公務員として稼いだ貯金も、入学金と授業料を払い切るので精一杯だった。大学が紹介してくれた低廉のアパートに入ってからアルバイトを探し、知り合ったばかりの友人たちを頼りに、アパートからそう遠くない駅前の洋食屋を尋ねた。一度働いていてから大学に入ったと面談の場で打ち明けると結構話が弾み、紹介する人が辞めたところに僕が収まる形になった。ウェイターだ。ピーク時の混雑と怒鳴りのような掛け声の応酬は、窓口にはなかった新鮮さがあった。面食らったのも最初だけで、同僚たちの雰囲気も良かった。料理への興味も湧きつつ、効率的に確実に仕事を回す手法を考え、実践し、漸進する達成感を味わっていた矢先に件の感染症が流行りだした。

 そんな洋食屋の店長と、夏物家電の冷風が飛び交う家電量販店で再会した。そのときは僕一人しかいなかった。鵜飼はどうせ暇なはずだが、家電を見るたびに蕁麻疹が起こるといってきかなかったのだ。

「水原も料理をするようになったか」

 店長は目を細めた。シェフ帽もエプロンもない店長は日曜大工を楽しむような壮年期を少し過ぎたどこかのお父さんみたいだった。

「急なことになって申し訳なかったな」

「いやいや、店長のせいじゃないですし」

 昨年から始まった緊急事態宣言は、手を変え品を変え断続的に続いている。始まった当初、強面の店長がいくら憤っても今まで通りの営業は難しく、調理師免許のある人だけが残ってテイクアウトを始めた。配達は店長夫婦がすることになった。どうにかこうにかつないだ売り上げが、僕を含めた残りの従業員の最後の賃金に代わった。文句を言う人は誰もいなかったと思う。店長夫婦以外とは会わずじまいだから、ただの予想だけど。

「今は時間を短くして営業しているんだ」

 そういいながら、店長はコーヒーメーカーを手に取った。酒類の提供はできないから、その代わりの飲み物がいる。それで古びたものを使っていたが、ものの見事に故障して新規購入に踏み切ったらしい。

 店長は自分の経歴を語らなかったが、高級ホテルの厨房を経験していると専らの噂だった。刈り揃えた頭と黒いサングラスの似合う顔つきで全くむらのないふわふわのオムライスの生地を焼く。その上にチキンライスを載せて、フライパンを振っているうちにすっぽり包まれたオムライスが出来上がる。特製のソースとパセリを添えて、僕たちウェイターの手に渡っていたあの温かさはお店の中でしか出せないものだ。それでも時短とはいえ再開してくれるのは嬉しかった。

「落ち着いたらまた声をかけてもいいか?」

 別れ際に店長が言った。

「就職前ならたぶん平気です」

「就活は来年?」

「そうですね。三月。ああでも、冬ごろから準備しなきゃかな」

 本当の開始時期と、自分か開始すべき時期を、即興で見積もっているうちに声が尻すぼみになる。

「いつでもいい。経験者がいてくれると、それだけで助かるから」

 恐れ多いことを言う。コーヒーメーカーの吟味は終わったらしく、店長はひとつを抱え持った。

「何を作るんだ?」

 僕のカートに載っているオーブンに、店長の視線が注がれる。

「スフレを作りたくなりまして」

 店長は顎に指を当てて、眉にしわを当ててうなった。視線はオーブンに向いているとはいえ、こちらとしても緊張する。最終的には「これなら大丈夫」だと言ってもらえた。何がなのかはわからないが、多分大丈夫なのだろう。

「ケーキは自分で作る方がおいしいからな。難しいが」

「店長も作るんですか?」

「前は娘と一緒にな。今は滅多に会えんが」

 娘がいるという話はバイトにいる間も何度も聞いた。一年間、一度も会うことはなかった。今はもう旦那さんがいて、東北のどこかで暮らしている。自分の経歴と同様に県名までぼかしていて、誰にも探れなかった。営業が終わると店長は少しだけワインを飲む。酔ってほんのり上気した顔で、訥々と断片的な身の上を話してくれた。雑談の中の一幕だ。聞き流していたあの話を今になってじっくりきいてみたくなったが、雑談しませんかともちかけるのも奇妙だった。

「いったいどれだけ殺すんだかね」

 物騒な店長の言い方が耳に刺さる。何かと思えば、大型の有機ELテレビに映るニュースに向けてだった。感染者のグラフはここ数日仰角を増している。減ることのあり得ない右肩上がりのグラフ。ひとりひとりが数ミリに圧縮され、折れ線を導き出している。

「今からテイクアウト買えますか?」

「今日は閉めたよ。だから俺がここにいるんだろ」

 くつくつと店長が笑った。

「だが早めに来いよ。いつたたんじまうかもわからないんだから」

 やめる少し前にも店長は似たようなことを言っていた。お店を閉めざるをえなくなり、僕らに暇を出した頃、ニュースではどこかの飲食店の店長が生活苦で自殺を図ったニュースがテレビに流れているのを見て、店長は苦笑いをしていた。死は案外すぐそばにある。笑い事じゃないと僕の方から言うことはできなかった。本当に笑っているわけじゃないんだから。

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