ユキと妖(あやかし)

冬野月子

第1話

伊勢の国、関宿。

春も盛りと桜の咲き誇る、暖かな日差しが柔らかく降り注ぐ中。

東海道の宿場町として、またお伊勢参りへの行き帰り客で賑わうこの町を、一人の少女が歩いていた。


旅装束に身を包み、長さのある布に包んだ荷物を背中に負う。

人通りの多い辻を選んで腰を下ろすと、少女は背中の荷物を解き始めた。

布の中から現れたのは一丁の三味線。

丁寧に糸の調子を合わせ、構えると撥を握る。


テーン、テーン、テーン、テン、テン、テテテテ……。

賑やかな辻に、雑踏の音に負けない澄んだ音色が響いていく。

チチン、チチン、チリチリチンチリリン……。

時にゆったりと、時に早弾きで。

巧みな演奏に吸い寄せられるように、人々が集まってきた。

小柄な少女の掻き鳴らす音に観衆の期待が高まっていく。

たっぷりと前弾きを奏で、シャン、と撥を打ち付けた。


「夕暮ごとの浮雲にィー」

艶のある声が宿場町に響き渡った。


少女が語るのは、悲恋の物語。

初めて会った時から惹かれ合う花魁と若い男。けれど男には廓に通う金がない。

手を付けてはならない金に手を出し、やがて追われる身となった男は花魁に別れを告げる。

離れがたい花魁は連れていくよう男に縋り、二人は手に手を取り合い西へと落ちてゆく。


赤い鹿の子を掛けた島田髷の、愛らしい面立ちの少女が語ると、色艶に満ちた花魁の純粋な恋心が際立つ。

細い指が操る三本の糸は、時に二人の心情を細やかに、時に廓の賑わいや降りしきる雪の冷たさを奏で、聴く者の脳裏にその情景を感じさせる。

二人の暗い行末を暗示させる言葉を紡ぐと、テーン、と静かに最後の音が響いた。


しばらくの間ののち、わあっと歓声が沸き起こった。

口々に少女の演奏を褒めそやしながら、銭が投げ込まれていく。

集まった観客が去っていったところで、少女は銭を集めるとその数を確認した。


「うーん……」

『足らないか?』

唸った少女の頭の中に、男の声が響いた。

「足らなくはないけど……明日は雨になりそうだから。もう少し集めた方がいいかな」

場所を変えてもう一度唄おうか。そう思い、三味線を仕舞おうと手に取る。


『ユキ。〝仕事〟が来たぞ』

声に顔を上げると、向こうから羽織姿の男がこちらへ向かってくるのが見えた。

上等そうな着物を身につけ、後ろに小僧を従えているのはどこかの大店の番頭だろうか。

少女の前まで来ると男は立ち止まった。

「失礼ですが、ユキ殿でしょうか」

「……はい」

「私はこの近くの米問屋、山城屋の者。あなたを連れてくるよう主人の命を受けております。来て頂けますでしょうか」

「――分かりました」

三味線を包み終えるとユキは立ち上がった。



立派な店構えの山城屋は、大勢の者達が忙しそうに動き回っていた。

ユキを連れてきた男は裏口から入ると、店ではなく居住区の方へと案内した。

よく手入れされた中庭を望む広間でしばらく待つと、恰幅の良い中年男性が現れた。

「この度は突然申し訳ない……」

「いえ、分かっております」

背筋を伸ばしたまま男を見上げて、ユキは微笑んだ。

「どなたかからのご紹介で私を呼んだのでしょう」

「ええ、菩提寺の住職の知己で、確か〝そううん〟と言ったか……」

「蒼雲様ですか、よく存じています」

「おお、そうでしたか」

ふう、と息をつくと男はユキの前に座った。

「私はこの山城屋の主人、喜兵衛と申します。……この度お呼びした件ですが、発端はひと月ほど前になります――」


その日の朝、飼い猫が死体で発見された。

米問屋である山城屋は、ネズミ除けに猫を三匹飼っている。

見つかったのはその中でも一番若い、一歳の雌猫だった。

首を噛まれた跡があったことから犬にでもやられたのだろうと思われた。

けれどそれから十日後に別の猫が、さらに十日の後に残りの一匹も同じようにやられてしまったのだ。

更に家の中で奇妙な事が起き始めた。

山城屋には今年十六になる、ミヨという娘がいる。

そのミヨの部屋の周囲で、夜中になると怪しげな物音がするのだ。

夜が明けるまで続く、何かを引っ掻くような音と唸るような声に娘も使用人達もすっかり怯えてしまい、満足に眠れないのだという。

これはもしかしたら、呪いやあやかしの類ではないだろうか――不安になり、住職に相談すると蒼雲という若い僧侶を紹介された。


「これは鼠の妖ですね」

蒼雲は一通り家の中を調べるとそう告げた。

これまで多くの鼠がこの家の歴代の猫達に襲われてきた、その恨みが妖となったのだろう、と。

「数日の内に、この宿場町にユキという三味線の弾き唄いをする少女がやってきます」

退治の仕方を尋ねると蒼雲はそう答えた。

「彼女を呼べばきっと解決してくれるでしょう」

少女が妖を? と半信半疑だったが、言葉通り三日後に三味線の音が聞こえ、急いで番頭を使いにやったのだ。


「なるほど、分かりました」

喜兵衛の話を聞いてユキは頷いた。

「それでは……そうですね、そのお嬢様の隣の部屋をお借りしてもよろしいでしょうか」

「それは構いませんが……」

喜兵衛はユキを見て言いにくそうに頭を掻いた。

「その、失礼ですが。どうやって妖を退治するのでしょうか」

この小柄な少女のどこにそのような力があるのか不思議だった。

「それは秘密です」

にっこりと笑みを浮かべてユキは答えた。


部屋に案内してもらい、入るとユキは荷物を解いた。

『蒼のやつ、全部説明しなかったな』

男の声が頭の中……ではなく、ユキの手元から聞こえた。

「全部?」

『どうしてお嬢の部屋の周囲で音がするのか、だ』

「……それは、分からなかったか――知らない方がいいと思ったからじゃない?」

ユキは手にしていた三味線を持ち上げると、胴の部分を自分の顔へと近づけた。

「想像している理由だったらね」

『あいつも変な所で人間に気を使うんだな』

男の声は三味線の中から聞こえていた。

「蒼さんは優しいから」

『優しい? あれが?』

「優しいよ、いつも美味しいものをくれる」

『お前の優しさの基準って……』

はあ、とため息をつく声が聞こえる。

「少なくとも白銀しろがねよりは優しいよ」

『……』

チッと小さく聞こえて、それきり三味線から声は聞こえなくなった。


部屋で夕食を貰って一息ついて、ユキは三味線を手に取った。

掛けてある一の糸を外すと布巾で丁寧に磨いていく。

「ねえ白銀」

『……何だ』

「声は聞こえる?」

『声? 何の』

「殺されちゃったんでしょ……猫達」

『ああ……呼ぶか?』

「うん、おねが――」

ふと気配を感じ、ユキは振り返った。

部屋の片隅に青みを帯びた影があった。

最初ぼんやりとしたそれは、すぐに色も形もはっきりとし――やがて僧侶の姿となった。

「蒼さん」

「やあユキちゃん」

蒼雲は笑みを浮かべると、手に持っていた包みを差し出した。

「久しぶりだね。これは夜食用の羊羹だよ」

「わあい」

嬉しそうに包みを受け取るユキの頭をぽんぽんと軽く叩く。


『蒼。ユキを餌付けするな』

「白銀様も相変わらずそうですね」

ユキの傍に胡座をかくと、蒼雲は三味線を覗き込んだ。

「状況はいかがです?」

『――それなりには戻ってきている』

「それは良かった」

口角を上げると、視線をユキへと戻す。

「今回の仕事内容は把握した?」

「うん。それで猫達を呼んでもらおうとしてたの」

「猫達?」

「ここで飼っていた子達よ」

「ああ――僕も彼らには会ったけど。ユキちゃんは会わない方がいいんじゃないかな」

「どうして?」

「よっぽど悔しかったらしくてね。堕ちかかってる。多分ユキちゃんの言葉は通じないよ」


『それはまずいな』

三味線からため息が聞こえた。

「……堕ちたらどうなるの?」

『ただの悪霊になる。そうなったら俺達には救えない』

「そうなんだ……それは、悲しいね」

「だからそうなる前に鼠を倒して安心させてあげないと」

蒼雲は顔を曇らせたユキの頭を撫でた。

「……その鼠も堕ちて悪霊になったの?」

「そうだね。動物の魂は人間よりも純粋だから簡単に堕ちてしまうんだ」


『蒼。鼠共の目的は恨みだけではないだろう』

「ああ、お嬢さんには会いました?」

「さっき。とても綺麗な人ね」

「関宿の小町娘として評判らしいですよ。――妖も嫁に取ろうと思うくらいにね」

小さく笑みを浮かべた顔で蒼雲は言った。

「やっぱり、そうなんだ」

ユキは磨き終えた三味線に視線を落とした。

「大物の妖がこの家の鼠の悪霊に引き寄せられて、娘に目を付けたみたいだね」

「どうして妖って、人間をお嫁に欲しがるの?」


『――人間の魂は甘いからな』

「甘いの?」

『ああ』

「羊羹とどっちが甘いの?」

ブッ、と蒼雲が吹き出す声が聞こえた。


『……そういう甘さとは違う』

「甘さが違う?」

「ユキちゃん……人間には分からないと思うよ」

「……蒼さんも人間のお嫁さんが欲しい?」

ユキは蒼雲を見上げた。


「僕は許嫁がいるからいらないよ」

「翠さん、だっけ」

「そう、とっても可愛い子」

『とっても気が強いがな』

「そこがいいんじゃないですか」

ふふん、と蒼雲は鼻を鳴らした。

「会ってみたいな」

「翠も会いたがってたよ。だから早く、猫魔ヶ岳に帰れるよう頑張ってね」

「……うん」

「さて。僕はお嬢さんに結界を張ってくるからユキちゃんも準備よろしく」

現れた時と同じように、蒼雲が影となり消えたのを見ると、ユキは荷物の中から小さな袋を手にした。

袋の中から糸を取り出すと、先刻外した一の糸の代わりに掛けていく。


三味線はその名の通り三弦の楽器だけれど、〝仕事〟で使う糸は一本だけだ。

銀色に光るその糸は普通の糸よりも細いけれど切れる事がない。

音色は絹糸に劣るのでユキ的には不満だけれど……この糸でないとならないというのだから仕方がない。


「向こうの準備は終わったよ」

いつの間にか蒼雲が部屋に立っていた。

「お嬢さんは寝たの?」

「家中に眠る術を掛けたから。夜が開けるまで誰も起きないよ」

そう言ってユキの傍へ腰を下ろした蒼雲の姿がふいに小さくなった。


そこにいるのは、青みがかった灰色の毛を持った一匹の猫だった。

普通の猫と異なるのは――その長い尾が二つに分かれている事だった。

「蒼さん」

ユキは左手を猫に向かって伸ばすと、手にすり寄った猫の頭を撫でた。

「すべすべして気持ちいい」

ゆっくりと顎の下を撫で上げると気持ちよさそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らすと、チッ、と三味線から舌打ちが聞こえた。


『そんな事やってないでお嬢の部屋へ行くぞ』

「おや、ヤキモチですか」

『……違う』

「あ、そうだ羊羹」

思い出して、ユキは包みを取った。

竹の皮をはぐと、中から艶々した羊羹が現れる。

一口かじると口の中に小豆の香りと甘さが広がった。


「美味しい?」

蒼雲の声で尋ねる猫にこくんと頷く。

「蒼さんも食べる?」

「僕は甘いのはいらないよ。白銀様は好きだけどね」

「そうなの?」

三味線と羊羹を交互に見る。

「……じゃあ後で半分あげる」

二口ほどかじると、包みを元に戻してユキは立ち上がった。

隣の部屋にそっと入ると、ミヨが眠る布団の傍へ腰を下ろした。

ユキの傍にピタリと付いて蒼が座る。


暗がりの中、しばらくじっとしていると蒼の耳がピクリと動いた。

「来たな」

はっとして、ユキは抱えていた三味線を構えた。

「沢山いるの?」

糸巻きに手をかけてユキは尋ねた。

「大物は一匹だけだ。小さいのは一杯いるけどね」


『大物だけを狙う。ユキ、力を溜めろ』

「うん」

『蒼は小物からユキを守れ』

「御意」

糸の調子を合わせるとユキは三味線を構えた。


ビィン……と糸を右手の爪で弾く。

振動を身体の奥に取り込むように、意識を集めていく。

音が消えるともう一度……何度も何度も、糸を弾いていく。


ユキの右手が光を帯びた。

やがて糸の音に共鳴するように、三味線の皮が細かく振動しはじめた。


カタン、と部屋の外から音がした。

蒼が音のした障子に向かって攻撃態勢を取ると、二本の尻尾が何かを探るかのように大きく揺れる。


音もなく襖が開かれた。

その向こう――闇の中に、無数の小さな光が見えた。


蒼の全身が逆毛立つ。

光と見えたそれは、鼠の目だった。

甲高い声を上げながら数え切れないほどの鼠が部屋の中へとなだれ込んできた。

「退け!」

蒼の身体から衝撃波が放たれた。

鼠達が跳ね飛ばされる。

その後ろから更に押し寄せる鼠を跳ね返しながら、蒼は背後を伺った。

瞳を閉じ、無心に糸を弾き続けるユキは全身が光に包まれていた。

部屋中に糸の振動が満ちると部屋に侵入しようとした鼠達が怯えはじめた。

廊下で尻込みする、その背後に一際大きな二つの赤い光が現れた。


それは巨大な鼠だった。

立ち上がったその姿は人の背丈ほどある。

「白銀様!」

ビィ—ン、と大きく糸が弾かれ、それに呼応するように三味線の皮が強く光った。


「下がれ蒼」

ユキの目の前に、白い猫がいた。

蒼の二倍はある大きさで、真っ白な毛は長く波打ち、青と金、色の異なる双眸は強い光を宿している。


「ふ、これは食い出がありそうだ」

ちろりと赤い舌が唇を舐める。二本の尻尾がゆらりと動いた。

ギィー! と不快な声を上げて巨大鼠が襲いかかってきた。

それよりも早く白猫は跳躍すると鼠の喉元に噛み付いた。


苦しげにもがきながら振り落とそうとするのに構わず顎に力を込めていく。

やがて鼠の目から光が消えると、その身体は崩れ落ちた。


白猫は鼠から離れた。

食らいついていた、その喉元から黒い煙のようなものが湧き上がる。

白猫が大きく口を開けると、その口へ向けて、黒い煙が吸い込まれていく。

やがて全て吸い終わると鼠の姿は消えていた。


「……流石に大物だな。食い過ぎた……」

「白銀!」

ユキが白猫に飛びついた。

ぎゅうぎゅうと強く抱きしめる。

「ユキ、食べた直後は止めろといつも……」

抗議の声を無視してさらに腕に力がこもる。

「モフモフ……」

「ああもう」

はあ、とため息が漏れるとユキの身体がぐい、と宙に浮き上がった。


青年がユキを抱きかかえていた。

銀に光る、腰まである豊かな白髪。

美しいと表現したくなる相貌に宿る、青と金の瞳が腕の中のユキを見てふっと細められた。

「不満そうだな。人の姿は嫌いか?」

「……どっちも好き」

「そうか。さっきの部屋に戻るぞ」

頬を膨らませたまま、呟いて大人しく胸に頭を預けたユキに頬を緩めると、白金は隣の部屋へと戻り、その身体を抱きかかえたまま胡座をかいた。


「白銀様。身体の具合はいかがですか」

僧侶の姿に戻った蒼雲が白銀の前に座る。

「そうだな……前と比べるとかなり良い」

答えて、腕の中のユキの目がとろんとしているのに気づく。

「ユキ、力を使って疲れただろう。夜明けまでまだあるから寝るといい」

「……いや」

「ユキ」

「起きたら……また白銀は三味線に戻っているから」

ユキの腕が伸ばされると、縋るように白銀の首へと巻きついた。

「――そうだな」

優しく抱きしめて、背中を撫でる。

「……まだ……一緒にいたい……」

力なく呟くと、腕の力が抜けていく。

「ユキ……すまない」

かすかに寝息をたてはじめた目尻へ、そっと唇を押し当てた。


「本当に健気ですね、ユキ殿は」

蒼雲は二人の姿を見て笑みを浮かべた。

「猫又のくせに、泥酔している間に三味線の皮にされるような間抜けな王の嫁御寮には勿体無いのでは?」

「……お前らがマタタビなど混ぜるからだろうが」

「まさかマタタビくらいで潰れるとは思わないじゃないですか」

キッと睨まれて首を竦めた蒼雲にため息をつくと、白銀は腕の中へ視線を落とした。

「――だが、お陰でこうしてユキと出会う事ができた」

そっと頬を撫でられ、わずかに身じろいたユキに目を細める。


――本当に我が王はこの娘に惚れ込んでいるのだな。

視線が生ぬるくなってしまうのを感じながら蒼雲は心の中で呟いた。

奥州・猫魔ヶ岳に棲む猫又達を統べる白銀が三味線となってしまったのは、二十年近く前の事だ。

その三味線を手に入れたのがユキの師匠にあたる名人と謳われた男で、孤児だったユキは歩くより早く三味線に触れていたという。


ユキは妖力を持っていた。

そして彼女が弾くたびにその妖力が三味線へと注がれ――やがて白銀は徐々に元の力を取り戻すようになったのだ。

初めは声が。次にその力が戻り。

他の妖を喰えるようになってからは、少しずつその姿を元に戻せるようになっていった。


白銀の妖気を察知した蒼雲が二人を見つけたのは、一年ほど前の事だ。

妖を喰らい続ければ白銀は元に戻れると知り、以来他の猫又達と共に人間や他の妖に害をなすような――〝喰ってもいい〟妖を探してはその地へユキを向かわせているのだ。


「ああ、酒といえば。今回の件を持ってきた住職から貰ったんです」

差し出した蒼雲の手に、いつのに間にか徳利があった。

「やります?」

「――酒はもういい」

「伊丹の戻り酒ですよ」

ゴクリ、と白銀の喉が動いたのを見て蒼雲は口端を緩めた。


「マタタビは入ってないから大丈夫です」

「せっかくの上物に余計なモノをいれたらただではおかぬぞ」

「……本当に好きですねえ」

差し出された杯を受け取った白銀に酒を注ぎ、自分へも注ぐ。

「――久しぶりだ。染み渡る」

一口含んでじっくりと味わうと、白銀はほうと息を吐いた。


「あとどれくらいで完全に戻れそうですか」

「まだしばらくは掛かるな」

「雪が降る前には復活して、猫魔ヶ岳に戻って下さい」

「何故だ?」

「ユキ殿は年が明けたら十六になるんですよね」

蒼雲は白銀の膝を枕に眠る少女へ視線を向けた。

「彼女を狙っている妖は多いですよ。何せ妖力を持つ人間は稀少な上に、こんなに可愛らしいのですから」

視線を白銀へと戻すと、彼は目を見開いていた。

「先日あなた方が訪れた鞍馬の天狗殿も彼女に興味を持ったようです」


「ユキは私の番だ」

ぐいと酒を飲み干すと、手酌で空になった杯に注ぐ。

「既に真名も交わしている。他の連中には手は出させない」

「……はあ?」

蒼雲は思わず声を上げた。

「真名を? いつ? 初耳なんですけど」

「ユキの前で初めてこの姿に戻った時だから……五年前か」

「ってまだ十歳の時ですよね?! まさか子供を騙した込んだんじゃないでしょうね!」

「そう大声をだすな。ユキが起きる」

白銀は眉を顰めた。

「きちんと真名を交わす意味も教えた。同意の上だ」

真名を交わす、それは主従や夫婦など特別な契りを交わす事だ。

一度交わしてしまえば、その契約は死ぬまで消える事はない。


「いやいや、それにしても十歳の子供に……」

「俺は初めてユキの妖力を浴びた時に番にするならこの娘しかいないと決めた。以来俺の妖力もユキに与えて馴染ませている。おそらくユキは俺以外の妖力は受け付けない」

「――それって騙したというか洗脳というか……しかも初めて浴びた時ってまだ幼児ですよね?!」

「年齢は関係ない」

白銀は不快そうな眼差しを蒼雲へ送った。

「それに俺がユキを娶ると決めたのだ。ユキは拒否できない」


「できないじゃなくて、させない、でしょう」

はあ、と深くため息をついて蒼雲は手にしていた杯をあおった。

飲み潰れて三味線の皮にされてしまうような間の抜けた所もあるが、白銀は〝王〟だ。自尊心も、それを裏付けするだけの力も並外れている。

一度狙ったものを手に入れるためなら何でもする男だ。

ユキも白銀の事を慕っているようだからいいものを……いや、それも幼少時からの刷り込みなのかもしれないが。


「――どうした縁で、かのひとに」

「え?」

「〝逢うた初手から可愛さが〟……ユキがよく唄っている。理屈ではない。初めて認識した瞬間から、彼女なのだと思ったのだ」

ユキを見つめる眼差しはひどく優しくて……そこにある愛情は、彼の真実であるのは間違いないのだろうけれど。

それが彼女にとって良い事なのかは、蒼雲には分からない。


「おい、酒がなくなったぞ」

いつの間に飲み干したのか、空になった徳利を振りながら白銀が訴えた。

「……まだありますよ」

酒が満たされた別の徳利を差し出す。

「肴はないのか」

「ユキ殿が残してくれた羊羹なら」

「羊羹? 酒に合うのか?」

包みを渡すとぶつぶつ言いながらも一口かじると杯をあおった。

「……ふむ。意外と合うのだな」

羊羹と酒の組み合わせが気に入ったらしく満足そうに頷いている。

――王が戻るまでに、喜ぶような菓子と酒の組み合わせを探させておくのもいいかもしれないな。

二十年ぶりに酒を酌み交わす感慨にそんな事を思いながら蒼雲も杯を重ねた。


「そうか……ユキを狙っている者がいるなら祝言は急いだ方がいいな」

独り言のように白銀が呟く。

「はい、ですから雪が降るまでに」

「何故雪が降るまでなのだ」

「人間の少女にはあの山の雪は酷ですよ。暖かく過ごせる家を用意しておきますから」

「ああ……まだ雪は残っているんだろうな」

久しく戻っていない故郷の山に思いを馳せる。

「早くユキにも見せてやりたいな」

雪深く生きるには厳しいが、緑と水が豊かで美しいあの山々を。




「ありがとうございました」

門の前で、喜兵衛をはじめとした山城屋の者達が揃って頭を下げた。

「殺された猫達と、鼠の供養をしっかり行ってください。また妖になるかもしれませんから」

「はい、必ず」

蒼雲の言葉に喜兵衛はもう一度深く頭を下げた。


「桜が散り始めたね」

人気の少ない裏の道を歩いていくと、ぬるい風に乗って、淡い色の花びらがどこからともなくチラホラと落ちてきた。

「やっぱり雨降りそう……」

どんよりとした空を仰いでユキは呟いた。

「今日は長福寺に行こうか」

「長福寺?」

「懇意にしている寺でね、今回の仕事もそこからの紹介だよ。まだ他にも仕事になりそうな話を知っているらしいよ」

「近いの?」

「うん、頼めば今夜の宿も貸してくれるから」

「だって。そこに行っていい? 白銀」

『ああ……』

「白銀?」

いつもと声の調子が違う様子にユキは首を傾げた。

「どうかしたの?」

『――二十年ぶりに飲んだら頭が痛い』

きょとん、として――説明を求めるように蒼雲を見上げる。


「酒が手に入ったから、昨夜飲ませたんだ」

「……三味線って頭が痛くなるの?」

「どうなんだろうね」

「……どのみち今日は弾けないね」

三味線でいる時の白銀がどういう感覚を持っているのかはよく分からないけれど。

振動で気持ち悪くなったりされても困る。

「長福寺の住職はね、人間だけど僕ら妖と親しいし、知識も沢山あるんだ。きっと話をしたら楽しいと思うよ」

「本当?」

「三味線の二日酔いの治し方も知ってるかもね」

「ふふっ」

笑みを漏らすと、背中に背負った荷物へと視線を向ける。


「白銀、飲みすぎはダメだよ」

『……ああ』

「蒼さんも白銀にあまり飲ませないでね」

「うん、ごめんね。それじゃ行こうか」

そう言って差し出された手をユキが取ると、蒼雲は歩き出した。


『……おい、何故お前がユキと手を繋いでいる』

「役得ですかね」

『お前……』

「道行みたいだね」

「ああ、いいねえ」

『っおい、お前ら――』

「悔しかったらさっさと元に戻って下さい。ねえ、ユキちゃん」

口元に笑みを浮かべて蒼雲は言った。


「うん……私も、白銀と手繋いで歩きたいな……」

蒼雲を見上げて呟いたユキの額に、ポツリ、と雫が落ちた。

「あ……雨」

「もう降ってきたか」

そう言って蒼雲はユキを抱き上げた。


『おいっ蒼!』

「濡れたらどちらも困るでしょう。ユキちゃん、飛ぶから捕まって」

「えっ」

ヒュウ、と一陣の風が吹き抜ける。


後にはただ風に舞う花びらが数枚残るばかり。



おわり



お読み頂きありがとうございました。

三味線の四つ皮って破けやすいけど、猫又なら丈夫なのでは? と思いついて、生まれた話です。

あらすじにも書きましたが、一応江戸時代(中〜後期頃)を舞台にしていますが時代考証とかおかしい所があってもご容赦ください……。

調べるのは大変だけど、和モノは書いてて楽しかったです。

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