第36話 告白

 玄野暁。


 男子バレー部のキャプテンで人望があり、見た目も頭もそこそこ良く、女子からの人気が高い男子だということは、ほとんど話しをしたことがなくても知っていた。




 だけど、突然授業中に幼馴染の狛江今宵に告白し、当然のようにフラれた、頭のねじが飛んでいる男子で。


 直接的な嫌がらせはしてこないけど、当然のように無視をしてくるような嫌な奴で――。


 私は間違いなく、この男が嫌いだった。




 だけどその日は、なんだかいつもと雰囲気が違った。


 そして、話をしていて妙な安心感を覚えた。


 後から気付いたけど、彼は私に合わせて標準語で話をしてくれていたからだ。


 こいつとなら仲良くできるかもしれないと、思い始めた時。




「お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる」




 そう言われて、やっぱりイカれた奴だと思ったから。


 私はその場から、すぐに逃げ出した。




 だけどそれから、夏休みに入るまでの間。


 日々エスカレートしていた馬鹿ギャルたちからのいじめが、なくなった。


 心当たりは、一つだけ。




 が、私のために止めさせたのだと分かった。


 だから私は、彼を屋上に呼び出して、約束をした。




「私が死ぬときは――あんたと一緒に、死んであげる」




 幼馴染にフラれた彼は今、生きるのが辛いのかもしれない。


 私にとって彼は、この高校で出会った唯一の、良い奴だから……死んでほしくない。


 そういう風に、思っていれば。


 私もきっと、自分勝手に死にたいなんて思うことは、なくなるだろうから。







「予備校の夏期合宿、行かせてあげられなくて、ごめんね」




 大して申し訳なさそうにもせずに、お母さんは私に言った。




「ううん、良いよ別に」




 予備校の夏期合宿、家計が苦しいからお金が用意ができなかったとお母さんは言った。


 身に着けたブランド物洋服やバッグ、高級な化粧品。あるいは夜に飲み歩いている酒代か――また別の出費なのか。


 いずれにせよ、家計が苦しくなったのは、浮気相手と関係してるのが明白だった。


 お父さんに言えば、解決したのかもしれない。


 それはつまり、私には解決することが出来ないということだった。




「自分で勉強していたら、十分だよ」




「ありがとう、未来」




 お母さんは綺麗な服を着こなして、美しく化粧をして笑顔を浮かべる。


 美人で自慢のお母さんの浮かべたその笑顔を……私は心底醜いと思った。




 彼と一緒に花火を見た日のこと。




「那月の母ちゃん。綺麗な人だな」




 彼がお母さんを見て言ったその言葉を、私は到底認められなかった。




「気持ち悪いこと、言わないで」




 私のお母さんは、不貞を働くふしだらな女で、決して綺麗な人なんかじゃない。


 でも、そんな風には言えなかった。


 娘である私も、同じようにふしだらなんじゃないかと、彼にだけは思われたくなかったから。







 学校でのいじめは、随分と落ち着いた。


 彼との関係も良好で、穏やかな時間を過ごせていた。




 反対にお母さんは少しずつ、落ち込む日が多くなっていた。


 でも、話は聞かなかった。


 聞きたくもなかったから。







 彼とクリスマスを過ごすことになった。


 プレゼントをお父さんとお母さん以外に贈るのは初めてのことだから、すごく悩んだ。




 あんまり高価なものは、きっと迷惑になる。


 できれば、普段から使ってもらいたい。


 だからと言って手袋やマフラーを贈るのは、好意がありますとあからさまに宣言しているようで、恥ずかしい。


 ……でも、やっぱり、せっかくだから。


 彼には私のプレゼントで喜んでほしい。




 受験に合格して、一緒にこの田舎から東京に出て行こう。


 私の気持ちが少しでも伝わるようにと、『合格』の願いが書かれた絵馬のストラップを贈った。


 ……彼の喜んだ顔に、私もすごくうれしくなった。




 期待はしていなかったけど、彼はとても素敵なプレゼントをくれた。


 リンドウの植物標本ハーバリウム




 帰ってから、花言葉を調べた。


 彼が教えてくれた『勝利』という意味以外にも、いくつか意味があった。


 その中の一つが、私の目に留まる。




『悲しんでいるあなたを愛する』




 顔が熱くなって、胸が幸せに満たされた。


 ――彼と一緒なら、これから先何があっても、きっと大丈夫。


 私はそう、信じていた。







「ごめんね、未来。大学は諦めて」




「……え? どういうこと?」




 受験を終え、卒業式を間近に控えた日に、お母さんから告げられた。


 その言葉の意味が、私には分からなかった。




「お母さんね、お友達がお金に困っているっていうから、お金を貸してあげてたの。貯金を崩して、私の名前で借金までして。……だけど、その人と連絡が取れなくなっちゃって」




「なんでそんなことしたの……?」




「お母さんが辛いとき……私・を助けてくれたのは、お父さんでも、未来でもなかった。私を助けてくれたのは、そのお友達だけだった。彼のためなら、私は何でもしてあげたかった」




 お母さんは、私を責めるような口調で、そう言った。




「浮気相手に、貢いでたってこと?」




「浮気? 貢いでた? ……そんな言い方しないで? 困っている友達を、助けただけなんだから」




 お母さんは前髪をかきむしりながら、苛立ちを隠しもせずにそう言った。


 私は唖然としてから……これまで我慢を続けていた感情が、一斉に溢れた。




「知らない、知らない、知らない……っ! なんで私にそんなことを言うの!? 全部お母さんのせいだからっ! 私には関係ない、お母さんが悪いんだから、お母さんが何とかしてよ!? 私は一人で東京の大学に進学するから!」




「あああぁぁ! うるさいっ!」




 お母さんはそう叫んで、私の頬を叩いた。




「全部、あんたのせいじゃない! 中学校でイジメられて、折角良い高校にも入れたのに、やっぱりまたイジメられて。そのせいで転校までして! あんたのためを思って、私は付き添った。だけどこんなに陰湿な人が多い田舎だって、知らなかった。知っていたならこんなところには、来なかったのに……。違う。やっぱりそもそも、あんたがいじめられなかったら良かった!」




 こんなに怒った表情を、私はこれまで一度も見たことがなかった。


 支離滅裂な言葉で、何を言っているのか理解は出来なかったけど……お母さんが私を憎んでいるのは、伝わった。


 お母さんは呼吸を整えてから、薄ら笑いを浮かべて、私に言った。




「でも、大丈夫。大学に行くのを一年我慢して、お母さんと一緒に働いたら、きっとお金を返せる」




「私、働いたことなんてないよ……」




「一緒に働くから、大丈夫。……お母さんは、自分が大学に行けなかったから、未来に背負わせ過ぎてしまったのかもしれない。ごめんね、未来」




 お母さんはそう言って、私を抱きしめる。


 違う、確かに最初はお母さんに褒めてもらうのが嬉しかったから勉強をしたけど。


 今は、自分の意思で進学したいと思っているのに……。




「もう、良い子でいようとしなくていいんだから」




 そう言って。


 お母さんは私の頑張ってきたことを、優しく否定した。




「友達の元上司の人がね、借金のことで相談に乗ってくれたの。すごく稼ぎの良い仕事を紹介してくれるんだって。しかも、お母さんと二人だったら、相場よりもずっと良いお給料を出してくれるって」




「……何の仕事?」




 私だって、何も知らない子供じゃない。


 なんとなく、どんな仕事なのか――察しはついていた。




「――でも――でも、何だったら――でも、何でも好きなお仕事を紹介してくれるって。未来はお母さんに似て美人だから、良かったね」




 お母さんの言葉は、しっかりと耳に届いていたけど。


 私の頭は、理解を拒んだ。




「……私、そんなの嫌だよ」




 その言葉を聞いて、お母さんはもう一度私の頬をぶった。




「わがまま言うなっ! お願いだから、あんたを生んで良かったって思わせて……お母さんをこれ以上、苦しめないで……」




 ……そっか。


 私が大好きだった美人で優しいお母さんとは、もう二度と会えないんだ。


 このことを知ったら、お父さんはお母さんのことを、これまでみたいに愛せないだろう。


 それだけじゃなくて、きっと――。




 お母さんの浮気を黙認していた私のことも、許せなくなる。




「分かった」




 私はもう、そう答えるしかなかった。




「ありがとう。高校を卒業したらすぐにでも、って言ってくれてるの。明後日の卒業式の後に、すぐにお母さんと一緒に、挨拶しにいこっか」




 目の前で喜んでいる女・の言葉は、全然頭に入ってこなかった。




「ありがとう、未来。……お母さん、あなたを愛しているわ」




 もう、どうでもいい。――死のう。




 私はその日、遺書を書いた。


 死ぬことを決めたら、頭がすっきりした。不安なことも、嫌なことも何も感じなくなって、その日はぐっすりと眠れた。




 それから、朝早くに学校に行って、屋上でただ空を見上げ続けていた。


 この屋上で、彼と初めて話したあの日のことを、思い出す。




「お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる」




 きっと彼は、約束を守ってくれる。


 この約束は、私にとって、自殺を考えたときのブレーキになると思っていた。




 だけど、違った。




 綺麗な私でいられるうちに、大好きな彼が一緒に死んでくれる。


 これまで辛いことがたくさんあったんだから――最後くらい。




 こんな素敵なご褒美があっても、バチは当たらないよね?







「だから、私はあんたにだけは……知られたくなかった。あんたにだけは、酷い女だって、思われたくなかったから! なのに、酷い。どうしてそれを見ちゃったの……?」




 顔を涙でぐしょぐしょにしながら、那月は言った。


 彼女の独白の内容は、俺が今手にしている遺書である程度知っていた。


 だけど、彼女の口から直接その話を聞いて、理解が足らなかったのだと思い知った。




「那月は何も悪くない。俺は、那月が酷い女だなんて、思わない」




「嘘! 私がもっと良い子だったらイジメられることもなく、転校することもなかった! あの人が浮気をしたのに気づいたときに、すぐにお父さんに話していたら、こんなことにはならなかった!」




 俺の言葉を、那月はすぐに否定した。




「それが分かってるのに……私はあんたと会えたから、転校してきて良かったって思っちゃったの! お父さんとお母さんを不幸にしたのは私なのに、それでもこの場所であんたと出会えて良かったって、そう思った私は――」




 那月は俺を見つめてから、苦しそうに呟く。




「きっと、誰のことも幸せに出来ない、酷い女なの……」




 絶望と諦観と嘲笑を浮かべた那月。


 これまで積み重なった苦痛と苦悩が……那月の心を、どうしようもなく壊していた。




「ねぇ、お願い。ここで、一緒に死んでくれるよね? じゃなきゃ私は――」




 救われない。




 彼女の悲痛な囁きは、確かに俺の耳に届いた。


 俺はもう一度、彼女を両腕で強く抱きしめて、告げる。




「俺はまだ、自分のことを買いかぶっていたみたいだ」




 伊織に励まされ、自分がやったことが間違いばかりでないと知って。


 知らず知らずのうちに、勘違いをしていたようだ。




「那月の心を救うと嘯いて、俺はここに来た。だけど結局、那月のことを知ったつもりになっていただけだ。那月の求める救いは、俺が与えたかった救いとは違った」




 どんなに辛くても生きるべきだ、と。綺麗ごとを言うのは簡単だ。


 だけどそれで、那月は救われるだろうか? いいや、彼女の心はそんなことでは救われない。




 彼女はここで俺と一緒に死ぬことを、唯一の救いだと思っている。


 そして、俺はそれ以上の救いを彼女に与えることが――できない。




 彼女の母親が作った借金を返済できるだけの財力はない。


 彼女の家族関係を正常に戻すことなんて、誰にもできない。




 今の俺にできることは、彼女が前を歩けるように背中を押すことではない。


 彼女と共に奈落の底まで堕ちること、それだけだ。




「約束だもんな」




 俺の言葉に、那月は泣き止んだ。


 その場で、彼女を抱きかかえたまま、俺は立ち上がった。




「下を見ても怖いだけだから。せめて最後は、俺のことだけを見ていてくれ」




 俺は、那月に向かってそう言った。


 彼女は、少し照れ臭そうに、「うん」と呟き頷いた。


 物語の主人公みたいに、かっこよく那月を救い出すことが出来なくて、ごめん。




「ありがとう……。私は、十分救われた」




 そう言って、彼女は俺の頬に、可愛らしくキスをした。


 それから俺は、彼女を決して離さないように固く抱きしめて――。




 屋上から、飛び降りた。


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