第30話 貴族の逃亡
「ふざ……っけんなこの野郎!」
「ごぶひゃ!」
長く履けるよう、固く丈夫な素材を使用したブーツの踵がゴブリンの鼻をへし折る。
素人だが、それでも恐怖を打ち消す怒りで満ちたヤクザキックは、矮小なゴブリンを男の元まで蹴り返すには充分な威力だった。
「目的? 贄? んな下らない理由で俺の幼馴染を殺すつもりだったのか貴様ぁ!」
仲間がやられても怯まず、向かってくるゴブリン。しかしもう恐怖よりも怒りが先に立っているエグジムは怯まない。
飛んできたものは殴り落とし、下からくるものには膝蹴りを叩き込み、昏倒したところを糸で縛り上げる。
「く、く、下らない? 平民風情が……もういい殺してしまえお前たち!」
残ったゴブリンが殺意に牙を剥くが、彼らが動くよりも前に、白い津波が彼らを呑み込んだ。残ったポイズンスパイダーの糸、後先考えない放出による完全捕縛。
「ゴブ!? ゴブア!」
あっという間に蓑虫のようになったゴブリンがパニックを起こして暴れようとするが、その程度ではエグジムの糸は揺るぎもしない。
「ええい! 何をやっている行けよお前たち!」
ヒステリックに拳を振り上げる男だが、ゴブリンは皆、糸に捕縛され応えることはない。
そんな魔物達を通路の隅へと蹴り転がし、男との距離を詰めるエグジム。
その途中で一匹のゴブリンの足を鷲掴みにすると、ニヤリと口角を歪めた。
「まて、おい、何を考えているやめろ! 不敬だぞおい!」
「ゴブゴブゥ!」
怯えてイヤイヤと泣きながら首を振るゴブリンを容赦なく、ずーりずーりと引きずり、お貴族様へと迫りゆく。
「おいおい、そんなに嫌そうにしないで下さいよ……愛しのゴブリンでしょ?」
「ふざけるな! そいつらは只の手ごまだ! 近寄るな平民!」
「つれないこと言うなよ……なあ」
ミリリは見た、エグジムの口が三日月のように笑っているのを。
ミリリは知っていた、昔から精神的に振り切れた時、彼の頭のねじが飛ぶことを。
「あ……エグジム、マジ切れしてる……」
そのつぶやきは誰かに届いたのか。
滂沱の涙と鼻水で大変なことになっているゴブリンの鳩尾を蹴りぬいて黙らせたエグジムは、ゆらりと貴族の男を見下ろした。
「平民をそんなにバカにしてるんだ……さぞ普段から多忙なんだろうね……それこそ眠れないくらいに」
「なんだ、おまえ、なにを言っている……」
白目を剥いて痙攣するゴブリンの両足を糸で束ね、まるで大剣を下段で構えるかの如く、両手で携える。
何をする気か悟ったのだろう。慌てて逃げようとする男だが、もう遅い。
「いいぜ、ゆっくり寝かしつけてやるよ!」
「や、やめろ!」
不幸なことに案外早く目を覚ましたゴブリンが悲鳴の尾を引くフルスイング。
下から上へと振り上げ、通路の空間を最大限に利用した回転で勢いを殺さずに、十分に遠心力を載せて振り下ろす。
目指すは男の顔面。もはや色々な液体で直視できない顔面になっているゴブリンが迫りくる恐怖に、男の顔が引きつる。
「ひぃ……ぐぎあっ!」
目を剥く男。その若干肌色多めの額へと、イヤイヤと首を振るゴブリンの強烈なヘッドバットが炸裂した。
飛び散る血と強烈な衝突音が通路を木霊する。
「こいつで、おやすみっ!」
気絶(二度目)したゴブリンを更にスイング。あまりの容赦のなさにレミの頬が引きつる。
強打したダメージに顔を覆ってうつむく男。その晒された後頭部へと、再度遠心力を味方にした渾身のゴブリンヘッドバッドが叩き込まれた。
もはや支えきれず、ゴブリンに押しつぶされるような格好で石畳へと顔面から叩きつけられる貴族の男。
「ごぶひゃ!」
気絶していても悲鳴だけは上げるのか。二度目のスイングと同時に放り投げられたゴブリンは武器としての使命を全うしたのか、壁にぶつかった後力なく通路に横たわり、ピクリとも動かない……。
「ぐ……くそ……が……」
「まだ気絶しないのか……頑張り屋さんめ」
起き上がろうと震える手は、ダメージ故か、それとも怒りからか。
こんどこそ意識を刈り取ろうと出した蹴りを転がって避けた男は、その途中で取り落とした杖を拾い上げ、起き上がると同時に呪文の短縮詠唱を行った。
短縮詠唱。呪文の「要点」だけを切り取り繋げることによって完成される呪文。
元の呪文より精度も威力も落ちるが、それでも完全詠唱より迅速に発動できる。
意味の拾えぬ単語の羅列に呼応し、空中に描かれる魔法陣。
その中心に光が収束したかと思うと、男の体を単語の帯が取り巻いていく。
「こ……これは短縮で発動して良いモノじゃないのですが……止むをえん」
「くそ、何をするつもりだ!」
慌ててミリリたちの方へ走るエグジムだったが、変化は男の方に訪れた。
「そうバタバタするな平民……分相応な様相だが見苦しいですよ?」
単語の帯は連なり、円となり魔法陣を形作る。まるで中心に男を取り込むように投影された魔法陣は緩やかに回転し、その光の中に男の輪郭を溶かしてゆく。
まるで抱きかかえるようにしてミリリとキャロを守っていたレミが、魔法を見て目を剥いた。
「これは……転移の術式? うそ、かなり高度な術式のはず……」
「ほう……博識ですね。そう、転移ですよ。こんな所で見苦しく殴り合う程、私は暇じゃないのでね」
「逃げるのか!」
最後の糸を放つが、魔法陣の手前の空間で弾かれる。まるで漏れ出る光が、そのまま男を守る防壁になっているかのように。
「逃げるとは……口を慎め! もう少し実験と準備に時間を使いたかったが、邪魔が入った以上は悠長なことは言ってられないからな! ……では、失礼しますよ」
魔法陣の放つ光がだんだんと強くなり、眩しさに目を庇うエグジムたち。
去り際に「顔は覚えましたよ……平民」とだけ言い残し、光が消えた後には跡形もなく男は消え失せた。
後に残ったのは薄暗い通路と、簀巻きにされたゴブリンのみ。
「あいつ……自分の魔物置いてっちゃったよ……」
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