第7章 俺たちに明日ないい
もちろん、その足で僕は後藤のところへ駆けつけた。後藤は僕の話を聞いても、平然としていた。まるでデートに出かけたら死体に遭遇することなど日常茶飯事だというようだ。
「もうちょっと、理性的に行動できなかったのか? 救急車を呼ぶとか」
「手遅れだもん。もう死んでる」
「どうしてわかる。脈でも取ったのか」
「見ればわかる。あれは死んでたよ」
胸からナイフの柄を生やして、かっと空を睨んでいた男を思い出して、僕は身震いした。
「それなら」
と、後藤は意地の悪い顔で言った。「警察を呼ぶべきじゃないのか、善良な市民としては」
「呼んだよ」
吉祥寺の駅の公衆電話から、警察へは通報した。むろん、匿名で。善良だが関わり合いになりたくない小心な市民の常とう手段だ。
「その場で通報すべきだったんだ。それをお前はすたこら逃げ出した」
「怖かったんだ」
僕はしぶしぶ認めた。「本物の死体なんてあんまり見たことないから」
「その言い訳を警察が信じてくれるといいけどな」
後藤は面白そうに言った。「近日中に警視庁捜査一課がお前の生活に入り込んでくる。その覚悟はしておけ」
「だって、僕は何もしてないよ」
「第一発見者は常に第一の容疑者だ。そして、警察に黙って逃亡したら……自白したも同然だ」
「警察は僕のこと知らないよ。僕があのマンションに行ったのは、今日が初めてだ」
「甘い。マンションの出入り口とエレベーターにはたいてい、防犯カメラがついてるんだ。黒づくめの不審な男が出入りしたのはすぐにわかる」
後藤はにやにやと笑った。「ソンブレロだけじゃなくって、ゾロの覆面も着けときゃよかったな」
僕は何も言えない。
「まあ、帽子のおかげで、顔はあんまり良く映ってないかもしれない。祈るんだな。いったん引っ張られると厄介だぞ。殺った奴は、用心して指紋をきれいに拭き取ってるよ。ところがお前はマンションじゅうにべたべた残してる」
「それはない」
と、僕はほっとして言った。「手袋をはめてた」
正志に感謝だ。あいつは世界で一番いいやつだ。今までの非道な仕打ちは何もかも許してやろう。僕のガンダム取り上げたことも、初めて書いた詩をかっぱらって読んだことも、僕を根性なしと罵倒したことも、みんなみんなゆるしてやる。誕生日には、あいつの好きな大福を山ほど送ってやろう。
「なんだ」
後藤は残念そうに言った。「それじゃ、容疑者特定とはいかないか」
「当たり前だ。僕は無関係なんだから」
「でもお前、彼女にバラの花束もってったんだろう。それはどうした」
はっとした。ダリアのブーケ。どうしたろう。多分、家の中を見て回った時にどこかに置いてそのまま……忘れてしまったんだ。
「置いてきちまったのか」
後藤が気の毒そうに言った。僕は無言でうなずいた。
「それはまずいな。警察は一都三県の花屋という花屋を調べるぞ。黒づくめの不審な男がバラの花束を買った店を探し出すぞ」
「ダリアだよ」
僕は力なく言って立ち上がった。
「どこへ行くんだ?」
「警察」
「自首するのか」
「冗談はよせ。死体を見つけたことを話してくるだけだ。変に疑われるくらいなら、自分から話すよ。そもそも最初にそうすべきだった」
「そいつは同感だが、そうしなかったんだから、しかたないだろう。まあ、落ち着け」
僕は常々、川が流れるように自然に生きたいと願っている。ルソーとエマソンとソローの流れを汲む、深遠な哲学の結果だ。ただ、この生き方は水と同じく、低きと易しにつく傾向があるのは否めない。その夜はそのまま、後藤の家のソファで毛布をひっかぶって寝てしまった。
翌朝、腹が減って目が覚めた。あたりの明るさから、朝も大分遅い時間だと見当をつけて起き上がると、よう、と後藤が寝椅子から声をかけてきた。
「コーヒー淹れてくれたら、宿泊費はタダにしてやるぞ」
それには答えずに、僕は勢いよく毛布をはねのけて浴室に向かった。狭っ苦しいソファで寝たせいで身体の節々がこわばっている。
熱いシャワーを浴びると目がさめた。プラトン全集を押しのけて座る場所を作り、後藤にコーヒーのマグを手渡してやった。「シャワー浴びながら考えたんだけどさ」
「そいつは珍しい。お前でも考えることがあるんだ」
「茶化さないで聞けよ。警察へ行くのは止めるよ」
「なぜ」
「まず、メリル・ストリープの無事を確かめたい。なぜ、「目立たない男」の死体が彼女のマンションのベランダに転がっていたのか、彼女の説明を聞きたい。もし、困った立場にいるなら、助けてあげたいんだ」
いつもなら、僕がこういう殊勝なことを言うと、後藤はまず、間違いなく僕を馬鹿にした言葉を投げ返してくる。そのつもりで身構えていたが、後藤は何も言わなかった。黙ったまま、リモコンを取って壁にかかってるスクリーンのスイッチを入れた。マイクを握ったレポーターが深刻な顔をして立っている画像が映った。
「何これ?」
「黙って見てろ」
ニュース番組の録画のようだ。彼女のマンションの正面入り口が映っている。光線の加減からすると、早朝に見える。付近に何台かパトカーがとまっている。サラリーマンや学生が足早に通り過ぎていく中で、ヒマそうな年寄りが集まって、興味深げにマンションの入り口を眺めている。リポーターが話し始めた。
「昨夜、このマンションの7階のベランダに男性の死体があると一一〇番通報がありました。警察が駆け付けたところ、男性が刺されて倒れており、病院に運びましたが、すでに死亡していました。この部屋の住人の男性と連絡が取れなくなっており、警察は身元の確認を急ぐとともに、殺人事件として捜査を始めました」
えっと、僕は声をあげた。後藤は映像をいったん停止した。
「お前が行ったのはこのマンションでまちがいないな?」
「うん」
後藤は録画を再生した。同じマンションの住人だという女が、インタビューに答えている。住人の男性は、いつも礼儀正しかった、こんなことになるとは信じられないと言う。さらに、この女は昨日の夜七時頃、怪しい男を見たと言った。
「警察にも話しましたけど、昨夜、黒い帽子をかぶった見慣れない男が、マンションの七階の廊下を歩いていたんです。何か、こそこそした様子で、おかしいなと思ったんですよ」
再びリポーターがカメラ正面に立った。
「警察では、この男性がなんらかの事情を知っているものとして、行方を追っています。男性は身長百七十五センチ、やせ形で、黒いつば広の帽子をかぶり、黒いシャツとズボンを身に着けていました。心当たりのある方は、以下の電話番号に情報をお寄せください」
後藤は録画を止めた。
「ゲームオーバー。俺、電話していいか? 警察から金一封くらい出るかもしれない」
「だって、だって……」
僕はうまく口がきけなかった。「あのマンションはメリル・ストリープの」
「家じゃなかったわけだ。お前、はめられたんだよ。うまいこと殺人現場におびき寄せられて、死体を一つ押し付けられたんだ」
僕には信じられなかった。メリル・ストリープがそんなことするはずがない。大体、なんのために? 僕がそう言うと、後藤は電話してみろ、と言った。彼女に電話して直接聞いてみたらいいだろ、と。
ネクスト企画に電話をして、面接を受けた者だと言って人事課にまわしてもらった。
驚いたことに、メリル・ストリープは会社にいた。全く平静な声が、「はい、北沢です」と答えた。わけがわからない。僕は混乱しながら名乗った。
「ああ、江川さん。先日は当社へお運びいただき、ありがとうございました。面接の結果につきましては、申し訳ありませんが、もう少々、お時間を……」
「面接のことで電話したんじゃないんです。昨日、あなたから頂いたメールなんですが」
「メール?」
「きのう、僕にメールをくださったでしょう? 会いたいって」
「はあ?」
後藤が僕からスマホをひったくった。
「もしもし。ええと……北沢さん? 私は後藤典之といいます。『ロンパリ』という劇団の代表をしています。先日はうちの江川がお世話になりました」
後藤はしばらく沈黙した。
「ええ、お忙しいのは御察しします。今朝のニュースになっている男性の死体は、貴社の社員でいらっしゃいますね?」
沈黙。
「ええ、だから、用件は簡単に済ませましょう。江川が昨日、あなたからもらったメールの件なのですが」
沈黙。
「確かですか?」
沈黙。
「わかりました。誰かのいたずらでしょう。お時間をとらせました」
後藤は電話を切った。
「北沢氏は、お前にメールしたことはないそうだ」
「そんな」
僕はスマホを奪い返して、メールの着信記録を表示させた。「見ろよ」
「七月二十日。午前十時三十五分。北沢千秋。
江川様。昨日は失礼しました。大切なお話がありますので、本日、午後七時に、拙宅までお越しください。住所は吉祥寺東町2丁目レジデンシャル吉祥寺712号です。急なお願いで申し訳ありませんが、折り返し、お返事のメールをお願いします。北沢」
「僕はすぐ、必ず伺いますってメールしたんだ」
ふーん、と後藤はメールを見てちょっと考えたが、僕にスマホを渡した。
「もう一度メールしろ」
「は?」
「誰だか知らないが、そいつにもう一度返信するんだ。いいか、俺の言う通りに打つんだぞ。『楽しい夕べをありがとう。でも、あなた、忘れ物をしていきましたよ。預かってますから取りにきてください。本日、正午に新宿駅新南口近くの『バルドール』というカフェに来てください』」
僕は言われた通りに打った。身に沁みついた役者の習性で、演出家の命令には無意識に服従してしまう。後藤は、演出家としては穏やかな方で、役者を殴ったりはしないが、それでも、民主的とはいいがたい性格をしている。逆らうと灰皿ぐらい飛んでくるかもしれない。
「打ったか?」
「うん」
「じゃあ次……」
僕は、じゃあつぎ、と打ってあわてて消した。
「『今日の正午まで預かっておきます。そのあと、警察に届けますので、お早めに。登』以上だ、送信しろ」
僕は送信して、「どういうこと?」と説明を求めた。頭の空っぽな役者だって、神様のように賢い演出家に説明を求める権利くらいある。特に、そいつの指示に一字一句従ったあとは。
「殺人の現場に証拠を残してきたと言われた犯人はどうする? 警察に渡される前に、取り戻そうとするだろう?」
「犯人がそのカフェに来るの?」
「そのために呼び出したんだ。さっさと行ってこい」
「僕が行くの?」
「他に誰かいるか?」
僕は躊躇した。
「目立たない男」の胸から生えてた包丁の黒い柄を思い出すと、身内が冷たくなる。舞台上でレイピアや短剣をふるったことは何度もあるが、実生活でそんな気になったことは一度もない。あんな風に、人間の身体に力いっぱい刃物を突き立てるには、どれほどの凶暴な怒りと絶望がいるだろう。それがこっちに向けられるのは、嬉しくなかった。できれば、そんなやつには会いたくない。
後藤は目を細めてじっと僕を見た。
「誰かがお前をはめて、死体を一つ引き受けさせたんだぞ。悔しくないのか」
「そりゃ、腹は立つよ。でも、相手は殺人犯なんだろ。警察に話した方が良くない?」
「警察に行くのは止めたんじゃなかったのか?」
「それは、メリル・ストリープのマンションだと思ってたから。彼女の力になりたいって思っただけだ。犯人に会いたいなんて考えてないよ」
彼女が無事に出勤していると知ると、僕の柄に合わない騎士道精神は現れた時と同じく、唐突に消えてしまった。今はもう、何もかも警察に話して重荷を下ろしてしまいたかった。
「警察に任せた方がいいと思う」
後藤は嫌な顔をした。
「お前はいつから警察のファンになった」
「そっちこそ、なんでそんなに反対するのさ。警察は『国家権力の暴力装置』だから?」
後藤の世代のボヘミアンは、概して警察に、ほとんど本能的な反感を抱いている。警察という言葉を聞くと、条件反射で不機嫌になる。いつだったか、テレビで機動隊の訓練風景を紹介していた。後藤はとびきりのしかめ面で、「禁煙ボール」を膝の上で握りしめていた。今にもそいつをテレビに向かって投げつけそうだった。物騒でしょうがない。ずっと時代が下がって生まれた僕は、その種の偏見とは縁がない。僕にとって、おまわりさんは、いつでも親切で頼りになる人たちだった。道を教えてくれたり、拾った百円玉を交番に届けると褒めてくれる、優しい人たちだと思っていた。後藤はそれが気に入らない。お前は牙をむいた国家権力の怖ろしさを知らないんだ、と言う。僕が運転免許を取って、「ネズミ捕り」にひっかかった時は、すごく嬉しそうだった。にこにこして、「これでわかったろう、おまわりは敵だ」と言った。警察のケチな点数稼ぎには腹が立ったけど、「敵」とまでは思わない。
「言っとくけど、僕は団塊の世代のルサンチマンとは無縁だからね。夢と希望を催涙弾とジェラルミンの盾で押しつぶされた過去はないんだ」
「俺たちは戦って敗れた。それは事実だ。だが、お前たちはどうだ。戦いさえしてないじゃないか」
後藤は目を怒らせて言った。「お前たちの世代には、お前たちの世代のルサンチマンがあるはずだ。今の社会で、幸せです、人生に満足してますって言えるのか」
言えるはずがない。僕らの世代の多くは、大洋のどことも知れない一点で溺れかかっている。シベリアの氷点下五十度の夜をさまよっている。僕らの時間は無駄に消費されている。失われた二十年。失われたのは、僕らの本来あるはずだった人生だ。後藤たちはいい。一度は夢を持った。僕らはそんなぜいたくなもの、持ったこともない。その日その日を生きるだけで精いっぱいだった。
「あんたたちの世代がしでかした大失敗の後じゃ、怖くて何もできないよ」
悔しくて泣きそうだ。定期航路の船に乗れず、取り残されて途方にくれているやつ。約束の地に向かう船を追って海に飛び込み、力尽きて溺れ死んだやつ。船に乗ったはいいが、酷使に耐えかねて、海に身を投げたやつ。仲間の誰彼の顔が浮かんでくる。
「怖いなら、帰っていいぞ」
しばらくして後藤は言った。意外なほど優しい声だった。「家でおとなしくしてれば、やがて警察が来る。事情を全部話せば、わかってくれるかもな」
僕は立ち上がった。
「帰るのか?」
「正午に新宿なら、もう行かないと」
「無理しなくてもいいんだぞ」
「今さら思いやりか」
「俺も一緒に行ってやりたいが、このザマじゃな。これからの時代、若者に託すしかないんだ」
「そっちこそ、無理してヨイショしなくていいよ」
ドアを閉めようとする時、後藤が言った。「気をつけろよ」
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