古びた眼鏡 2

 ガチャリと部屋の鍵を開け、男は自分の部屋に帰ってきた。誰もいない真っ暗な部屋の明かりをつける。玄関の靴箱に鍵を置き、靴を揃え、中に入ると、部屋の真ん中に置かれている机に、惣菜が入ったスーパーの袋をおいた。そして、コートのポケットから先ほどの不思議なよろず屋で1日だけ借りてきた眼鏡ケースを出して机に置く。


 ―― スーパーの袋と一緒じゃダメだな。


 男はふとそう思い、惣菜を袋から出して机に置き、袋は三角にたたんでしまい、暖房をつけた。


 ―― おかしいな、そんな、袋と一緒にこの眼鏡が置いてあってはダメだなんて、なんでそんな事思ったんだろう。でも、ダメだと思ったんだ。そうだ、手も綺麗に洗わなくては。


 そんな事を自分が思うことが自分でも不思議なくらい、何故だか男はこのお試し期間で1日だけ借りてきた眼鏡がうやうやしく思えるのだった。


 男は机にあぐらをかいて座り、眼鏡ケースをそっと触れる。


 ―― 冷たくてすべすべしている。


 ゆっくりと蓋を開け、そろりと優しく細く丸いフレームの眼鏡を取り出す。そして、まるで本当に貴重なものを拝見させてもらうかのように、ゆっくりと、くるりと回しながら眺め、耳にかける部分を慎重に開いてみた。


 ―― なんて華奢なフレーム。少しでも力を入れたらすぐにでも壊れてしまいそうなほどだ。


 男は、おそるおそるメガネをかけてみようとするが、自分が思う以上に自分のようなものがこの眼鏡をかけてはいいものだろうかと考え込み、ゆっくりと閉じて、またメガネケースにしまった。


 ―― 眼鏡をかけた自分を見る鏡をまず用意しなくては。眼鏡をかけて立ち上がって、粗相そそうがあってはメガネに失礼だ。すべてを整えてからしか、この眼鏡には触ってはいけない。


  男は急いで本日の夕食を飲み込み、まるでみそぎでも行うかのように、シャワーを丁寧に浴びた。部屋着に着替え、全ての本日しなくてはいけない事を終了させ、また、机の上の眼鏡ケースに向き合う。


 ―― なんだかおかしいな、今日の僕は。こんなことは今までしたいと思わなかたのに。


 いつもはテレビを見ながら適当に缶チューハイを飲み、割引のスーパーの惣菜かコンビニ弁当を食べ、そのゴミをゴミ箱に無造作に捨てて、形だけに近いくらいのシャワータイムの後、寝るだけの生活だったのにと男は思うのだが、神聖な空気感がなぜか漂うな気がしてならないのである。


 いよいよ全ての準備が整ったのか、男がまたゆっくりと深緑色のメガネケースを開け、華奢で丸い眼鏡を取り出した。


 ―― なんて美しいんだろう。今にも壊れそうな、古い眼鏡だと言うだけなのに。儚い、儚い美しさ。


 男はもう一度禊を終えた体で、おそるおそる眼鏡をそっと開き、自分の顔へかけたのだった。

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