バード

雲峰くじら

バード

片肘は頬杖を突き、もう片方の手に握られた箸は濃い琥珀色のスープの中で僅かに揺れ動いている。そんな姿勢のまま、バードは眠っていた。

普段ちっとも見せない幼な気な表情は、遊び疲れて眠る五歳のガキといった按配だ。

バードの異変に最初に気付いたのは、ふたつ隣の席で自分の注文が出てくるのを待っていた敦実だ。

「……おい!おい、バード!麺が伸びるぞ!」

はじめは小声で言っていたが、埒が明かないと分かったのか、バードのほうに片手をそろそろと伸ばすと、指でトントンと卓を叩き始めた。それで店の全員が気付いた。

清田がブフッと噴き出して、「バードの野郎、ラーメン食いながら寝てやがるぞ」と言った。カウンターの中の調理場に立つイワオはしばらく呆けたようにバードを眺めていたが、ふっと我に返って、清田のほうを睨むと「おい、静かにしろ、馬鹿」と毒づいた。

そして、バードに声をかけることもせず、ただ調理の合間に時折、ちらちらとそちらの様子を窺っていた。


そんな一部始終を一番端の席から眺めていると、「塩セット、あがったぞ」とイワオが心なしか小声で言い、おれの目の前に擂り鉢状のどんぶりを寄越した。

「塩セット」の内実は、透明色のスープを白髪ネギで彩った一杯の塩ラーメンだ。

普通に考えると「セット」ではないわけだが、このネーミングには理由がある。イワオはラーメンの一から十に至るまでを、通信教育で覚えた。このときに、課題として様々な味のラーメンの具材や麺や何かが、ひとつの小袋にまとまった形で定期的に送られてきた。この小袋に、例えば醤油ラーメンを作る具材なら「醤油セット」、豚骨なら「豚骨セット」なんて具合で、ラベルが貼ってある。

ラーメンというものを録に知らなかったイワオは、これを馬鹿正直に商品名に冠して、メニューを作ったわけだ。

イワオは実に奇妙な奴で、例えば出店当初のこの店の看板には「ラーメン」とだけ大書されていた。今の「ラーメンエルフ」という屋号は、さすがに、というので、おれら常連客がつけてやったものだ。

そんなイワオだが、調理場に立っているときには独特な迫力があり、また作るものの味も確かなので、おれたちはあまり口を出すことがない。

「エルフ」はカウンター席だけの小さな店だが、その中の調理場は奴の小さな王国というわけだ。


心なしか音量を絞られたBGMがパーシー・ヒースのソロに差し掛かると、いよいよ空気が張りつめる。

いつもは獲物を解体する肉食獣のように荒々しくテボを振るうイワオだが、今日の調理は静かだ。自分の丼をすするおれたちも、妙な緊張に包まれる。その当の原因と思しいバードは、スウスウと気持ちよさそうに寝息を立てている。

状況を打開しようとしたのは清田だ。

中腰でバードの後ろに回り、脇腹に狙いを定めたようだ。よせ、と言いかけたが、遅かった。清田の両の人差し指が、バードの脇腹に突き刺さる。

バードが、一瞬、ング、と息を止めた。

おれたちはなぜか揃って頭を一段低くして、そのまま数秒が過ぎた。

また、スウスウという寝息が唐突に始まり、マックス・ローチのレガートと奇妙なパルスでもって絡み始める。

カウンターの向こうでイワオが手を止めて、まばたきもせずバードの様子をじっと見ていることに気付いた。


そうこうしているうちに十五時で、「エルフ」のランチ営業は仕舞いということになり、おれたちはソロソロと席を立った。

いよいよバードを起こそうと敦実が提案したが、イワオが「いいよ、しばらく寝かしとけ」と言うので、じゃあということでそのままにしてやった。

店を出るときにバードのほうをちらりと見ると、いつものように馬鹿丁寧に赤いネクタイが丼の脇に畳まれていた。

バードはこんなロードサイドのラーメン屋の常連としては、少し場違いな男だ。スーツ姿で、いつも席に着く前にジャケットを壁際のハンガーに掛けているが、バード以外の人間がそれを使うのを見たことがない。そうしてやけにピシッと糊のきいたシャツ姿になると、細いフレームの眼鏡を外してから、ネクタイを解き、畳んで卓の上に置くというわけだ。

おれたちも最初は「店の雰囲気が分からずに入っちまったんだろうなァ」なんて思って見ていたが、その気持ちのいい食べっぷりにすぐに魅了された。

「形振り構わず」なんて言葉がぴったりだ。「掻き込む」でもいい。

それですぐに奴は「エルフ」に馴染み、「いつものメンツ」に加わった。


店の脇に無造作に置かれたクズ籠のような灰皿の前で煙草を喫っていると、裏口からイワオが出てくるのが見えた。頭の手拭いを解き、そのまま顔の汗を拭ってこちらに向かってくる。

何も言わず、視線だけちらりとこちらにやると、別段うまくもなさそうに煙草を喫い始めた。

「バードは?」

短く訊くと、

「寝てるさ。……いいよ、六時か七時までは開けねえから」

細い筋のような煙を吐き出して、そう答えた。

目の前の幹線道路を大型のトラックが通過していく。

もう九月も半ばになろうってのに、空にはバカでかい入道雲が聳えている。

アスファルトが溜め込む太陽熱が鬱陶しく肌に絡みつく。

ポツポツとガソリンスタンドやコンビニが見えるだけの荒涼とした景色の中を、時折風が過ぎていく。

それが銀色の髪を梳いて揺らすと、イワオは気持ち良さそうに目を細めた。

「言わねえのか。バードに」

おれは出し抜けに訊いてみた。

「……何をだよ」

イワオは機嫌を損なわれたというような低い声で応えたが、構いやしない。

「好きなんだろ」

数秒の沈黙の後、イワオが激しく咳き込む。

膝に手をついて肩を上下させ、荒く息をしていたかと思うと、キッ、と鋭い視線をこちらに向けてきた。

と思った刹那、脛の裏に刺すような痛みが走る。イワオのつま先が絶妙な腰の回転でもって突き立てられていた。

声もなく悶絶するおれに、

「うるせーよ」

とだけ一言いって、イワオはそっぽを向いてしまった。

鋭角に長く伸びたイワオの耳は薄褐色をしているが、それでもはっきりと紅く染まっているのが見てとれる。

実年齢に反してこういうところは見た目通りというか、歳のころ十二、三の少女そのままで、それだけにスパスパとやっている煙草とのちぐはぐさが際立って、奇妙な様相になっていた。


もう二年も前、「エルフ」の店が出来てしばらく、ってころの話だ。

「エルフ」の調理場の中には、衛生管理責任者の表示札が掲げてある。

正式な表記でフルネームを記す必要があるわけだが、おれたちにはダークエルフの文字というものがまるで読めない。ルーン文字から派生したなんて教科書的な知識こそあれ、実際に読むとなるとさっぱりだ。

店の屋号を「ラーメン」から改めるにあたって、ひとつの案として主人の名前ってのはどうだ、という話になった。

あれはなんて読むのか、と敦実が件の表示札を指して訊くと、ルニルイワ・オベルランド、とぼそりと返ってきた。

あ?なんだって?イワ?オペ?と敦実が訊き返す隣で、清田が、イワ・オ…イワ・オ…と繰り返している。

むすっとしていたダークエルフの店主は「イワオでいい」とぶっきらぼうに言い、結局はそれが定着してしまった。


イワオは煙草を喫ったまま押し黙ってしまったので、仕方なくおれも無言でいると、店の戸が開く涼やかな鈴の音が聴こえた。

バードが目を覚ましたのだろう。

「あ」

と短く声を漏らしたイワオが、喫い始めたばかりの煙草をぐしぐしと灰皿に押し付け、小走りにそちらの方へ駆けていく。

角を曲がって店の表側に出る直前、ぴたりと足を止め、手拭いで首の後ろと顔の汗を二度か三度拭った。

それからぱっと一度前掛けの汚れを払うしぐさをして、一歩を踏み出す。

その姿が店の表側に回って見えなくなるのを見送り、おれは最後の煙草を灰皿に擦り付けて消すと、自分のトラックの方へ歩き出した。

駐車場を吹き抜けた風に促されるようにふと「エルフ」のほうを振り返ると、店の向こうに大きく空が広がっている。入道雲はどこに流れていったのか、もしくは散ってしまったのか、濃い青の中を切れ端のような雲がいくつか泳いでいた。

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バード 雲峰くじら @datesan

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