第182話

 陸雄が勉強を始めるやや前の時間―――。

 一階建ての坂崎の家では、一つの部屋だけ明かりが灯っていた。


「海里? ご飯出来たわよ? ここに置いとくからね」


 坂崎の実家で母親が二階に上がり―――明かりがついている息子の部屋に遅めの夕食を置く。


「う、うん―――あ、ありがとう。お、お母さんこれから仕事?」


 坂崎が勉強机から離れて、小さな食卓机に置かれた夕食の前に一人で座る。。


「そうよ。まだ帰ってないお父さんの部屋に夜食置いたら、いつもの夜勤のバイトがあるから―――帰るのは朝方よ」


「わ、わかった。お、父さん今日も残業なの?」


「不景気なんだから当たり前でしょ? あんたも大学上がったら、家計の為にバイトするのよ」


「…………」


 坂崎は黙って、夕食を食べる。

 立ち尽くした母親が腕を組んで、坂崎をジッと見る。


「……な、何? ご、ご飯食べてる時くらい静かにさせてよ」


「……あんた、野球楽しいの?」


 突然の母の質問に坂崎は箸を止める。

 見上げる母親の表情は無表情で気味が悪かった。

 坂崎は陸雄達との練習光景や今までの試合を思い浮かべる。

 そこには笑っている自分―――そして一年達の野球部のメンバーが脳裏にフィルムのように焼き付いていた。

 坂崎はそれを思い浮かべて、少しだけ笑顔になる。


「う、うん―――み、みんなと一緒に練習して―――試合して、一緒に笑ってそれが凄く楽しい。い、今まで僕にはあんなこと無かった。や、優しかった。あ、暖かった! よ、よそよそしい関係なんかじゃなかったよ」


 坂崎の瞳がイキイキっと輝いていた。

 母親が見下すように嫌悪の表情を浮かべる。


「気持ち悪いわね。何夢見てるか知らないけど、所詮世間を知らない子供の友情ごっこよ」


「そ、そんなことないよ」


「ただの運動部活でしょ? 頭を一切使わない人たちの馬鹿な遊びよ。まったくお父さんも何を狂ったか―――部活動なんて……」


「ち、違うよ! そ、そんなスポーツをやってもいないのに偏見の目で見ないでよ! そ、それに世間って何だよっ! ぼ、僕が大人になったら変わってるかもしれないじゃないか!?」


 声を荒げながら坂崎が箸を置いて、立ち上がる。


「お父さんが仕方なく頷いたから入部させたのよ。部費と下らない上に高いだけの野球道具代を出して上げたんだから、しっかり現役で国立大学合格するのよ」


「お、おかしいよ! ぼ、僕はまだ高校一年だよ!? な、なんでそんなことにしか目が行かないの? お、大人が全部が全部そういう風に見えて、世の中の全てが気持ち悪いよ!」


 坂崎が顏に汗を流しながら、ハァハァっと肩で息をする。


「勝手に思っておけば? アンタなんかを生んでくれたあたしと―――将来の為に残業までして働いてくれてるお父さんに対して、恩をアダで返すんじゃないわよ?」


「ど、どうしてそういう言い方しか出来ないんだよ! な、なんで僕の進路に口出しするんだよ!? お、親だからって言って、良い事と悪いことがあるよ! ぼ、僕の大切な友達を侮辱するなよ!」


 坂崎が肩で息をしながら、声を荒げる。

 目には涙が浮かんでいた。


「あんたの中学からの成績とその頭じゃ、必死になってやっと世間様から認められたそこそこの大学しか行けないんだから―――遊びに熱を入れないように釘を刺して上げてるのよ」


「ひ、久しぶりに話したと思ったら―――そんな事ばかりで! い、いつもいつも……何が楽しくって生きてんだよ!」


 坂崎が泣き声混じりに叫ぶ。

 隣の犬の声がワンワンッと吠える声が壁越しに聞こえる。


「アンタごときがあたしにそこまで言う権利はないわ。それ以上言うなら学費を止めて、働かせて四十代の頃に経済難で自殺させても良いのよ? 解ったら親の言うことは聞きなさい。そろそろ夜勤だから家出るわよ」


「ひ、卑怯だよ! に、人間のすることじゃない!」


「国立大学進学するんだから、浪人したあんたの兄みたいなゴミになるんじゃないわよ。あんた以上に叫び散らすから家を追い出したけど、今頃どっか死んでいるでしょうね」


 そう言って、母親がドアの前まで移動していく。


「や、やめてよ! に、兄ちゃんに―――そ、そんな言い方無いだろ!? に、兄さんが高校の頃は優しかったじゃないか? ど、どうしてそんな言い方するんだよぉ!」


 坂崎が声を荒げて、次第に声色が枯れていく。


「まぁ、犯罪を起こす度胸も無い男だから、自殺でもしてるんでしょうけど……あんたもそうなりたくなければ、解るわね」


 母はそう言って、ドアを静かに閉めていく。


「うっ、ううっ……ひっく……」


 坂崎が泣きながら、パソコンを付けて現実逃避する。

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