主人公はキミ
南雲 皋
何もかもが嫌になった夜
ちくしょう。
ちくしょう。
ちくしょう。
足が疲れないように選んだ低いヒールを打ち鳴らし、電灯だけが照らす路地を歩く。
『キミみたいなのは大人しくお茶汲みだけしていればいいンだよ』
ちくしょう。
ちくしょう。
ちくしょう。
何も言い返さずに会議室を後にした私のことを、もう誰も記憶の片隅にだっておいてくれやしないだろう。
女だって、私だって、一人で生きていけるんだと田舎を出てきたはずなのに、いつまで経っても何の肩書きも得られずに小さな歯車のまま。
地元の友人たちの幸せそうな写真、子供と並んで撮る家族写真、律儀に送られてくる年賀状を破り捨てたくなる衝動といつだって戦っている。
鼻の奥がツンとして、電灯を直接見ても大丈夫なくらいに視界が歪んだ。
情けない。
たかが一言でこんなにも傷付いて、涙を流すなんて。
それでも。
込み上げる悔しさは眼球を潤しながら流れ出ていくばかりだった。
さんざん垂れ流した涙が乾いて、鼻を啜る度に顔の皮膚が突っ張る。
もう少し顔がマシになったら電車に乗ろうと思いながら、歩いたことのない路地を進んだ。
退社して、最寄駅とは全く違う方向の住宅街に逃げ込んだ私は、どこへ続いているのかも知らない道を適当に歩いている。
月も雲に隠れて見えない夜、立ち並ぶ家々の窓から漏れるほのかな灯りと電灯だけが、道を、私を照らしていた。
風に乗って、どこからか音が聞こえてきて立ち止まる。
それはギターと、人の声だった。
まだ人前に出られるような顔じゃない。
来た道を引き返そうとしたのだが、足は前に進んだ。
次の曲がり角で曲がって引き返そう、そう思いながらいくつもの曲がり角を通り過ぎる。
どんどん大きくなる音色が、声が、私を呼んでいた。
大きくなると言っても、誰かに聞かせるような音量ではない。
どこか密やかなその音は、しかし必死に叫んでいるように聞こえた。
もう誰も遊んでいない小さな公園。
彼女は寒空の下、ダウンジャケットを着込んだ姿でベンチに座っていた。
主人公になれないアタシが どうして今ここにいるのか
答えは誰もくれない
自分で見付けるしかない
無数に瞬く星の中の一粒にすぎないアタシでも
誰より輝きたいと願っているのに
それは、叫びだった。
きっと、彼女の。
そして、私の。
止まっていた涙が再び堰を切ったように流れ出る。
それでも構わずに、私はカバンから長財布を取り出しながら彼女に歩み寄った。
恐らく、誰もいないと思っていたのだろう彼女は、近付いてくる私に気付いて歌うのを止める。
ザクザクと砂利を踏み締める音だけが二人の間に響いて、私は彼女に一万円札を突き出した。
「今の歌、初めから、しっかり聴かせて」
「えっ⁉︎ ちょっと待ってオネーサン落ち着いてよ、そんな、一万円なんてもらえないって」
「いいから。私があの歌に一万円払いたいって思ったんだから。だから受け取って、歌って」
「酔ってる?」
「酔ってない」
「うーん……オネーサン名前は?」
「あゆみ」
「……ここで歌うんだと、本域じゃ歌えないし、かなりアレンジしちゃうからさ、録音してもいいよ」
「録音していいの⁉︎ 何回も聴けるってこと? そんなの一万円じゃ足りないじゃない!」
「足りるって! 足りるから!」
私は財布の中身を全て彼女に渡そうとしたけれど、どうしても受け取ってもらえずに仕方なく諦める。
彼女は私が携帯電話の録音機能をスタートさせたことを確認してから、私の名前を呼んでくれた。
「あゆみのためだけに、歌います」
音量こそ小さいものの、その歌声には力があった。
自分が物語の主人公みたいな気持ちになって、都会に出てきさえすれば大成するのだと疑わずにいて、そうして打ちのめされた私の中に、鋭く重く入り込んでくる力が。
また馬鹿みたいに泣いて、えずいて、上手く開かなくなった瞳で彼女を見る。
私の視界の中で、彼女は一等星みたいに光り輝いていた。
公園の中に一つだけある電灯は遠く、彼女の姿はほとんど照らされていないというのに。
歌い終わって不安げに私を見た彼女に、私は言った。
「キミは主人公だ」
「え?」
「間違いないよ。主人公だよ。だってこんな凄い歌、売れるに決まってるもん」
「本当にそう思う?」
「私の顔を見てから言ってくれる?」
「あはは、そうだね」
私はカバンからポケットティッシュを取り出して盛大に鼻をかんだ。
もう化粧なんてドロッドロだろうから、涙も一緒に適当に拭いた。
私は、主人公にはなれなかった。
自分の人生に於いて、自分以外に主人公になれるはずがないということはさておき。
何か特別なものを持っているのだと信じて疑わなかったあの頃には、もう戻れない。
けれど、目の前の彼女は、間違いなく主人公だった。
もしかしたら今は売れていないのかもしれないけれど、それはよくある、最大の盛り上がりの前に一度落ち込む場面であるだけの話で。
だとしたら私は今、彼女の物語の登場人物になろうとしているのかもしれなかった。
主人公の背中を押す、突然現れた変な女。
それは、それこそが、私が今、ここにいる意味。
「名前、何ていうの? 私なんかじゃ宣伝したって大した影響力もないかもしれないけど、私、全力で応援するから」
「…………Seina」
「せいな?」
「そう、アルファベットで、せいな」
「分かった。せいなはこの辺で歌ってるの?」
「…………あゆみさん、待ってて。私、頑張ってくるから」
「え? うん」
せいなはそう言って、真っ直ぐ立ち上がった。
その顔はどこかすっきりとしていて、いつの間にか雲から抜け出たまん丸の月が、瞳に映り込んでいた。
メジャーデビューしたSeinaのファーストシングル、スペシャルサンクスの欄に『Ayumi』の文字を見て私が驚くのは、遠くない未来の、話。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます