第6話 罪
☆
結婚して1000年以上を過ぎたけれど、喧嘩は始めてかもしれない。
叱った事もなかった。
宥めることは多かった。
オルビスが屋敷に戻ったら、ヘルメースは部屋に閉じこもっていた。
いつも傍に置いている侍女も追い出して、一人で部屋に閉じこもって、物音一つしない。
オルビスは透視で部屋の中を見る。
ヘルメースはソファーに座って、俯いていた。
扉をノックして「私だ」と声をかけても返事はない。
「話し合いをしよう」
「……」
「扉の鍵を開けてくれ」
「……」
「無視するな」
「……」
「今日、自分がしたことを分かっているのか?」
「……」
ヘルメースは返事をしない。
よく見ると、ヘルメースは無心で編み物をしている。
小さな靴下が、一つソファーに載っている。
ヘルメースは子供が欲しいのだろう。
けれど、子宮にできた腫瘍は大きすぎる。
腫瘍だけの切除は、難しい。
もしかしたら、他の場所にも腫瘍ができているのかもしれないと、ふと思った。
オルビスは、妻の体を慎重に見ていく。
最初に腫瘍が見つかったのは最初の子供が生まれた直後だった。約1000年も腫瘍のある体を抱えて、体調も悪かっただろう。
歴代の魔王夫妻からは、子供を産めと命令されても、ヘルメースには子供を授かることはできなかった。言葉を投げられる度に傷ついた顔をしていた。
本当はもっと早く、魔王の座をレオンに渡したかったが、レオンはアリエーテの魂を追いかける旅をよくしていた。
200年おきに転生するらしく。転生間際からソワソワして、魂の気配を感じたら、屋敷を従者達に任せて、ふらりと旅に出てしまう。一度出かけると20年近く戻らないことも多く、魔王を頼める状態ではなかった。
やっとアリエーテを連れて戻ってきたから、オルビスはレオンに魔王の座を授けたかった。レオンもアリエーテがまた死んでしまうことを恐れていた。だから、話を持って行った時は、「ありがたい」と喜んだ。
一時はアリエーテの治癒魔法で小さくなってきた腫瘍も、アリエーテの妊娠と共に中断され、ヘルメースの希望は絶たれてしまった。
ヘルメースの失望を思うと、可哀想に思うがこれも運命。オルビスと結婚していなければ、とうに死んでいるだろう。
オルビスはヘルメースの気持ちを大切にして、守ってきたつもりだ。
けれど、レオンがやっと連れてきて、子供を授かったアリエーテに魔術で攻撃したことは許すわけにはいけない。
攻撃がわずかに逸れていたから、子供もアリエーテも助かったが、二人とも命を落としていたかもしれない。そんな事件を魔王の宮殿で起こして、許すわけにはいかない。
ヘルメースが病気であったとしても。
体中を見ていくと、以前はなかった胸や臓器に腫瘍は転移して、頭にもわずかな黒い影が見える。以前より悪化している状態を見て、オルビスは力なく壁に寄りかかる。
叱らなくてはならないが、この体の状態を見てしまったら、頭ごなしに叱ることができなった。
どうしたらいいのだろう?
ヘルメースに一目惚れしたのはオルビスだ。一緒にダンスをして、心が躍った。デートしたときも嬉しかった。
婚姻の証が出たときの喜びは、まだ昨日の事のように思える。
この1000年の間に、変わった事は、ヘルメースを抱かなくなったことくらいだ。
子宮の腫瘍が破裂してしまいそうで、自分の手で殺してしまいそうで怖くなった。その事が、ヘルメースを余計に不安にさせていることにも気付いているが、オルビスも怖かった。
オルビスは大きく息を吐きだして、気持ちを落ちつかせると、ヘルメースの部屋の扉を開けずに室内に入った。
ヘルメースは驚いた顔をしたが、すぐに俯いてひたすら編み物をしている。
赤ちゃんの靴下を編み上げると、それを燃やしてしまう。
「叱りに来たのでしょ?」
「ああ、あんな危険な事はしてはいけない」
「アリエーテは助かったのね?」
「母子ともに助かった」
「それは残念だわ」
ヘルメースはまた編み物を始めた。作っては燃やして、また作る。
「アリエーテも赤ちゃんも死ねば良かったのに」
「ヘルメース、アリエーテの命は、もう転生しないんだ。今回が最後なんだよ」
「元々、私は妹の事をそんなに好きじゃなかったの。甘えてくる妹が疎ましかった。両親の愛情を奪っていった妹の事も嫌いだったの。だから、アリエーテが死んだとき、そんなに悲しくなかったのよ。悲しんで見せたけれど、心では少しも悲しんでいなかったの」
「ヘルメース、そんな事は言ってはいけない」
「心が穢れているから、病気になったのかしれないわね。またお腹が膨らんだような気がするわ。これで赤ちゃんが、お腹の中にいるんだったら、どんなに幸せでしょう」
小さな靴下は簡単に編めてしまう。もうずっと同じ事を繰り返しているので、編み目を見ないでも編めているようだ。
「お腹の他に痛いところはないか?」
ヘルメースはやっと顔を上げて、微笑んだ。
「何か見えるのね?」
「いや、気になっただけだ」
「そこら中、痛いわ。魔王の妃でなかったら、きっと死んでいたわね」
「痛みを取ってやろうか?」
「今日は優しいのね」
「いつも優しいだろう?」
オルビスはヘルメースの横に座ると、背中をさすった。掌から温かなものが体中を包みこむ。
「先ほど、魔王の座をレオンに渡してきた」
「何ですって?」
「隠居するだけだ。これからは、いつも一緒にいよう」
ヘルメースは編み上げた靴下を、また魔術で燃やした。燃えカスすら残らないほど強い炎は、ヘルメースの執念なのだろう。
「私はアリエーテに負けたのね」
「勝負をしていたのかい?」
「そうね、アリエーテより幸せな人生を歩けると思っていたの」
「ヘルメースは、今、幸せではないのか?」
「幸せかもしれないけれど、幸せでもないわ」
ヘルメースはオルビスに抱きついた。
「今夜死んでもいいから、抱いてください」
「……ヘルメース。私はヘルメースを失いたくはないんだ」
「オルビス、病気になって、ごめんなさい。今日、アリエーテを殺そうとしてごめんなさい」
「レオン夫妻には手を出すな。それだけは約束してくれ」
「……わかったわ」
「これからは二人でゆっくり過ごそう」
「……ありがとう」
ヘルメースはオルビスに抱きついて、静かに涙を流した。
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