「29」名も知らぬ君
気が付いたら講堂に居た。
大学のちょっと広めの教室である。
貴美子は──五十嵐はどうなったのであろうか。
あの状況で逆転されることはまずないだろうが──不安になったが、最後を見届けることが叶わないことは既に経験から分かっていた。
俺はまた別の時間軸へと退行してしまったのだ。
いつまでも思いを馳せている有余など、俺にはないのだ。こうしている間にも、状況が変化してしまっている可能性もある。
現状把握が最優先だ。
気持ちを切り替え、先ずは定石通りに辺りを見回すことにする。
教授らしき鼻髭の男性がマイク片手に講義を行っていた。チョークに何やら書き記していた。
ここは──?
俺以外にも、椅子に座った若々しい男女の姿がある。
皆、教授らしき男の講演を熱心に聞いてノートに板書を書き写していた。
どこだ、ここは──?
キョロキョロと講堂内を見回しながら、テーブルの上に置いてあるテキストに目を向けた。
何やら難しい専門用語が沢山書かれていて見るだけで頭が痛くなる。
大学の講堂──講義を受けている俺は大学生ということであろうか。
これまで自分の過去というものに触れてこなかったので、俺にもそんな時代があったのか──と、感慨深いものがあった。
『……それじゃあ、各自レポートの提出を頼む』
教授が早口にそう言ってまとめに入る。
どうやら終業の時刻になったらしい。学生たちはざわざわと帰り支度を始めていた。
「ねぇ、太蔵くん……」
──太蔵?
俺の名前だ。
講義が終わり学生たちが席を立つ中、俺は後ろから呼び掛けられた。
振り向くと髪をツインテールに結んだ女性が、毛先を指でクルクルと巻きながら前屈みになっていた。
貴美子ではない。
──誰だ、この女性は──?
初めて見る顔だった。
それでも、女性はずいぶんと親しげに、俺に話し掛けてきた。
彼女の顔をこれまで一度たりとも見たことはない。
それなりに親しい間柄ならこの先の未来にも登場してきそうなものだが──これまで一度たりとも見たことのない顔であった。
俺はパッと出のこの女性を警戒した。また何か良からぬことに巻き込まれるかもしれない。
「なによ、そんな顔をして。この間のこと、まだ気にしているの?」
俺が怖い顔をしていると、女性は困ったような顔になる。
──この間のこと?
心当たりのない俺が首を傾げていると、女性はハァと溜め息を吐いた。
「だから……その件は、こっちも言い過ぎちゃったなって謝ったじゃない。また今度行く機会もあるでしょうから気にしないでよ」
気にしないでと言われても──女性が何に対して弁明しているのか俺には分からなかった。
「ごめん、本当に思い当たらないんだ……」
素直にそう答えてやると、女性は驚いたように目を瞬いた。
「思い当たらないって、どういうことよ……」
俺が怒って、白を切っているとでも思ったらしい。
女性は肩を竦め、困ったように息を吐く。
そして──。
「んー。なんか、様子がおかしいな……」
女性は何かを察したらしく、ジーッと俺の顔を見詰めてきた。
「まさか、記憶喪失だなんて言わないわよね?」
「うーん……。まぁ、それに近いかもしれないね……」
「冗談にしては笑えないわ。私を怒らせるつもりならば大正解だけれど……」
「いや、そんなつもりはないんだ。ただ、本当に今がいつでここが何処なのかも分かってなくて……」
気付けば、俺は素直に女性に打ち明けていた。
おかしなことを口にしているのは百も承知だが、それが事実であるのだから仕方ない。
「何を言ってるのよ? もしかして、太蔵くん……」
グイッと女性が僕に顔を近付けてくる。
女性との距離が一気に縮まって、照れ臭くなった俺は目を逸した。
「タイムスリップでもしてきたの?」
ドキリとするようなことを口にしてきた。タイムスリップとは言い得て妙である。
「あ、あぁ……」と頷いた俺の返事は、女性の笑い声によってかき消されてしまう。
「まさか! そんなわけがないわよね! 太蔵くんは太蔵くんだもんね!」
ケラケラと女性が手を叩いて笑うので、俺は何と答えを返したら良いものかと考え倦ねた。
一頻り笑った女性は俺が黙っているのを見て、落ち着きを取り戻したようだ。
「はは、ごめんごめん。一人で盛り上がっちゃって! だって太蔵がおかしなことを言うんですもの」
女性は吹き出しそうになり笑いを我慢していた。
そこまで面白い話ではないと思うのだが──。
「それじゃあさぁ……自分の名前はわかる?」
「太蔵……」
「うん、そうそう。太蔵くん」
俺が答えると女性は頷いた。
これまで散々答えを口にしているのだから流石に分からないわけがないだろう。女性の質問の程度の低さに俺は呆れてしまった。
「それじゃあ、私が誰かは?」
──考えるまでもなかった。
「いや。申し訳ない……」
失礼ながら、俺には女性の名前は分からなかった。ここまで俺に親しく話し掛けてくるのだから親しい仲であることは分かるのだが──。
それに関するヒントは一切、出て来ていない。
女性は何だか悲しそうに溜め息を吐いた。
「酷いなぁ……」
表情に影が差し、かなり落胆してしまったようだ。
次いで、とんでもないことを口にしてきた。
「自分の彼女のことまで忘れちゃうだなんて……。次のデートの約束まで忘れるなんて酷いわよ」
「なんだって!?」
──女性の言葉に、自身の耳を疑ってしまった。
思わず声を上げてしまい、まだ講堂に残っていた学生たちから冷ややかな目を向けられてしまう。
「か、彼女……?」
「本当に酷いわ……愛おしい人のことを忘れてしまうんですもの……」
「ご、ごめん!」
女性が両手を目元に当て、シクシクと悲しむ仕草をしたので俺は慌てたものだ。
まさか、彼女が居たなんて──。
考えてみれば、それはそうかもしれない。
貴美子ばかりが登場していたが、他の女性の影がチラついていたとしてもおかしくはないだろう。
悲しむ女性を前に、どう弁明したら良いものかと俺は慌てたものだ。
そうして俺がオロオロしていると──女性は何故だか吹き出してしまった。
「本当に、どうやら記憶喪失のようね! 私のことまで覚えてないんだもの!」
「すまない。付き合っているのに、君のことを忘れてしまって……」
未来にこの女性が登場していないので、結果的に別れることにはなるのだろう。
無邪気な笑顔を前に、未来の結末だけを知っている俺は複雑な心境になってしまった。
「嘘よ、嘘。私達が付き合ってる? そんなこと、あるわけがないじゃない!」
愉快そうに女性はお腹を抱えながらケラケラと笑った。
「え……?」
──まさか、からかわれた?
「でも、デートの約束って……」
「ああ、今度ヒマワリ畑に行こうって約束していただけよ。前回は私の方から誘っておいて用事できちゃったから当日にキャンセルしたけど。……まぁ、その件で貴方、かなり不機嫌になっていたわよね」
──なるほど。
最初に女性が言って俺が気にしているこの間のことという件は、どうやらその件らしい。
俺がキョトンとしていると、女性はジーッと俺の顔を見詰めてきた。
「反応薄いし、私と付き合ってるって思い込んじゃってるんだから本当に記憶喪失か……もしくは、長年秘めていた思いでもあったわけ?」
茶化すように女性が言ってきた。
──これ以上女性に話の主導権を握らせていたら話がいっそう拗れそうだ。
俺は自ら口を開くことにした。
「いや、本当に記憶喪失なんだ。……で、君、名前は?」
「……ごめんなさい。つい、おかしくって。でも、怒らないでよ? 私達のよしみでしょ?」
「あぁ、大丈夫」
「ふふふ……」
女性は笑い、口を噤んだ。
次の言葉を待ったが、女性も黙ってしまったので気まずい沈黙が流れた。
「因みに、俺達って親しいのかな……?」
女性がなかなか身分を明かしてくれようとしないので、若干心の距離を感じたものだ。
実際は赤の他人──講義で顔を合わせるくらいの距離感の人間だったということもある。
俺は自らの立ち位置を女性に確認してみた。
「幼稚園の頃からの幼馴染みよ。気遣いは無用ですからね!」
幼稚園からの幼馴染みといえば少なくとも十二年以上の付き合いになる──。
「もうっ! 私のことを忘れるなんて失礼しちゃうわ!」
女性が怒るのも無理はないだろう。
「申し訳ない……」
俺にできることは何もない。ひたすらに頭を下げて非礼を詫びるばかりである。
俺の態度に、女性は不服そうに唇を尖らせた。
「別に怒ってないんだけど……そう申し訳無さそうな顔をされると、まるでこっちがイジメているみたいになるからやめてよね!」
──何だか接し方が難しいな。
俺はポリポリと、頭を掻いた。
「そう暗くならないでよ。もっと明るくしてよ。そうねぇ……じゃあ、楽しんでもらえるかもってことで一つクイズをしないかしら?」
「そんな……クイズだなんて……」
「いいじゃないの。記憶喪失ついでにさ!」
何がついでなのかちっとも分からないが、どうやら女性なりに俺に気を使ってくれているようである。
暗くなった俺を元気付けようと提案してきてくれたのだろう。
──方向性が間違っているような気もするが……。
不服そうな俺の表情を見て、女性は頬を膨らませた。
「貴方が私を忘れるのが悪いんじゃないの!」
──そう言われてしまっては何も言い返すことができない。
「クイズって、何なのさ……?」
仕方ない。少しばかり付き合うことにして、俺は女性に尋ねたものだ。
すると、女性はそう来なくっちゃとばかりに指を鳴らした。
「クイズ『私の名前は何でしょう?』。思い出したら、私を忘れたことを不問にしてあげるわ」
女性は指を立てながらニンマリと悪戯っぽく笑ったのだった。
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