(9)

「免許証、出してください」


 さながらネズミ捕りの警官のごとく――いや、それよりももっと冷徹で無愛想な声で、エルドレッドはエレベーターホールにうずくまっている男に言う。


「はあ? なん――」


 額に脂汗をかいていた男は突然現れたエルドレッドの無礼とも言える態度に、行き場のない怒りをぶつけようとでもしたのだろうか。いら立った声と共に、エルドレッドをねめつけるように見上げた。


 しかしそのコメカミにエルドレッドの革靴の先が刺さる。


 男は形容しがたい声を上げてエレベーターホールの床に倒れ込んだ。


「あ? ……気絶したか」


 そうした張本人だというのに、エルドレッドは面倒くさいとばかりにひとつ舌打ちをする。


 そのまま膝を折って、昏倒した男のスーツの襟をつかむや、勝手に内ポケットを探り始める。


 すぐに財布を見つけたらしく、そこから取り出した運転免許証を確認すると、倒れた男の体の上にそれを置いてスマートフォンのカメラレンズを向けた。


 あまりにそつのない動きだったので、どこかやり慣れている感は隠しきれず、その事実にガブリエルは密かに震える。


「――おい! いつまでそこに隠れているんですか? 帰りますよ」


 そこにエルドレッドの声がかかる。柱の陰に完全に隠れていたのに、ガブリエルの存在はエルドレッドにはハナからお見通しであったようだ。「どうあがいてもカタギじゃないな」とガブリエルは心の中でひとりごちる。


 ガブリエルはこのままここにとどまっている理由もなかったので、大人しく柱の陰からすごすごと出て行く。そんなガブリエルを見て、エルドレッドがかすかに目を見開いたのがわかった。


 エルドレッドの目がじろじろと、ガブリエルの頭のてっぺんからパンプスの先まで見ているのが、わかる。


 ガブリエルがこうやって着飾っているのは珍しいことだ。エルドレッドはガブリエルの幼馴染とは言え、親しくしていたのは子供のころの話なので、なお物珍しく映るのかもしれない。


 ガブリエルはエルドレッドの嫌味な言葉を――勝手に――予想し、身構えた。どうせ「似合ってない」とか「服に着られてる」とか、そういうことを言うのだろうとガブリエルは思った。


「似合ってない」とか「服に着られてる」ということくらい、ガブリエルは百も承知。まだそこらへんの道行く二〇代女性を捕まえたほうが、ガブリエルの倍は見栄えがマシだということは、わかりきっていることだ。


「……なに百面相しているんです? 帰りますよ」


 しかしガブリエルの予想に反して、エルドレッドはなにも言わなかった。それはそれで居心地が悪いと感じてしまうのは、身勝手だが仕方がない。けなすも褒めるもない無関心は、それはそれで堪えるものだ。


 だがここでもたつけば、次こそは確実にエルドレッドから嫌味が飛んでくるだろう。ガブリエルは足早にエルドレッドが待つエレベーターの箱に乗り込んだ。


「ジョンに言われてきたの?」

「『回収して家まで送って行ってやれ』と言われたんですよ、ギャビーちゃん」

「ああ、そう……」


 いつもの嫌味な「ギャビーちゃん」呼びにも、今は咎め立てるだけの気力はガブリエルにはない。


「なにがあったんですか?」

「……私のセンパイがデートしていた男がタチの悪いヤツだったみたいで。そこをジョンが助けた。それだけ」

「へえ」


 そこでエレベーターがエントランスホールのある階に着いたので、ふたりのあいだから会話が消える。


「車を回してきますので、そこで“大人しく”待っていてください」


 妙に「大人しく」の部分を強調されたので、ガブリエルは「はいはい」と投げやりな返事をする。そのせいか、エルドレッドがじっとこちらを見つめてくる。


「わかってるってば」


 今日はもう本当に色々なことがあってガブリエルは疲れ切っていた。もう一歩も歩きたくない気分で、エルドレッドの相手をする気力は残っていない。


 エルドレッドはそれを知ってか知らずか、じっとガブリエルを見つめていたかと思うと、するりと身をひるがえして駐車場の方向へとようやく歩いて行った。


 その背を見送ってガブリエルは深いため息をついた。


 それから、持て余した待ち時間でなぜエルドレッドがここに現れたのか考える。


 エルドレッドの言う通り、ジョンが彼を呼んだからホテルまで来たのだろうが、それにしては早すぎる。エルドレッドが立ち寄るどの事務所からも、このホテルまではかなり距離がある。


 ということはジョンがあらかじめエルドレッドに命令して、ガブリエルたちを尾行つけさせていたのだろう。そのガブリエルとジョンはヴェラたちを追っていた……。


 ――なんだこの馬鹿みたいな状況。


 ガブリエルは心の中で吐き捨てるように言うと、また深いため息をつく。


 エルドレッドの到着が早かった事実に納得はいったものの、それ以外はなんだか腑に落ちない気分だ。


 ガブリエルが三度みたびため息をついたところで、ロータリーに見慣れた車が入ってくる。運転席にはエルドレッドがいた。




「いいんですか?」

「――へ? なにが?」


 後部座席に腰を落ち着けシートベルトを締めたところでゆっくりと車が動き出した。


 エルドレッドと車内でふたりきりになるのは、そう珍しいことでもなかったが、今日の彼はどこか様子がおかしいということにガブリエルは今さらながら気づく。


 ガブリエルの間抜けな声が気に障ったのか、エルドレッドがあからさまな舌打ちをした。


「……ギャビーちゃんはあ、先輩とやらに男を盗られて平気なんですかあ?」


 そしてエルドレッドの口から飛び出すのは嫌味満点のセリフ。


 しかし一瞬、ガブリエルはなにを言われているのか理解できなかった。


 再三言うが、今のガブリエルは疲れ切っている。それも手伝い、ジョンの部下たちに蔓延している甚だしい誤解を思い出すのに時間がかかった。


 そうだ、「ガブリエルはジョンの女」だというひどい誤解があったのだった。


 ゆえにエルドレッドは「テメーの男を横から搔っ攫われて平気なのか」と問うたのだとガブリエルはようやく理解する。


 四度言うが、ガブリエルは疲れていた。


 疲れていたので今日の一連の出来事も、蔓延している誤解も、なんだかすべて馬鹿馬鹿しく思えてきた。


「ジョンとはそういうのじゃないから!」


 ガブリエルはやけっぱちになって暴露した。

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