第18話


「けっこう暗くなってきたな」

 俺はスマホの画面を見て、言った。咲良の左腕につけてある腕時計を見て、「そうだね」と言っていた。

 午後六時。少しずつ空は暗くなり、地上も闇に包まれていく。

「……もう、帰るか?」俺は一呼吸おいてから、咲良にそう言った。彼女も名残惜しそうに首をわずかに縦にふる。じゃあ、と出口のほうへ向かおうとすると、咲良が俺の服のすそをつかんできた。

「……咲良?」

「──少し、二人きりになれる場所に行きませんか……?」

「えっ」俺は少し戸惑った。

「あと、少しだけでいいんです……むり、ですか?」

 下唇を噛みしめて、苦しそうに彼女は言う。言いづらかったのだろう。そんな言いづらいことを、彼女はぎこちないながらも言ってくれた。

「いいね、ここの近くにある公園なら、たぶん二人きりになれると思う。そこに行くか?」

「は、はいっ」

 すそをつかんでいた手が離れる。そのすきに俺は咲良の手をつかんで、指を絡ませる。いわゆる、恋人つなぎというやつだ。

 俺は頬を指でかく、恥ずかしいと思うといつもやってしまうクセだ。咲良のほうはうれしそうに唇をほころばせて、ぎゅっと手を握ってきた。

 俺たちはデパートをあとにし、付近にある小さな公園のベンチに腰をおろした。

「……え、ええっと」しかし、どう言葉をかければいいのかわからなかった。「二人きり……だな」

「そう、ですね」咲良が恥ずかしそうにつぶやく。ちなみに俺と咲良のあいだには、さきほどからずっとつながれた手がある。それを咲良はぎゅっと握りしめてくるのに応じるように、俺も力を入れる。

「…………」

「…………」

 沈黙。

 どう対処すればいいのかわからないものランキングトップに君臨する沈黙がやってきた。

 しばらくそうしていると、咲良の手が離れた。手の力を緩めて、そっと。

「咲良?」彼女の名を呼ぶ。すると、唇を結んでいた咲良は、「昔話を、していいですか?」

「あ、ああ」

 その言い回しには覚えがあった。そう、俺が咲良をふったときに用いたものだった。

「──私の過去のことは、知っていますか?」

「……ああ、君の兄さんから教えてもらったよ」

「そう、ですか」

 彼女の、子供なら誰でも一回やったことのある〝親への反抗〟のこと。

 それが理由で、母親によって暴力団に売られて、乱暴にされてしまったということ。

 それが原因で、彼女は家族を信じられなくなったということ。

 それを俺は白河宗次郎という人から教えてもらった。

「お母さまに逆らったせいで、私はひどい目に遭って。でも、それで終わりだと思っていたんです」

 どういうこと、だろうか。

 そのあと彼女は宗次郎さんに救出され、それで悲劇は終わったはずだ。少なくとも、それ以上彼女が乱暴されることなんてなかったはずだ。

「あのあと──お兄さまは、私に肉体関係を求めてきました」

「……は?」

「私をあの男の人達から解放してくれたことを口実に、私を求めたんです。『大丈夫だ、僕が君を守るから』とも言ってました」

 いきなりのことで、理解が追いつかない。

「その関係はずるずると続いていきました。そしてお兄さまはある時言ったんです。『咲良を苦しめたあの女は、きちんと始末してやるから』と」

 咲良を苦しめたあの女──おそらく、彼女の母親である白河涼子のことだろう。

「それで……パーティの日、『鬼』であるお母さまに血を与えて、本物の怪物にさせました。そしてお兄さまの予想通りに事は進んで、怪物は殺されました、真堂雅之さんによって」

 真堂雅之。

 俺の親父の名前だ。

「そして一つ予想外があったんです──それは真堂隆之を殺せなかったこと。正確には、真堂隆之はある者によって蘇生されてしまったことです」

 そのある者とは、白河紅子のことだろう。

 俺の心臓の大部分は彼女の血液で補われているということを、今朝知ったばかりだ。

「でも、その代わり白河家から離すことができたので、兄はそれで満足していました。それからも兄との関係は続いていって、そのうち兄は私を傷つけるようになりました」

 傷──昨夜を、俺は思い出していた。

「でも、私には一つの能力があったんです。白河一族は鬼の一族ではありますが、そのなかでも希少な、純粋な人間として私に、能力が備わったんです。それは『消失』。これは何にでも作用できるんですよ。石でも、人形でも、そして──どんなにひどい傷でも」

 あのときの現象は、傷を〝治していた〟というわけじゃなく、ただ単に存在そのものを〝消していた〟ということなのか。

「そんなときでも、私に優しくしてくれた人がいました。それがお父さまです」

 ──ソウ爺だけが、彼女の支えだったのだろうか?

「お父さまはいつでも私に優しくしてくれました。真堂さんと同じく、『なんでもしてやる。困ったときは俺に言いなさい』と言ってくれました。嬉しかったんです」

 そうか、つまり彼女は、俺とソウ爺は重ねていたのか。

「でも、信じきることができませんでした。お兄さまは、私にこう言いました。『あの男を信じるべきじゃない。また君のことを裏切るかもしれない。反抗すれば、またどこかで飛ばされるかもしれない。それでいいのか?』と」

 洗脳と言ってもいい行為だ。

 なあ、宗次郎さん。どうしてそんな人間が、俺なんかに『彼女の救済』を求めたんだよ?

「……私は、最低なことをしました。お父さまがぐっすりと寝ているときを選んで──私は……私はっ……!」

 そのあと、彼女は消え入るような声で、


 ──首を絞めて、殺しました。


 と言った。


「……それが、私の罪です」

「…………」

「私は、罪人なんです。だから、私は──いなくなるべきです」


 それは、真実ではない。

 白河宗助の死因はあくまで『衰弱死』なのだ。おそらくソウ爺は殺される前に、もうすでに死んでいたはずなのだ。

 しかしそんなことは関係ないのだろう。

 こんなことを今伝えても、何にもならない。咲良は確実な、人を殺すという意志をもっていた。殺したという事実よりも、唯一信頼できたはずの父親を殺そうとしていた自分が、恨めしいのだ。

 だからきっと、咲良が救われるために必要なのは、本当は殺していないだとか、誰か一人でも味方がいるとか、そういうことじゃない。

 周りを変えても意味がない。

 咲良が、咲良自身を変えなければならない。

 つまり、咲良が家族を信じれるように──俺以外の人に対しても、心の底から、精一杯笑えるように。

 俺が、その背中を押してやらないといけない。

 俺は立ちあがる。そして咲良の前まで来て、咲良を見下ろした。

「なら、償うべきだ」

 だからしばらくは、彼女はその虚偽きょぎの罪を背負ったままがいい。

「それを償う方法は一つ。君が、君自身を救うことだ」

「えっ……」

 だから安心しろ。

 君が失敗したとしても。

 君がまだ笑えなくて、むしろ泣いてしまったとしても。

 他の誰のことも、もっと信じられなくなったとしても。

「だからそのために背中を押してやる。もし、君の贖罪を邪魔する奴がいたら、君を嘲笑う奴がいたら、俺はそいつをぶん殴ってやる。

だから──」

 頭を撫でて、また前へ進めるように、自信をつけてやる。

「だから──君のなかに潜んでいる〝自分てき〟をぶっ倒してやろうぜ!」

 手を差し伸べる。

 咲良はそれを手にとることを、ためらうばかりだった。

「……私みたいな人間が……こんな……」こんなふうに、自分を卑下するだけの言葉を繰り返している。

「──咲良の自由なんだぞ」

「……ぇ」

「俺の手をとらなくてもいいし、とってもいい。君の意志で、君が向かうべき道を決めるんだ」

 強制をするつもりなんて、最初からない。

「とらなかったときの未来は、普通なのかもしれない。とったときの未来は、過酷なのかもしれない。どちらに転ぶかなんて、今の時点ではわからないもんだ」

「どっちに転ぶか……」

「ああ」

 すると咲良は瞼を大きく開け、ある決心したようだった。

「私は……私は……」

 俺はもう、咲良に救われた。

 だから俺としては、咲良にも救われてほしいんだ。

「私は、償いたいっ……私は、自分を、変えたいっ……!」

 その言葉が出たならもう十分。

 俺はあまりのうれしさに、咲良の手をつかんで、咲良を立ち上がらせる。

 そして、抱いた。強く、強く抱きしめる。

「……た、たっくん……」

 すると、彼女は涙ぐんでしまった。耳元でぐすん、と鼻を鳴らしているのがわかる。咲良は俺と同じように、俺の身体を強く抱きしめる。そして、俺の胸のなかに顔をうずめ、啜り泣く。

「……好き……好き……大好きっ……!」

 震えた声で、そう言っていた。しかしそれは消え入るような、か細い声ではなく。希望を感じさせる、絶対的な、強い意志だった。

「ああ、俺も大好きだ」

 泣いている咲良の背中を右手でさすりながら、俺もそう言った。

 本当に──どっちに転ぶかなんてわからない。このまま希望へと進むのか、それとも絶望へと進むのか。

 でも、咲良がどちらの道へ進んでしまったとしても、俺はとことん付き合う覚悟でいた。彼女のとなりに、いつも居てやりたいと、俺は思っていた。

 これからが正念場だ。

 宗次郎さんとも、話をしなくちゃいけない。場合によれば、俺は宗次郎さんを殴らなくちゃいけない。

 いや──一発、二発ぐらいは入れてやりたい。

 なんて、凶暴な考えが思い浮かんでしまっている。

 まずは、話し合いだ。

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