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『もしかして近くに住んでませんか?』
トーストを食した後に見た、新しいチャットのメッセージによって、黒い雲が不穏に広がりつつある日にわざわざ外に出る羽目になった。ネットで交わした約束事など無視をしても良かったのかもしれないが、危なければ逃げればいいだけだ。言い訳をして、駅構内にあるオブジェを指定した。
待ち合わせ場所で目についたのは少年だった。青いシャツに黄色い半ズボン。ほかの人はいることにはいるが、一人で待っているのは彼だけだ。危険はない。むしろ僕の方が怖がられないかと心配になる。
「イーグルくん?」
チャット相手のアカウント名に、少年は顔を上げた。鵜飼のオンラインの友達は、丁寧に頭を下げてあいさつをしてくれた。
「フレンドになったらアカウントの情報も見れるんです。そこでシュウさんのSNSアカウントも知りました」
アパートに向かいながら、空白を埋めるようにイーグルくんに鵜飼と知り合った経緯を聞いた。
「どうしてこの街にいるってわかったの?」
「コンビニのことを投稿して書いていたからですよ。ニュースにもなっていない小さな事故でしたので」
合点は案外すぐについた。先日入口を破壊されたコンビニが、意外なところで人と人を結びつけたらしい。
アパートの前で少し気を落ち着かせた。あの日のチャットのことも、今日のことも、鵜飼には伝えてある。鵜飼もまた、イーグルくんに会いたがっていたが、当然彼の正体は知らない。
勢いを若干つけて部屋に入る。鵜飼を呼んだ。
「イーグルです」
持ち前の丁寧さで、イーグルくんは頭を下げた。いつもより髪を撫でつけてある鵜飼は、距離を保ったまま呆然としていた。
「……はじめまして。えっと、ご自由にどうぞ」
「それはさすがに僕が言うよ」
靴を脱いで、素足のまま床に立ち、イーグルくんにだけスリッパを差し出した。来客用に買ったスリッパの初舞台だった。
鵜飼は相変わらずゲームをしていた。今日プレイしているのは、オンラインを利用しない、一人用の探索ゲームだ。たった一人の探索者が薄暗い城内を進んでいる。これもまた難易度が高く、取り組む気力を失っていたのを鵜飼が拾い上げてくれたのだった。部屋には網戸からの涼しい風が入ってきている。扇風機も全開だから、ひたすらに換気が行き届いていた。一人きりでは持て余し気味だった部屋も、三人となると、たとえ一人が子どもだとしても密度が高い。イーグル君をソファに座らせて、僕と鵜飼は座布団ですませた。
「まずはシュウさんの気分を害してしまったことを謝りたいです」
雑談もなく、いきなりイーグルくんは本題に入った。これが普段の言葉遣いなのだろうか。淀みのない、流れるような物言いだった。
「いや、俺のほうこそ大人げなかったよ、ごめん」
鵜飼は物腰柔らかだった。さすがにゲームをしているときのように、むやみに突っ込もうとはしていない。
「えっと、これで用件は終わりかな」
鵜飼が僕に目を合わせてくる。僕に聞かれても答えられるものじゃない。イーグルくんの反応を待った。
「いえ、まだです」
イーグルくんが首を横に振る。
「謝りはしましたけど、やっぱり、もったいないと思うんです。倒すためのゲームなのに、倒されてたらつまんないですよ」
雨の降りだす音がする。窓に打ち付ける雫の音がはじまる。空には太陽の名残があるのに、また梅雨が始まろうとしていた。
「俺、上手くないからなあ」
そういって鵜飼は頭をかいた。
「イーグルくん、まだ時間ある?」
会話の途切れを見計らって僕から声をかけた。
「大丈夫です。今日は図書館にいることにしてますから」
「俺に会うって言ってないの?」
鵜飼が横から口をはさんだ。
「さすがに大人に会うって言うと心配されますから。余計な手間です」
言葉の端々に小さな棘があった。真面目そうな顔が少し崩れて、思わず鼻で笑ってしまった。聞かれなかったようでホッとする。
「甘いのは好き?」
「はい」
「よしよし」
キッチンに向かう間に、鵜飼が「やる?」とイーグルくんに話しかけた。振り向けば、イーグルくんがコントローラーを受け取っていた。突っ立ったままでいた、探索者の冒険が再開される。
冷やした生地が解凍しきる前に、ボウルに卵白を入れて泡立て器を押し込む。散々見返した解説動画を頼りにかき混ぜると、どうにか白く泡立った。メレンゲを温まった生地に流し込みさらに混ぜ合わせる。見た目に大きな変化はないが、仕込みはこれで十分だ。
「やっぱイーグルくん上手いな」
鵜飼の声が拍手に混じって聞こえてくる。
「逃げるのに必死なだけですよ」
操作しながららしく、言葉はとぎれとぎれだが、イーグルくんの声も楽しげだ。なんとなく、安心してしまう。
耐熱カップに流した生地はとろりととろけていた。柔らかくなったところで、オーブンの中に入れる。元々生地は大目に作ってあった。三人分に分けるのも容易だ。過熱し始めたのを見送って、居間に戻ると、イーグルくんは腰を据えて、それを鵜飼が横から見守っていた。画面の中では探索者が暗いダンジョンを進んでいる。見えない角度から飛び込んでくる敵を、イーグルくんがかわして逆に切りつけていた。赤いエフェクトと敵の四散する音。暗い道を探索者は歩んでいく。
「よく見てるな」
もう大きな快哉ではなかった。鵜飼は淡々と評価する。それでいて目は見開かれて、口を片手で覆っている。節の目立つ大きな手は、イーグルくんと比べたら年季が入っている。僕も鵜飼も二十代の半ばに差し掛かろうとしていた。
「コツがあるの?」
僕が尋ねると、イーグルくんは「ひとつだけ」と答えた。
「敵は絶対に僕を攻撃してくるんです。それは、どんなゲームでも同じですよ。だから相手に集中するんです。避けるだけでいい。避けてから考えれば、必ず次の手につながるんです」
解説するイーグルくんは、プレイの手を休めない。鵜飼は片膝を抱えたままだが、聞こえていることは頷き方からもわかった。
「どうして死にたがるんですか、か」
鵜飼がつぶやいていた。イーグルくんは無言で頷いた。
「これはゲームだけど、どんな生き物でも同じですよ」
イーグルくんは話を続けた。
「無防備に突っ込んだら、ゲームの中だってただじゃすまない。現実だったら思うがままにされる。僕はそんなの嫌なんです。見ているのも嫌で、歯がゆいんですよ。僕が昔そうだったから」
言葉尻が強くなり、ゲームの中でのキャラクターが大技を敵に叩きこんでいる。回転しながらの斬撃が、狼の形をしたモンスターを切り伏せていた。いつもよりもBGMが激しいのは、相手が強敵だからだろう。攻撃のヒットの度に光が瞬く。隙をついた攻撃は、まだ止みそうにない。
「今は違うの?」
鵜飼が尋ねる。
「違くなりたいですね」
画面の中の戦いが、トドメの一撃で終局を迎えた。鵜飼は顎から手を放していた。口はもう結ばれている。こけていた頬はいつしか元に戻っていた。
「二人とも、飲み物はコーヒーでいいか?」
「お願いします」とイーグルくん。
「俺も」
二人とも視線を僕に向けない。僕は無言でキッチンに移った。オーブンの終わりを告げる音と、ファンファーレが重なる。完成だ。大きな安堵と充足が胸を満たす。歓声と拍手を送りあう血の気の多い男たちへ、出来立てのスフレを届けてあげた。
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