純黒の執行者
青木杏樹/メディアワークス文庫
『純黒の執行者』大ボリューム試し読み
序章(1)
死は隣人よりも理不尽だ。
あたたかい家庭。優しい妻と、よく笑う娘。
決して裕福ではなかったが、人並みと思えるくらいの幸せが──俺にはあった。
それらが生暖かい液体とともに首から
べしゃりと落としたそれが、引きずる足の甲に引っかかった。
──邪魔だ。
蹴り上げるように払いのけると、廊下に転がっていた一本の太い
妻と娘を非道な死に至らしめた異物だった。
猿ぐつわを
──絶対に殺す。
一歩、一歩が、狂おしいほど重い。
──殺すまでは死ねない。
意識が飛びかけて
焼けるようだった首の傷口からは、痛覚と熱が同時に失われていく。
俺はたぶん──、もう……死んでいる。
……暗い……。
寒い。
ひどく、眠い。
このまま
それがおそらくもっとも苦痛のない決断だった。
……だが、共用廊下にべたりとつけた片耳の鼓膜に、外階段を駆け下りる薄汚い足音ががんがんと張り付き、俺は頭をぶん殴られた心地で覚醒した。
──死ぬな……。
死ぬな死ぬなと、遠くの俺が叫んでいる。
あの黒い影を捕まえて、殴る。
死ぬまで殴って、殴って、殴り倒して、踏み潰す。
それでもきっと俺はこれでは足りないと感じるに違いない。
もし仮にあなたの家族を殺してすみませんでしたと
奪われた者が、
──絶対にこの手で殺す。
手足が徐々に硬くなり、暗闇に落とされた俺の意識がひゅうっと薄れていく。
「これは愉快だ。貴様は死んでも死なないのか?」
ふと、艶を帯びた若い男の声がどこからともなく俺に問いかけてきた。
これが
「
──黙れ。
「そうかそうか、死ぬのが怖いのか?」
──死ぬのは、怖くない。
「虚勢か」
──違う。
「貴様には死よりも怖いものがあると?」
──……ある。
「それはなんだ」
俺は応えなかった。尋ねる声は次第に遠くなっていく。
全身が死を求めていた。
──…… ……。
「ほぅおもしろい、それが貴様の恐怖だというのか」
このまま無駄な
「そんなにあの逃げた虫けらを殺したいのか?」
迷うまでもない問いかけに
──殺したい。
手足の感覚はとっくになくなっている。起き上がろうとコンクリートの床を
死んでいるのに死なない俺の身体からはもう流れるだけの血液がないのだ。
ざらついた黒色の世界はやたらと静かで息が詰まるようだった。鼓膜が膨れる感覚がした。鼻の奥が冷たい。これが──死……。痛みを超えた先に広がる絶望の沼に身体が沈み込む。けれど、妻と娘を殺したあいつが憎い、ただ憎くて憎くて、この汚物のような感情を置き去りにしたままでは、死ぬに死にきれない……。
──殺したいに決まっている。
混濁した意識の中、俺は目玉だけ上下に動かして肯定を示した。
「興が乗った」
聞こえるこの声の主が誰であるかなんて、もはやどうでもよくなった。
「おもしろい約束をしてやろう」
──約束……?
「約束とは一方的な誓いではない。互いに取り決めたことを将来的に破らないという、約定だ。貴様にその深い憎しみを満たす機会を与えてやる──だが──」
俺は、嗤って続けるその言葉を飲み込むように
復讐を果たすために手を貸してくれるのならば、どんな約束であろうと構わなかった。
もうすこしだけ待っててくれ。
殺したら、……すぐに行くから。
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