ワイングラス 5
カランコロン
男は予定の時刻より早くよろず屋うろん堂にやってきた。
「おやまぁ、まだお買いになるかをお決めになるにはだいぶお早いようですけれども」
「そうなんだが。このワイングラスで昨日ワインを飲んだらなんだか不思議な気持ちになったんだ」
女店主は何やら男の話には興味がないように店のカウンターの奥で何やら書いている。
「それで、このワイングラス、売ってもらおうかと思って。妻と今晩二人でこのワイングラスで飲みたいんだ」
女店主はそれに答えることなく、書いたものをカウンターの奥でパラパラめくる。
「このワイングラスはいくらだ? 金ならある。いくらでも払う。ぜひ譲って欲しい」
私は、はいきましたとばかりに男の背後に立ち、闇に身を潜める。
「それはペアでおいりだと言うことですか?」
勿体ぶって女店主が聞く。
「そうだ。私はもう一度彼女とやり直したいんだ」
男がそう言うと同時に、私の長い舌が暗闇より待ち構える。
「さようでございますか。ご一緒にグラスを傾けたい女性がいらっしゃると」
―― さすが女店主。そうだ。もっと引き出せ。それを。
「そうだ。妻と、妻と一緒にこのグラスを使いたい」
―― ほらほらもっと。もっと感情を高めさせて。
「でしたら、それは奥様のためにご購入されたいと?」
―― さすが女店主。
「そうなんだ。忘れていた何が大事なのか、思い出せた気がしたんだ!」
―― はいきたこれこれ。
「だから、だから! これを私に売ってくれ!お金ならいくらでも払う!」
この時を待っていた。私は誰にも見えぬよう暗闇から長い赤い舌を出し、ベロンとこの男の感情を食らう。
美味かな。普通の幸せが当たり前だと感謝を忘れて生きてきた怠慢になったその心。長年の蓄積により男のねっとりとした怠慢の味わい。
「さようでございますか。でも、ただいまちょうどなお代をいただきましたので、そのワイングラスはどうぞお持ち帰りいただきまして、ご夫婦でお使いくださいませ」
本日のこってりとした脂の旨みもいただきました。大満足。ペロリと脂ぎった口元を舐めながら、さてさて、次は、デザートといきますか。
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