愛さずにはいられない。
紅色吐息(べにいろといき)
喪失
何処か遠くに行きたいと思った。
消え去るように旅立ちたかった。
誰も私を知らない街へ行きたかった。
人と会話するエネルギーがなく、私に対する気遣いや優しさが鬱陶しかった。
まるで強迫観念の様に、遠くへ行きたい、という思いが、頭の中をぐるぐる回った。
誰も私を知らない街に行こう、、
そう思って私は友人の車屋に電話した。そして車中泊の出来る中古車を探すように頼んだ。
長い付き合いのある彼は、私のことを心配してくれていて、彼の車中泊用に改造したバネットバンを私に譲ってくれると言う。そして直ぐに名義変更の手続きをしてくれたのだった。
彼は「この車はお前にやるんだから代金はいらないよ。」言った。
「有難いがただでは貰えない、代金は払うよ」と私が言うと、それはお前が元気になって帰って来てからだと言い、早く帰って来いよと私を励ました。
私は元気になってこの街に帰って来る事ができるだろうか。それに、その事を私が望んでいるのだろうか。私は暗雲垂れこめる暗い世界に旅立つような、不安な気持ちで旅に出たのだった。
私は本州を離れようと舞鶴からフェリーに乗った。新日本海フェリーの小樽行きだ。
フェリーは舞鶴を23時50分出発し翌日の20時45分に小樽に到着する。20時間もの長い船旅だ。このフェリーの旅で、気持ちの整理を付けたかった。
夜中に出航したフェリーは暗い海を力強く北に進んだ。真っ暗な海は冷たく不気味に渦巻いている。本州を離れ 北海道に渡れば少しは気持ちが楽になるのだろうか。私は、暗い海を ただぼんやりと眺めていた。
やがて夜が開けると視界が開けてきた。海は想像より遥かに広く進行方向の空は晴れていた。
冬の日本海を2万トンの大型フェリーは力強く波を蹴散らして北に進む。まるで私の不安を蹴散らかすかのように。
私は自分のことを強い人間だと思っていた。
固い意思を持つ冷静な男だと自負していた。
実際父が亡くなった時も、母が亡くなった時も泣いたり涙を流すことは無かった。
人は誰もいつかは死ぬのだ。私自身もいつかは死ぬ。人の死は珍しい事では無い。私はいつ死んでもいいように覚悟を持って生きている、そう思っていた。
今年の4月の終わり頃、妻が体の異常を訴えた。妻は喘息がありコロナの心配から緊急入院となったのだ。それから3日後、僅か3日で妻は逝った。あっという間の事で、私は何も出来なかった。心の準備もできず、なんの覚悟も出来てなかった。
妻とは約束があった。どちらが先に亡くなるとしても「あなたと暮らせて幸せだったよ。」と、最後には必ずそう言おうと約束していたのだ。せめてその約束だけは果たしたかった。それなのに私は妻の最後を看取る事すら出来なかったのだ。
私は妻の死という現実を受け止める余裕も無く、葬儀社に言われるままにバタバタと葬儀の準備をし、身内だけの葬儀を済ませた。現実感がまるで無く、ドラマの中で喪主の役を演じているような、実感の無い葬儀だった。そして葬儀の全てが終わり、身内の者や子供も帰り私自身も自宅帰ることにした。
自宅に帰りやっと落ち着いて居間のソファーに座った。壁には妻の写真が飾ってあり、いつもの優しい笑顔で私を見ている。いま起きている事は現実の事なんだろうか。妻がもう居ないなんて本当の事なんだろうか。私には現実感が無く、呼べば妻が現われそうな気がしてならなかった。
気持を落ち着けようとテレビを付けてみたが、バラエティはさすがに見る気にならずチャンネルを変えた。NHKで何かのニュースをやっていたが、テレビには集中出来なかった。朝から何も食べてなかったのに気が付き、冷蔵庫を開けたのだが、何を見ても食欲がわかなかい。ビールでも飲もうと栓を開けたのだが、ひと口飲んだとたん急に気持ちが悪くなった。そして吐気をもよおしてトイレに走った。
私は便器の前に膝をついて便器に手をついた。
その時 だった「あなた 大丈夫?」と耳元で声した。「ほんとうに大丈なの?」と妻の優しい声がしのだ。そんなはずは無い、空耳だ。頭の中で妻の声がしたのだ。
「大丈夫だよ、ただの貧血だから、、」と声に出して私は頭の中の声に返事をした。その途端どっと目から涙が溢れ、ポタポタと便器の水面に落ちた。
妻は居ないのだ、彼女は私を置いて去ってしまったのだ。別れの言葉すら残さず行ってしまった。LINEをしても、スマホで呼んでも妻は応答しない。もう妻に繋がる方法は無い、死ぬとはそういう事なのだ。そう思うと私は悲しみに押し潰されそうになった。涙が止めどなく溢れ、私は立ち上がる事が出来なかった。
それから数日経ったが、私は気持を立て直す事が出来ず、喪失感は収まるどころか日々酷くなっていった。毎日妻のことを思い出して涙を流した。涙を流す事しか妻にしてやれない。そう思うと又涙が溢れた。そうして私は段々無気力になり、まるで鬱病 のような状態になったしまったのだった。
旅に出るしか無かった。私の喪失感が治まるまで、私の心が立ち直るまでこの町を離れようと、そう思った。
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