第24話 三度目の正直(下)

「……え?」




「特に、那月未来の話は絶対に嫌。聞きたくない」




「なんで……」




 俺は呆然とそう呟いてから――。


 激情が宿る彼女の瞳を見て、先ほどの言葉を思い出した。




「暁にちょっと優しくされて、勘違いしちゃったあの尻軽女のこと。あたしは絶対許せないよ。あいつがいなかったら、あたしの暁がこんなに傷つくこともなかったのに」




 どうしてすぐ違和感に気づけなかった?




「……いつから、知ってたんだ?」




「何のことかわからないけど……暁とあいつが学校の屋上で会っていたことを言っているのなら、最初から知ってたよ?」




『屋上に行ってびしょ濡れになるし』




 今宵は、確かにそう言っていた。


 熱田先生には、渡り廊下で那月と話をしたことは言ったが、屋上のことは誰にも言ったことはない。


 那月も、他の誰かにその話をするとは思えない。




 ではなぜ今宵があの日のことを知っている?


 答えは一つしかない。




 今宵はあの日、教室の前で俺とぶつかってから。


 俺の後を着いてきて、実際にその目で見ていたのだ。




「暁も、ダメじゃん。あんな性格ブス、好きになっちゃ」




 呆れたように、今宵は言う。




「でも、あの女の汚い手口に騙されちゃったってのは分かるよ。わざと周囲を煽って孤立して、暁の同情を引いた。姑息で卑劣なやり方で、絶対に許せないよ」




「そんな訳ないだろ……」




 今宵の言葉は、あからさまな勘違いだ。


 なのに、自分の考えこそが真実だと。彼女は信じて疑っていない。




「暁はあたし以外の女の子のこと、全然わかってないだけだから」




 俺の言葉は、もう彼女には通じない。




「それなら、伊織のことはどう思っているんだ? 俺とあいつは、普段から一緒にいて……」




「可哀そうだって思ったよ」




「可哀そ……う?」




「だって。暁はあんな馬鹿な子のこと好きにならないし。那月未来に嫉妬が向かないように、わざとらしく身代わりに利用しただけでしょ? ……暁のことなら、あたしは何でも分かるんだから」




 淡々と、今宵は言った。


 彼女の表情を見て俺は……ぞっとした。




 こいつは何を言ってる?




 何を見ている。




 彼女のいう暁とは、誰のことだ?


 本当に、俺のことを見ているのか?




「だから、那月未来は伊織トワとは、全然違うって思うの。頭が良くって美人。しかも、あたしの嫉妬を向けさせないように、わざわざ小細工までした」




 彼女の瞳には、仄暗い光が宿っていた。


 それが何なのか、俺には理解できそうもない。




「……那月は、文化祭の日。誰かから嫌がらせをされて、傷ついていた」




「嫌がらせ? あたしは事実を教えてあげただけだよ」




「事実……?」




 俺の問いかけに、今宵はニコリと笑ってから言う。




「あたしが那月未来の悪口を言った時に、楽しそうに笑ったこと。あたしが暁と那月未来が屋上で会ったことを知っていること。あたしと暁が志望校に合格したら、付き合うって約束したこと。ほかにもいろいろ言ったけど……『お前は誰からも、暁からも必要とされていない』って言った時が、一番面白い顔をしてたよ。普段は綺麗なおすまし顔が、小さな子供が泣く前みたいに、くしゃくしゃの不細工になっててさ」




 俺が那月の悪口を聞いて笑っていたのは、タイムリープをする前のことだ。


 俺と那月が屋上で会っていることを今宵が知っているのは、彼女に言ったからではない。


 俺が今宵と付き合う約束をしたのは、どうせその頃に俺は死んでいると思ったから、適当に返事をしただけだ。




 俺は那月を必要としていた。


 しかし、それ以外は――今宵が言った通り、事実を言っただけだ。




 那月とは、互いに信頼関係を築けていると思っていた。


 だけど、彼女はどう思っていた?


 自分よりもずっと長い間、俺と一緒にいた今宵の言葉が全て嘘だと信じられたのか?




 今宵の言葉が悪意ある嘘だと思っても、芽生えた猜疑心の全てを晴らすことはどうしても出来ない。


 俺が彼女の傍にいても、最後の一線を頑なに超えようとしない俺を、那月はどう思った?




 最後の最後に、一緒に死ぬことを拒んだ俺を見て、どう思った?




 やっぱり、裏切られた。




 そう思い、俺に失望し。


 この世の全てを呪いながら……彼女は死んでいったのではないか?




 それは……あまりに報われない。


 あまりにも、救いがない。




「ああ、その顔……」




 言葉を失い、呆然としていた俺を見て。


 今宵は嗜虐的に笑った。




「暁は、可愛いね」




 今宵は俺を押し倒し、身動きが出来ない俺の上に跨ってきた。


 身体に力が入らずに、払いのけることも出来ない。




「暁はまだ知らないかな? あたしたち二人とも志望校に合格してたんだよ。……これで約束通り、あたしたちは恋人同士だ」




 そう言って、今宵は俺に口づけをした。


 俺を貪る彼女に抵抗できないまま、衝撃の事実に気付いていた。




 未来が、変わっている。




 元々俺がいた未来では、今宵は大学に合格できずにいた。


 その後、二浪してから短大に入ることになる。


 無事に東京の大学に進学していた俺と、結局志望校に合格できなかった今宵は、連絡を取ることが気まずくなって、徐々に疎遠になっていった。




 卒業後、俺は東京、今宵は地元に就職をする。


 仕事が忙しく、連絡もなかなか取れなくなって、俺と今宵の関わりがほとんどなくなっていたころ。


 友人の紹介で年上の恋人ができたのだと、今宵は俺に報告をしてくれた。




 その後、今宵はその相手と結婚をした。


 今宵は、平凡だけど誰もが欲する幸せを手に入れるはずだったのに。


 このままではその幸せまでも、俺が奪ってしまうことになる。




 ――今宵のことは、憎い。


 だけど、これ以上俺のせいで誰かの人生を狂わせたくはない。




 俺が着ている病衣を、今宵が脱がせようとした。


 抵抗するために何かないかと周囲を見て、テーブルの上に果物ナイフが置いてあるのに気が付いた。


 俺はそれを掴んで、今宵の首筋に切っ先を突き付けた。




「……どけ」




 俺の表情を見て、今宵は驚いたような表情を浮かべた。


 ナイフが肌を裂き、僅かに零れた血が、俺の顔を濡らした。




「どかないなら……本当に殺す」




 俺の言葉を聞いた今宵は――法悦の表情を浮かべていた。




「いいよ、殺して」




 今宵はそう言ってから、俺の顔を覗き込む。


 そして、囁くように、語り掛けてきた。




「人を殺すの、初めてだよね」




「きっとこれから先、暁はあたしを殺したことを一生忘れられない」




「朝起きて、ご飯を食べて、学校に行って、勉強をして、バイトをして、友達と話をして、お家に帰って、お風呂に入って、夜に寝て、また起きて」




「そんな当たり前の日常を過ごしている最中も、暁はふと思い出しちゃうの」




「……ううん、一時も忘れられないことに気付くの」




「あたしの最後の表情が、常に暁の頭の中にこびりついて、片時たりとも忘れられないことを」




「それって、これから一生暁は、あたしのことを想い続けてくれるってことでしょ?」




「あたし以外の誰かを好きになって、想いを上書きすることも出来ない。あたしを殺せば、もう一生まともな恋愛なんてできないもん」




「大好きだよ、暁」




「これからはずっと、一緒にいられるね」




「だけど、お願い。苦しまないように殺して?」




「だってこれから一生、暁が思い浮かべ続けるあたしの最後の表情が。痛みに耐える不細工な表情だなんて、絶対に嫌だもん」




 彼女の独白を聞いて、俺は自分の浅慮に気が付いた。


 誰かの人生を、これ以上狂わせたくない?




 今宵はとっくに……俺への想いと嫉妬のせいで狂っているじゃないか。




 頭がおかしくなりそうだ。


 ――いや、違う。


 俺ももう、おかしくなっていた。




 ナイフを握る腕に、力を込め。


 俺は自らの喉を、掻き切った。




「へ……?」




 まだ視力がある右目が、今宵の表情が徐々に絶望に染まるのを見た。


 ざまぁみろ、いい気味だ。


 お前はこれから一生、誰のことも愛せない。


 もう、まともな恋愛なんて出来っこない。


 俺の最後の表情を、片時も忘れることなんて出来はしない。




 俺は、薄れゆく意識の中、今宵に最期の言葉を伝えるために、口を開いた。






「                」






 だけどもう、まともな言葉を発することができない。


 結局、最期の言葉は今宵に伝えられなかった――。

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