大和民族に見えたけど、何か言わなきゃさまにならない。僕のお世辞を、彼女は肩をすくめてやり過ごした。

「キラキラネームですよ。単なる親の趣味。英会話は習ってますけど。少しでも、スキルアップしないと、勝ち残っていけないから」

「大変だね」

 彼女はうなずいてコーヒーをすすった。それから突然、怒り出した。

「あなたはいいですよね。最初から正社員で。定期昇給もボーナスも社会保険もあって。いつ契約打ち切られるか、びくびくしないで済んで。定年まで何の心配もしないで勤めて、退職金もらって、年金もあって、悠々自適の老後でしょう。私も、そういう境遇に生まれたかったです」

 僕はあっけにとられた。

「何の話?」

「とぼけないでください。みんな知ってます。今度の中途採用は出来レースだって。あなたを入社させるための、形式上の手続きに過ぎないって」

 彼女もだ。彼女も僕を又助の孫だと思ってる! 頭がくらくらしてきた。

「私、もう五年、あの会社で働いてますけど、三か月契約の契約社員です。一生懸命に働いてきました。忙しくて手が足りない時は、残業も休日出勤も、正社員なみにがんばりました。二年たって、三年目に入る時に、重役会で私を正社員にするという話があったそうです。でも、見送られました。人件費を増やすのは得策じゃない、今のままでいいって。後でそれ聞いた時、わたしがどんな気持ちになったか、あなたにはお分かりにならないでしょうね、江川登さん!」

 彼女の声はどんどん高くなっていった。僕は必死で、違う、違うと顔の前で両手を振り回した。

「違うんだよ。全然違うんだ」

「ええ、違いますよ。江川又助の孫と、いつでも切れる契約社員。まるで身分が違います。不公平じゃないですか。私はそれが悔しくて」

 彼女は声を詰まらせた。テーブルの上の紙ナプキンでしきりに目を押さえている。

僕はポケットをさぐった。柔らかいティッシュが手に触れたので、引っ張り出した。「これ、使って」と差し出した。「ありがとう」と、顔をあげた彼女の顔が引きつった。

 ティッシュの表面で、巨乳の女の子がにったり笑ってる。平日大サービス一時間二千円ぽっきりの文字が躍ってる! どっかの路上で配られた風俗の営業用ティッシュだ。僕はあわててティッシュをひっこめた。「ごめん、まちがえた」さらにポケットをさぐった。くしゃくしゃで汚いハンカチが出てきた。コンビニのレシート、十円玉と五円玉がいくつか転がりだした。のど飴が3つ、輪ゴム、どこか全く覚えのないところの鍵、もう一つのティッシュが綿ぼこりと一緒に出てきて、テーブルの上に積みあがった。最後に出てきたティッシュは、郵便局でもらった。がん保険の広告が載ってるやつで、これなら安全だろう。「はい、これ」と差し出すと、彼女は赤い顔をしてうつむいている。僕はあわてた。

「ごめんよ。あの……そんなつもりじゃなかった。失礼は謝ります。あの、泣かないでください」

 彼女はいきなり立ち上がるなり、走って行ってしまった。なんなんだ、一体。僕は誠心誠意、謝ったのに。そもそも、なんで僕が謝る必要がある。僕はのろのろと、テーブルの上のガラクタをポケットに戻した。

 ジュリアはすぐに戻ってきた。

「失礼してごめんなさい。でも、おかしくて」

 彼女は僕を見て、吹き出しそうな顔をした。僕はむっとした。

「真面目に話してるんだよ」

「わかってます。ごめんなさい。何の話でしたっけ」

「君が、なんで、メリル・ストリープの名前を騙って僕にメールしたのかってこと」

「さっきから言ってる、そのメリル・ストリープって何ですか?」

「メリル・ストリープを知らないの? 四回もアカデミー主演女優賞を取った名女優なのに」

「そのメリル・ストリープは知ってます。うちの北沢次長が、メリル・ストリープなんですか?」

「そうだよ。美人で優しくて親切だ」

 ふん、とジュリアは鼻を鳴らした。

「野心家のオポチュニストで、会社のガンですよ。会長に取り入って、会社を自分の好きなように動かそうとしてる。会長の愛人だって噂もあります」

「嘘だ!」

 メリル・ストリープはそんな人じゃない。

「違うんですか?」

 ジュリアは意外そうに言った。「北沢次長は時々、週末に葉山へ行ってる。葉山には、お祖父様の別荘があるでしょう?」

「うちのじいさんは天国にいるよ。君たちみんな、大きな誤解をしてる。僕は、江川又助の孫じゃないんだ。会長とはなんの関係もない」

 引き目かぎ鼻の目が、いっぱいに開いた。無理やりにこじ開けたみたいで気の毒だった。

「うそ」

「本当だ」

 僕は胸を張って断言した。「僕と江川又助に血縁関係はない。同姓なのは偶然だ。ちゃんと調べたんだから間違いない」

 僕は、聡美の作った家系図の話をした。

「メリル・ストリープも僕を、会長の孫だと勘違いしてた。いったい、誰なんだ、そんなデマを流したのは。迷惑千万だ」

「私は、佐伯課長から聞いたんです」

「佐伯って?」

「面接の時にお会いになったでしょ。進行役をされてた小柄な方」

 僕は思い出した。

「チャップリンか」

 ジュリアは僕を睨んだ。

「その、なんでもかんでも映画俳優の名前で呼ぶの、やめてくれませんか。話がこんがらがってくるから」

 別に、いつも映画俳優にしてるわけじゃない。会った人間の第一印象を一言で表現するように訓練しているだけだ。キャラクターづくりのいい手がかりになる。僕がそう説明すると、彼女は興味を持ったようだった。

「じゃ、私はどうですか。なんて名づけます?」

 君は……と言って、僕は絶句した。引き目かぎ鼻。でもそれを言うわけにはいかない。長年、舞台で女優達の相手を務めてきた僕だ、それくらいのことはわかる。ジュリアは、ポーズをとるように顎を突き出し、にっこりと笑った。細い目がますます細くなった。

「考えておくよ」と、取り繕って、急いで話題を変えた。「それより、さっきの話。君はなぜ、メリル……他人の名前を騙って僕にメールを送り付けたんだ?」

「あれは……」

 彼女は言葉を切ってちょっとためらった。きまり悪そうな顔になった。「あのメールのことは謝ります。私、腹を立てていたんです。正社員を採用するなら、五年も真面目に尽くしてきた私を昇格してくれてもいいのにって。北沢次長が、あなたに傘を持っていった時も、おべっか使いがもう、会長の孫にすり寄ってるって。あなたが会長の孫だと信じてたから」

 彼女は訴えるように僕を見た。「うん、それで」と僕は話を促した。

「だから、あなたの履歴書からメールアドレスを探して、あのメールを送ったんです。あなたが呼び出されて出てきたら、北沢次長のマンションに入るところを写真にとってやろうと思って。うまくいけば、二人のツーショットが撮れるかもしれない。社内で公表したら、ちょっとしたスキャンダルになる。北沢次長が失脚して退職したら、正社員わくが空くでしょ。そうしたら、私にもチャンスがあるかもしれないって、そう思ったんです。二時間、マンションの外で待ってました」

 彼女はため息をついた。「でも、あなた来なかったし、足が疲れてむくんだだけでした。そもそも、江川会長の孫じゃないなら、なんの意味もない」

 長々とした罪の告白の後半を、僕はほとんど聞いてなかった。スマホを取り出して着信記録を呼び出すと、彼女に突き付けた。

「これ、君が送ったメールだよね。まちがいない?」

 彼女はきょとんとした。

「ええ、そうです。申し訳ありませんでした。でも、実害はなかったでしょ。あなた、来なかったし」

「行ったんだよ、僕は。その住所にちゃんと行ったんだ!」

 ダリアの花束を持って。

 彼女はメールの画面を見直した。

「やだ、これ、変。ちょっと待って」ジュリアは自分のスマホを取り出して操作し始めた。

「あの、その住所なんだけど……」

「ちょっと待っててください」

 唇をきっと結び、真剣な目でタッチスクリーンを操作してるところは、最初に会った時の有能な女子社員の顔だ。やがて、彼女は顔を上げた。「やっぱりそうだった、ほら、」と言って、スマホを僕に見せた。

「北沢次長のマンションは、吉祥寺南町のパレス吉祥寺六○二。同じ吉祥寺だから間違えちゃったのね。これは……」

「殺されたなんとかさんの家だ。今朝のニュースでやってたろ」

 ジュリアが口をぽかんと開けた。「落ち着いて」僕は言って、テーブルの上の彼女の手を押さえようとした。そうやって、気を静めてもらおうとしただけなんだ。だが、彼女は素早く手をひっこめると、立ち上がった。

「あなたが殺したの?」

 店中に響くような大声だった。

「ばかなこと言うなよ」

 僕は慌てて言った。「そんなわけないだろうが」

 ジュリアはじっと僕を見ている。

「すわってくれよ。人がびっくりして見てるじゃないか」

 僕は懇願した。 昼休みはほぼ終わりかけて、残ってる客は十人ほどだったが、一斉に話を止めてこちらを向いている。ひとり、カウンターの向こうのマスターだけは、平気な顔でグラスを磨いていた。

 ジュリアはストンと腰をおろした。緊張が解けて、店の中にはまた、談笑と音楽の混ざった低いざわめきが戻ってきた。ほっとして、僕はマンションで起こった出来事を話した。

「警察が探してる黒い帽子の男っていうのは僕だよ。でも、僕は殺人には関係ないんだ」

ジュリアはあっさりと「信じる」と言った。「あなたみたいなドジな人が、犯人とは思えないもの」

 喜ぶべきだろうか。僕が悩んでいると、ジュリアは続けた。「それに、ルネサンス・プロジェクトは社外の人とは関係ない話だもの」

 ルネサンス・プロジェクト?

メリル・ストリープも一度、そんな言葉を口にした。あの雨の日に。

「その、ルネサンス・プロジェクトって何?」

「マリーン・ナーチャーの販促プロジェクトです。江川会長の御声がかりのプロジェクトなんだけど、重役会の大部分は反対してる。でも、会長は強引に計画を進めていて、今回の面接予定者の中に会長の息のかかった候補者が潜ませてあるって噂でした。その人が入社してプロジェクトを指揮する、だから、あなたの名前があった時、私たち、当然あなただと思ったんです」

「僕は違うよ」

 ジュリアは微笑んだ。「そうみたいですね」

 引き目かぎ鼻が笑うとちょっと可愛いことに僕は気が付いた。

 しかし、ジュリアは時計を見て、「大変!」と叫び、立ち上がった。「会社にもどらなきゃ」

「待てよ。まだ話が終わってない」

「じゃ、メールして。アドレスは知ってるでしょ」

 彼女は千円札をテーブルに置くと、あたふたと出ていった。

 僕も立ち上がって、レジに向かった。

「すみませんでした、お騒がせして」

僕があやまると、「エクソシスト」に出てきたメリン神父にちょっと似ている白髪のマスターは、目元を笑わせて、「はて、何のことでしょう」と言った。チンと旧式のレジスターを鳴らし、釣銭を出した。

「後藤によろしく。ぎっくり腰が治ったら会おうとお伝えください」

「お知り合いなんですか?」

「昔、ちょっとね」

 人は見かけによらない。柔和な印象のメリン神父も、その頃は「解放区」で機動隊に石を投げたりしてたのだろうか。

 

外に出ると、午後の日射しが目にまぶしかった。昨日までの冴えない天気の埋め合わせをするみたいに、太陽がかっと照りつけている。誰もかれもが日射しをよけて、忙しそうに歩いている。できるだけ日に当たらないように帽子をかぶり、日傘をさし、日陰から日陰へと素早く渡り、あわよくばエアコンの効いた涼しいビルの中か地下街を通って目的地へたどり着こうとしている。僕は時々思うんだが、日本人はいつから、日光をこれほど毛嫌いするようになったんだろう。

 この間、切手を買いに郵便局へ行った時、紫外線を浴びるのは皮膚がんの原因になると警告された。窓口のお姉さんは、「私もできるだけ、日光を避けるようにしてるんです。日焼け止めは欠かせません」と言った。確かに彼女の肌は白かった。「トワイライト」に出てきたエドワードみたいに。「太陽の光を浴びると死んじゃうの?」僕が言うと、彼女は「死にはしませんけど、シミの原因になります」と言った。冗談はわかってもらえなかったみたいだ。それから、がんの怖さとその備えについてひとしきり講義を聞いてから、ティッシュをもらって出て来た。

 僕はエドワードの一族じゃないから、午後一時半の日盛りの新宿を歩いても、なんともないはずだった。それなのに、なんとなく元気がなくなってきた。

 周りの人は忙しそうに歩いてる。どこか決まった目的地に、決まった時間に着こうとして、いそいそと動いている。僕はそうじゃない。行くべき場所がなく、守るべき時間がない。どこへ行こうと自由で、でも、どこへ行きたいのかわからない。今、するべきことが何もないからだ。面接の結果を「待つ」こと以外は。

「何かしたら?」と聡美は言った。「求職中だからってぼさっとしてないで、何か有益なことをするのよ。ボランティアに参加するとか」

わかってないな、と僕は思う。ボランティアは無償の奉仕だ。仕事で金を稼いでいる人にとっては、やりがいのある活動だろうけど、生活費を稼がなきゃと焦ってる人間には、何の慰めにもならない。聡美みたいに、一度も失業したことのない人間は、このヒリヒリした焦燥感を知らない。知らない人間にアドバイスをする資格はない。「社に戻らなきゃ」と言って駆け出していったジュリア、君は幸せだ。契約社員だろうがなんだろうが、行くべき場所と守るべき時間を持ってる。

 すっかり気落ちしてしまった僕は、太陽にさらされたヴァンパイアみたいに、たまたま目に入ったコンビニに逃げ込んだ。

「いらっしゃいませ」と明るい声で迎えられたけど、返事をする気力もない。僕は、よろよろと店の奥へ進んだ。冷蔵ケースの前で立ち止まると、ずらりと並んだペットボトルとアルミ缶の行列を眺めた。

 僕は今、落ち込んでいる。魂が熱中症を起こし、精神が声もなく苦悶している。この状態を続けてはいけない。生命にかかわる。至急、脱出しなければならない。

 役者は自分の心身を楽器のようにコントロールしなければならない、とシステムの創始者、スタニスラフスキーは言った。バイオリン奏者は、バイオリンという楽器を自在に操って、妙なる音色を引き出す。役者にとっての楽器は自分の身体と心だ。思うがままにコントロールできなくてどうする、というわけだ。

 バイオリンの音色はいいよね。上手な人のバイオリンは、馬の尻尾の毛で、ワイヤーをこすってるとはとうてい思えないよ。下手な人のはもろに、そう聞こえるけど。

 役者も、自分の「楽器」を弾きこなすために、トレーニングを積む。スタニスラフスキーのシステムはその訓練を体系化したもので、世界中の演劇学校で教えられている。もっとも、システム学んだからって、誰もが役者になれるわけじゃないことは、バイオリン習った全員がチゴイネルワイゼンを弾けるわけじゃないってのと同じだ。

 さて、僕だ。

 僕は今、何とかしてアップになる必要がある。僕の心身は、脳がコントロールしている。アガサ・クリスティの言う、「灰色の脳細胞」だ。元気回復のコツは、この「灰色の脳細胞」を喜ばすことだ。どうすれば、脳細胞は喜ぶか。

 簡単だ。食べればいい。

 心理学者いわく、人間には三つの基本的な欲求がある。食べること、眠る事、セックスすること。このうち、最大の欲求が「食べること」で、それは、食べるイコール自己保全につながると、脳が認識しているからだそうだ。おいしいものをむしゃむしゃやってると、脳は、「こいつは生きようとしてるぞ、あっぱれ、あっぱれ」と感激して、喜びのあまり身体中の神経細胞に電気信号を送り、結果として、唇には歌が、心には太陽が生まれる。瞳はきらきらと輝き、足取りは軽く、身も軽く、魂はといえば、蝶々のようにひらひらと青い空の彼方へと舞い上がっていく。驚くべき効果を発揮するのだ、「食べる」という単純な行為は。

 疑うならば、簡単な実験をすることができる。近所の公園かショッピングモールへ出かけたまえ。必ず、ベビーカーを押している母親がいるだろう。少子化といえども、赤ん坊連れのいないショッピングモールは、この世に存在しない。実験対象を見つけたら、何気ないふりをして近づき、「かわいい赤ちゃんですね」に類するセリフを用いて、赤ん坊をあやしてやる。この時、君が男性ならば、変質者と疑われないように、十分に注意する必要がある。君が女性であればこの心配はない。性差別だと思うが、どうしようもない現実だ。男性諸氏は、母親か姉妹か彼女に協力を要請し、実験に立ち会ってもらおう。

さて、赤ん坊だ。

多分、泣き出すだろう。赤ん坊というものは、どういうわけか、あやしてやろうとすると、必ず泣き出す不思議な習性を身に備えている。赤ん坊が泣き出すと、母親はバッグ(母親族は常に、引っ越し荷物のように大きなバッグを抱えて移動する)の中をごそごそと探る。やがて、哺乳瓶を取り出して、小さな口の中にぐいと突っ込むだろう。すると、あら不思議、赤ん坊はぴたりと泣き止むのだ。こっちは、あの変な形の瓶に何か特別なまじないでもかけてあるのかと思うが、これはみな、「食物」と脳との相関関係によるのである。

 さて、僕だ。

 僕は脳を喜ばすために、何かを至急、経口摂取する必要がある。何にしようか。コーヒー。さっき飲んだばかりだ。オレンジジュース。酸っぱいのはどうも。コーラ。げっぷが出そう。ビール。灰色の脳細胞が、桜色に染まってしまう。

 僕の目が、青地に銀色の水玉模様の缶をとらえた。マリーン・ナーチャー。とたんに、面接の後、薄暗いロビーでこいつを飲んでいた「神経衰弱」のことを思い出した。十トンアタッシュいっぱいに詰まっていたマリーン・ナーチャー。そいつを飲んだあとの、この世の幸せを独り占めしたような「神経衰弱」の顔……。僕は一度もマリーン・ナーチャーを飲んだことはない。この際、トライするのも悪くないかもしれない。僕は派手な水玉模様の缶を一つ取って、レジに向かった。

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