第15話 少年は自身の過去を知る。

 こんこん、とドアをノックした。すると間もなく紅子はどうぞ、と少し小さな声で言った。


「ごめん、失礼するよ」

「……うん」


 顔を伏せている。その様子に俺は少し気になって訊ねた。


「どうしたの? 元気がないみたいだけど」

「……いえ、大丈夫よ。気にしなくていいから」


 そうやって顔を曇らせて言われても、説得力がない。それに──だいたいそうやって言う人は気にしてほしい、という合図なのだ。


 ここは気を遣って気にしない方がいいのだろうけれど、悪いが、俺としては見逃せない。


「何かあったんだね?」

「……ちが」

「話したくないならいいよ」

「え?」

 

 おそらく、俺が「何かあったなら話せよ」と言うと思ったのだろう。だが俺はそこまでするつもりはない。あくまで何かあったの、と質問して、正直に話してくれるなら聞こうと思っただけだ。


 親父はよく「気にしないで、と口にする奴ぁだいたい気にしてほしいって思ってるんだ。そのときは遠慮せず気にしてやったほうがいい。だが、もちろん本人の気持ちを第一優先にだ」と言っていた。俺はあくまでその言葉に倣ったまで。


 それに──誰にだって話したくないことはある。俺だって例外じゃない。それを無理やり吐かせるなんてことは俺としてはしたくない。


「話したいのなら話したほうがいいけど、話したくないなら話さなくていい。結局は紅子次第なんだよ」

「……気にならないの?」

「気になる。でもだからって無理やり言わせるなんて、傲慢でしかない」


 その結果で得られるものは少ない。あくまで本人の気持ちを尊重して、話すというのなら素直に聞くべきだ。そもそもそういった自分のなかで生まれた悩みは、自分でけりをつけるものだ。


「……ありがとう」


 まださきほどの面影はあるが、少し元気になったみたいで、俺に微笑みかけている。少なくともその顔が見れてよかった。


「……それで、熱は下がったかな?」


 俺は早速話を変えて、紅子の容態について訊いた。


「まあ少しは下がったかな?」

「そっか、よかった」


 一応確認のため紅子の額に手をのせる。最初に触れた瞬間、たしかに昨日よりは下がったなと思ったが、じわじわと熱が上がるのを感じた。


「あれ? なんか急に熱くなってきたぞ?」

「……そんなに顔に出やすいのかな……」

「どういうことだ?」

「……ううん。独り言」


 他人がいる場で独り言を言うのもなかなか珍しい話だと思うが、そこはあえて気にしないでおこう。

 俺は氷水に浸してあったタオルを絞って、余分な水を吐き出させる。ある程度は処理できたところで、タオルを紅子の額に乗せた。


「……ぅ」

「おお、今回はちゅめたって言わなかったな」

「……さすがに慣れたわよ……」


 少し照れくさそうに布団で口元を隠し、目を別のほうへ向けた。


「……紅子」

「ん?」


 しばらく沈黙になったあとで俺は話しかけた。

 顔を伏せる。

 あまり訊きたくなかったことだからだ。


「ソウ爺……紅子の父親はさ、俺の親父とある約束を交わしたんだよ」

「……それが、結婚のことでしょ?」

「ああ。でも、白河さんは嫌がってないのか?」

「……」


 そうして再び訪れる沈黙。当然だ。嫌がっているに決まっている。


 こんなことを今さらになって訊くなんて思わなかった。


「からかっているの?」

「……え?」


 目を細めてこちらを睨む紅子。俺にはその仕草の意味が理解できず、戸惑ってしまっている。


「からかっているのならやめて。本気で言っているなら、わたしも本気で言う」


 いったいどんなことを言うのか、まったく見当がつかない自分である。


「嫌がるなら、そんな約束はとっくに蹴っているわよ」


 ……その強情さというか、その我儘なところはさすがお嬢様と称賛するばかりだ。しかしそれよりも、俺のなかで湧きおこる感情はひどく明るいものだ。下手すれば、太陽よりとは比にならないくらい強く輝き、光を放っている。


 そう言ったあとの紅子はぷい、と顔を背ける。耳を赤く染めている。恥ずかしいのだろう。


「……そっか。そうか、そうなのか……!」


 途端に感情をあらわにする自分。

 よかったよかった、と心の底から歓喜している自分を、誰かが見ている気がして寒気を感じた。その誰かというのは、黒岩さんだ。


 ……そうだ。俺はまだ、彼女に対して何もしてやれていない。


 忘れるわけにはいかないのだ。

 決して、忘れるわけにはいかない。


「……でも、なんでだ? 嫌がらない理由がわからないんだけど」


 一番、訊きたかったことだ。

 紅子は少し間をおいて、こちらに目を向け、話した。


「タカユキは、昔のこと覚えてる?」

「……悪い。あまり、よくは覚えていない」


 俺は紅子の顔から視線を外して、気まずそうに言った。でも俺が言ったことを気にする素振りは見せず、当然のように紅子は言葉を続けた。


「そうね……じゃあむかし、わたしが泣いていたこと、覚えている?」


 それは──覚えている。

 昨日、紅子に抱きしめられたときに自然とその記憶が瞼の裏に浮かびあがったのだ。


「覚えている。けど、なんで泣いていたのかは、覚えていないよ」


 おぼろげだった。


「そのときはたしか、うちでパーティがあったでしょう?」


 そうだ。

 白河家から招待状をもらった真堂家は、そのパーティに参加した。それで、たしか──、


「大けがをしたの、タカユキは」

「大けが?」

「そう、とてもひどい傷だった。このまま死ぬんじゃないかって思うぐらい」


 だから、泣いていたのか。


「とても怖かった。タカユキがいなくなると思って泣いたわたしはね、そこで初めて自覚できたの」


* * *


 白河紅子の幼少時代、ときどき現れた少年。

 他人と接するのが苦手で、いつも隅でじっとその少年を見ていた。


 いつしか少年は紅子のもとまで駆けよってきて、


「なんていうナマエなんだ?」


 なんて、品のない口調で問いかけてきた。最初こそ紅子は逃げた。逃げ続けても、逃げ続けても、少年はこちらに気づいてはすぐに駆けよってくる。


 しつこいからイライラした。


 もう来ないで、と本気で怒った。


「……おかしいよな、オマエ」


 え? と思わず声をもらす少女。


「だってオマエ、オレからにげるときはすっげえ、たのしそうなんだもん」


 呆然とする少女。

 その少年から言われたことが本当である自覚できたのは、いつのころだったか。


「はじめてのときはわらってなかったけど。オマエ、すごくたのしそうにさ、すごくわらうんだよ」


 わらっている? と少女は首をひねるばかり。


「オレさ、オマエのわらうカオ、すっげえすきなんだ」


 紅子は、そんな突然のことばに顔を赤くした。


「それでさ、なんていうナマエなんだ?」


 紅子は息を呑んで間をおいた。そして紅子はふう、と深呼吸をして言うことを決意した。


「あか、こ……」

「ん?」

「あかこ……それが、わたしのおなまえ」

「あかこ、あかこ……か。かっこいい……!」


 かっこいい、と言われてもよくわからなかったが、にかっと歯をみせて笑いかけてくれるその少年に、いつしか憧れるようになった。


 そして、そのことを自覚するのは──、


* * *


「初めて自覚したって。なにを?」


 俺は首をかしげて、問いかけた。

 すると本当に楽しそうに目を細めて、満面の笑みで答えた。


「あなたが好きだってこと」

「え……」


 俺は言葉をどこか忘れたようにして、黙ってしまった。そんな俺を見て、くすくすと笑う紅子。


「なによ、おかしいのはあなたのほうじゃない」


 心外だ。誰だって唐突にそんなことを言われたら、言葉を失うものだ。


「でも、わかってる。タカユキのなかにはまだ、あの子がいるんだよね?」


 あの子──黒岩さんのことだろう。

 たしかにそうだ。今もずっと、こんな俺を冷ややかな瞳で見つめている。

 そう思うと、どうにもできない自分を悔やんで、顔を合わせづらくなる。


「だから答えを出すのは時間をかけてから。その答えがもし、わたしの望むものでないのなら。この家から去ってもいい。……だって、そのときになってみればさ。わたしとの結婚なんて面倒でしかないじゃない」


 こちらを気遣っているのだろう。

 しかし、そんな悲しそうに声を細めて言われても──余計、答えを出しづらくなる。


「ごめんね。こんなこと、言っちゃって」

「俺から振った話題だし、気にしなくていい」


 そうは言っても、そのあとに続く会話はない。あるのは重苦しい沈黙だけだ。きっと、紅子も過ごしづらいだろう。正直、俺も一人になって少し考えたい。


 だから俺は紅子に薬を飲ませて、タオルをまた濡らして彼女の額に乗せた。

 部屋から出たとき、ちょうど永井さんがいた。たぶん部屋に入ろうとしていたところを、わざわざ空気を読んで入らなかったのだろう。


「紅子に何か用事ですか?」

「……いえ、ただ様子が気になりまして」

「そうですか……じゃあ、永井さんに頼みがあるんですけど」


 俺は、永井さんに少しの間、紅子の看病を頼むと言った。すると永井さんは嫌がる素振りも見せず、ただ首を縦に振って「はい、わかりました」と二つ返事で承諾してくれた。


 俺はそのまま自分の部屋へ、のらりくらりとまるで熱にまいった病人のように戻っていった。


* * *


 いつの、ころだったか。

 昔の記憶だ。


 どこかのおやしき。

 たしか親父の友人の家。そこでパーティがあって、俺たちは招待されたんだった。


 何回か、俺はその家に行ったことがある。

 そこである少女と会っていた。


 名前をかたくなに教えない少女。

 童心ながらその子が気になって、いつも追いかけていた。最初こそ少女は怖がって逃げていたが、いつしか楽しそうに笑って逃げていった。


 ある日、俺にやっと名前を教えてくれた。


 恥ずかしそうに目を背けて、言ってくれた。



 それで仲良くなった。


 そしてパーティのとき、俺は──鬼に会った。

 人が、化け物に変わった。

 人が、化け物に生まれ変わった。

 

 人に、化け物が憑いた。


 それから覚えていることは──あの少女が泣いていたこと。


 俺を抱えて、泣いている。


 ……あの少女はごめんなさい、ごめんなさいと涙を流しながら、俺の首筋にキスをした。


* * *


「んぅ……ふぁあ……ん、あれ?」


 しまった。どうやら俺は部屋にベッドに寝転がってから、そのまま眠ってしまったらしい。まあベッドにの転がって目をつぶっていたら、そのまま寝てしまうのも仕方ない。これからは気を付けよう。


「……いまのは」


 今の夢はなんだったのだろうか。

 夢、というか自分の昔の記憶を見せられているようだった。


 あの少女──あれはおそらく紅子だ。


 しかしこの記憶は夢として現れた。そうである以上、すべてが事実であるという可能性は高くはない。俺が謎の化け物に襲われたのだって、もしかしたら本当じゃないのかもしれない。

 

 だが、咲良から聞いた話によれば白河家は鬼の血を引いているという。

 

「鬼、か」


 鬼というのは日本の一般的な妖怪の一つである。

 昔話でいうところの「桃太郎」に出てくる鬼などが有名だろう。


 そんな現実から逸脱した存在が、実はありふれた社会集団にまぎれて生きているなんて、思いもしなかった。だから俺だって、そんな話をまっとうに受け入れ、すべてを信じるわけではない。


 だが紅子と黒岩さんの戦いをこの目で確認した以上、その存在を認めざるを得ない。


 だからあの記憶で出てきた鬼が、俺を襲ってきて──それであの少女に泣いて謝れて。


 ……どうやって生き延びたのかは知らないが。


「……ああ、くそ」


 あまりに唐突によみがえる。

 きっと紅子と黒岩さんの戦いを思い出したからだろう。


 ずっと、だ。ずっと俺を恨めしそうに見てる黒岩さん。


「いつまで引きずってんだ、俺は……!」


 そんな自分にイラついて膝に拳をうちつける。

 

 黒岩さんはたしかに俺を恨んでいるのかもしれない。いや、きっとそうだろう。だからこそ黒岩さんに償わなくちゃいけない。


 ……でも、どうやって償っていけばいいんだ?


「……くそ、くそくそ……!」


 “タカユキが責任を感じる必要はない”


 ある少女が俺にそう語りかけてきたのを、俺はふと思い出した。

 

 ──その言葉に、俺は今、助けられた。


 少しずつ肥大化していったストレスは嘘みたいに縮まる。


「紅子のおかげ、だな……」


 そのとき脳裏に浮かんだ端正な顔をした、赤い柄の着物が似合う少女。その人のことを思うと、少しだけ心がやすらぐ。そして同時にあたたかくもなれる。


 それから彼女の体温も思い出した。

 

「……うそ、だろ」


 信じがたいことだった。

 そんなことに、気づきたくなかった。


 気づいてよかったと思う自分と、気づかなくてよかったのにと思う自分がいる。


 そのとき、扉がこんこんと鳴ったのが聞こえた。


「どうぞ」


 がちゃりと扉が開いて、そこに現れたのはバスローブを羽織っている紅子だった。どうやら風呂上りらしい。


「……そ、そのごめんね。やっぱり自分の部屋に帰る……!」

「帰らないでくれ」

「……ぇ」


 俺は立ちあがる。

 彼女に近寄る。

 俺は、そのバスローブのすそをつかんだ。


「少しだけ、少しだけでいい。ここにいてくれ」


 なんてことだ。


 こんな女々しいことを、平然と口にするなんて。

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