第一作品「鯨は潜って夢を見た」

古びた眼鏡 1

 その男は、今日の仕事の疲れを引きずりながら、いつもの灯を消した商店街を誰もいない自宅に向かい歩いている。


 どうやら今日も思ったように営業先で契約が取れず、こっ酷く年下の上司に叱られたのだ。一人きりの自宅に帰り、そしてまた明日も起きて仕事に行く。その男はそんな毎日に慣れすぎてしまい、そこから抜け出したいとは思うものの勇気がなくそして決心もできず、毎日を過ごしている。

 

 働かねば生きてはいけず、今の仕事を辞めてしまったとしたら、生きていくために次の仕事先を探さなくてはならない。そんなことをするくらいなら、まだ今の現状維持の方がマシだ。


 特に夢もない。


 それでいいんだと言い聞かせながら、その男は今日も誰もいない自宅へと向かう。


 もう四十になろうとしているのに、恋人もいなければ、欲しいとも思わない自分は、男としても枯れてしまったのだろうか。そう思ったのは、いつのことだったか、それさえも思い出せないくらいその男は疲れ果てていた。


 私はそんなその男を可哀想に思った。ただ偶然見かけたその男があまりにも背中を丸め下を向きながらトボトボ歩く姿が不憫に思えてしまったのだ。私の中にちょっとした優しさからくる悪戯心が生まれた。そうだ、あのよろず屋へ導いてやってはどうかと。


 私は、くたびれたスーツで歩くその男に、小石を投げた。


 コロン。


 私のこっそりと転がした小石がその男の足元に転がる。


 ―― ん? どっから小石が?


 思った通り、その男は一瞬立ち止まったが、またすぐに何事もなかったかのように歩き始めた。私はもう一度小石を転がす。


 コロン。


 ―― まただ。おかしなこともあるんだな?


 後ろを振り向くが、小石を転がした私の姿はもちろん見えないので、その男はまたも何事もなかったかのように歩き始めた。これはもう小石ではこの男を『よろず屋うろん堂』に向かわせることはできない。私は自販機の中から缶コーヒーを拝借し、それをその男に投げた。


 「いてっ!」


 小石よりも効果があったみたいだ。くたびれた背中に当たって転がるあったかい缶コーヒーを拾い上げ、周りを見渡すが、すでにどの店もしまってしまっている薄暗い商店街にはひとっこ一人おらず、チカチカと安蛍光灯が通路を照らしてるだけだ。その男は、先ほどの小石よりも不思議がり、首を傾げながら、私が向かわせたい細い通路の方に顔をやった。


 ―― あれ? こんな時間に店がやってる……?


 チャンスだ。今だと私は思い、その細い通路に先ほどの小石を先に進めと言わんばかりに転がす。


 「え……?」


 思った通り、如何わしい面持ちで、その男は細い通路にゆっくりと進む。背中を丸め、不思議な顔をしながら。あともう少しだ。私はもう一度小石をさっきよりもあかりの灯る店の近くに転がす。


 ―― なんなんだ……?


 私の思った通り、その男は『よろず屋うろん堂』の前にたどり着いた。


 「よろず屋…うろん…堂?」


 ぼうっと赤みがかかった店内の光の中に、ごちゃごちゃと様々なものが置いてあるのが見える。男は磨りガラス越しに中を少し覗いて、そして、『よろず屋うろん堂』の扉に手をかけた。


 カランコロン。


 「あらまぁ、こんな時間に。ようこそ『よろず屋うろん堂』へ。ここは、よろずのものを取り揃えてはおりますが、それをあたな様にお売りするかどうかは、こちらで決めさせていただきます。そのあたりご了承いただけましたらば、ぜひお店の中を覗いて行ってやってくださいな」


 店の一番奥に座っている小豆色の着物を着た女性がそう言って男を出迎えた。男は、はぁ、などと言いながら、店内をキョロキョロ見渡す。


 「あのぉ、このお店は何を売ってるんですか? 見たところ、雑貨屋さんのようにも骨董品店のようにも思えるのですが……」


 「ここは、よろず屋ですので、どんなものも置いてございます。でも、そうですね、新しいものというよりは、元々どなたかのモノだった商品の方が多いですので、骨董品店に近いかもしれません。どんなものをお望みでしょうか?」


 女店主に聞かれ、男は躊躇する。欲しいものなんて自分にはないのだと。ただ毎日生きるために働き、自宅に帰るだけの自分にはお望みのものと言われても、思いつくことがないのだと。


 「別に、欲しいものがあってここに来たと言うよりは、こんな時間にやってる店があって、それで覗かしてもらったので」


 「あらまぁ。そうでしたのね。それはどうもありがとうございます。見つけていただいて」


 「いや、でも、すごい種類のものが置いてあって、僕の欲しいものがあるかどうかは分からないのですが、ちょっと見させてもらってもいいですか?」


 男はこのまま誰もいない家に帰っても、風呂に入り、先ほど買った惣菜を一人食べ、寝てしまうだけだと思ったのか、女店主に聞いた。


 「もちろんでございます。ぜひ見て行ってやってくださいな。でも、もし欲しいモノがおありだった時、そのモノをお売りできるかどうかは、こちらで判断させていただくことになりますので、そのあたり、ご了承くださいませ」


 「はぁ」


 男はそう言って、こじんまりとした店内にごちゃごちゃと置かれているモノ達を見始めた。古い電話、柱時計、アンティークな食器、エメラルドのような緑の指輪にかんざし、日本髪のカツラ、市松人形にフランス人形、銀製のナイフやフォークとコーヒーカップ。古本に家具。注意深く狭い通路を歩きながら、それらを見る。どうやら、自分の興味のあるものはここにはないと思ったのか、


 「どうも、遅い時間にありがとうございました」


 と言って、女店主に礼をいい店の外に向かおうとしたが、ふと古い机の上に置かれている眼鏡に目がいった。細く丸いフレームが、どこか懐かしい眼鏡。


 「あら、それがお気になるのでしたら、ぜひ手に取ってやってくださいまし」


 女店主に言われ、眼鏡を手に取ると、男の脳裏にある映像が浮かんだ。売れない物書きだった祖父が、今まさに手に取っているような眼鏡をかけ、幼いその男に話かけている映像だ。


 「おい、武志たけし、学校はどうだ? 楽しいか? 学ぶことは生きることだ。学べば世界が広がる。その自分で広げた世界が、お前がこれから生きる人生をきっと豊かにしてくれる」


 祖父は売れないながらも、いつか必ず物書きとして成功して見せると、自室で小説を書いていた。祖母はそんな祖父を支え、外に働きに出て、男の母親とその弟を立派に育てあげたのだった。


 幼い頃、働きもせず何にもならないものを書いて書いて書いていた祖父が、男は嫌いだった。何が生きることだ、仕事もせずに女に食わしてもらって生きているくせにと男は思いながら祖父と暮らしていた。そんな男の父親もまた、働きもせず、夢とやらを追いかけ、いつしか何処かに行ってしまったのであった。


 「どうやらそれは、あなた様のところへ行きたいようです。どうです? お代は本日は結構ですので、そちらの眼鏡、一度持ち帰ってみては」


 女店主が店の奥のカウンターから男に声をかけた。男は少し考えたが、やはりやめておきますと女店主に伝えた。


 「さようでございますか、残念でございます。そちらの眼鏡、あなた様のところへ行きたいように思いましたのに。そちらの眼鏡はとある小説家の方がお使いいただいていたようで、年季の入ったとても良い状態のものでございます」


 小説家というフレーズに、先ほど脳裏によぎった祖父のことが何か引っ掛かったのか、男は女店主に聞いた。


 「小説家の方のものだったんですか。そうですか、それはとても高価なものなんでしょうね?」


 「高価かどうか、それはあなた様がそれをお使いになってみて初めて決まることでございます」


 「どういう意味ですか? それは?」


 「ですから、そのモノが、あなた様をお選びになったのならば、その価値はあなた様にしか分からないということです。ですから、まずはお使いになってみてから、それからのお代でよろしいと申し上げております」


 「はぁ」


 女店主の説明に理解できないというような表情をした男は、財布の中身を思い出し、今すぐお金がいらないお試し期間をいただけるのであれば、一度持って帰ってみてもいいかと思い直した。


 「では、あの、これ、一日、持って帰ってみていいですか?」


 「もちろんでございます。明日、同じような時間にお越しいただいて、お買いになるかどうかは、その時に教えていただければと」


 女店主は丁寧に深緑色の眼鏡ケースにそれをしまい、男に渡した。


 「それでは明日、必ずまたここに来ますので」


 男はそう言い、店を出た。どこか懐かしく、重苦しい感情の記憶の中で見た眼鏡を持って。

 


 

 

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