第2話 過去の枷

 夕焼けの空に終業のチャイムが鳴る。颯は夏芽に部室へと呼び出されていた。グラウンド近くの部室棟は多数の部室があり、野球部は角の一室が部室だった。放課後の部室棟は部員の準備や着替えなどで忙しないように見える。颯はそれを横目に見ながら部室の扉の前に立ち、息を整えていた。、

「お前……」

 不意に声がかかり、颯は振り返った。少し茶色の混じってツンツンとした髪は、かつての野球部員の灯也だった。声をかけたというよりも、颯の姿を見て声が漏れてしまったようだった。

「……他の部活に入るつもりになったかよ」

「違う。そんなつもりはない」

「じゃあ何でここに――」

 と灯也は颯が前に立つ部屋を見た。

「お前まさか未練があるからって女子野球部の覗き見を……!」

「それも違う! 俺を何だと思ってるんだ! ……コーチをすることになったんだ」

 灯也は遠くからサッカーボールを持つ部員に呼びかけられた。灯瀬は一言応えて、また颯を睨んだように見る。

「……あっそ。でも、忘れたわけじゃねぇよな、お前のしたこと」

「ああ。……教えはするがそれ以上は踏み込むつもりはない」

 灯也は颯の言葉に応えもせず、グラウンドへと走っていた。その表情も夕日に呑まれて見えやしない。その手のマメがズキリと痛んだ。 

「入っていいよ」

 夏芽が扉を開け、颯を迎い入れる。

「誰かと話してた?」

「……いや」

 部室内にゆっくりと入っていく。決して広くは無い空間に十人ほどが屯している。床に座る者、壁に寄りかかる者。その目には関心、不思議、怪訝、様々な視線が颯を見つめている。バットや球は汚れたままで床に放ってある。それを一瞥しながら颯は夏芽の言葉を待った。

 夏芽はみんなの前に立ち、横に並ぶ颯を紹介する。

「この人は三年の立川颯。これからこの野球部のコーチになって貰うことになりました」

「よろしく……お願いします」

 颯はぎこちなく頭を下げた。改めて自分がどんな立場に置かれているのか、よくわからなくなっていた。

「コーチを連れてくるって言って、どんな人かと思ったら、同学年でしかも男子生徒じゃない」

 カチューシャをつけた一人が悪態をつく。

「えっと……」

「あの子は高倉美恋。常に怒ってる感じの子ね」

「どういう紹介よ!」

 美恋は頬に手をつく。

「夏芽、あんた正気なの? どうせやらしい目で見て、やらしい手つきで触ってくるつもりよ」

「なっ、へ、変態ってことですか!?」

「あそこのすぐに騙されそうな子が上野杏。そそっかしいから気をつけて。……というかやらしいことなんてしないよね?」

 夏芽が颯の顔を覗き込んでくる。笑顔で尋ねてくるが、鬼のような角が颯には見えていた。

「し、しねぇよ」

 心外だ、と颯は付け加えた。

「立川……颯……ああ、思い出したー」

 奥の方で少したれ目の子がピンと来たように顔を上げた。

「もしかして男子野球部のエースだった人じゃない?」

 部員たちに少し一驚の波が走って、颯をじっと見つめる。

「それって三振王の……」

 杏が言うのは颯が一年の時にとった地方大会での称号のことだ。地方大会で甲子園を逃したとはいえ、颯は最も三振を奪った投手ということだ。恐ろしいのは颯が未だ一年だったことと、怪我をした先輩に代わり大会の途中からの先発登板であったにも関わらずということだ。颯の名と三振王の称号は風のように噂として広まっていた。

「す、すごいじゃん。そんな人に教えて貰えるなんて――」

「いえ、どうかしらね」

 はしゃぐ杏に水を差したのは美恋だった。

「こいつ二年の時に自分の部を廃部に追いやったのよ」

 去年の夏のこと。男子野球部は大会であっさりと敗北を喫し、成績不振による廃部が決定してしまっていた。

「監督の指示を聞かずに、無理な守備シフトを敷いたり、ランナーを強引に走らせたり。それがはまればいいけど全部空回り。相当滅茶苦茶な試合だったらしいわよ」

「……美恋」

 その試合を知る夏芽が止めようとするが、美恋は続けた。

「挙げ句にホームランを打たれて敗戦が決定的になった。人を言いなりにして自分が打たれてちゃ世話無いわね。そんな奴に廃部寸前なうちをどうにかできるかしら」

「美恋!」

 夏芽が必死の声で美恋を止めとも、もう遅かった。颯に注がれる視線は最早疑惑の目でしかない。嬉しそうだった杏も伏し目がちとなった。

 夏芽も戸惑ったように言葉を失くす。何を言おうと颯の過去は変わらない。否定のしようがなかった。

「……お前の言う通りだ」

 重い沈黙の中で口を開いたのは颯だった。

「確かに俺は強引に指示して負けた。だがそのことと指導をすることは無関係だ。教えられることは教える。それ以上のことはしない。試合は自分たちで勝手にすればいい、これでいいだろ」

 美恋は納得しない様子で顔を背けた。

 こうして颯と部員たちは最悪の形で始まることとなった。


 その日の練習を終え、夏芽と颯は共に帰路についていた。

「えーと、ごめん!」

 それまで口を開けては閉じていた夏芽が颯に誤った。

「何を謝ってんだ。俺への信頼が消えさったことか?」

「そ、それもそうだけど。……颯を傷つけた。本当にごめん」

 掌を合わせて謝罪する夏芽に、颯は

「別にいい。指導者は毛嫌いされて当然のような立場だ。理由はどうあれ、いつかはこうなっていた。……っていうかお前が事前に言っておけばいいだろ! コーチのこととか、俺のこととか!」

「は、颯を追いかけるのに必死だったんだよ」

 夏芽は隣の川で流れていく木の葉を見た。

「……明日も来てくれるよね」

 颯は少しの間を置いて応えた。

「ああ……お前に頼まれた分だけはする」

「あ、ありがとう……!」

 夏芽は不安な顔つきを崩して微笑んで、颯の背中を叩く。嬉しくなたら人の背中を叩く癖は何とかした方がいいと颯は感じた。

「それに……練習を見ていて少し興味が湧いたからな。明日は部活時間が長くなるが、それでもいいか?」

「え、うん、大丈夫だけど……」

 颯はそれを聞くと携帯を取り出してどこかへと連絡を回していた。颯の言動が、どこかいきいきとしているように感じる。その横顔を夏芽は微笑ましそうに眺めていた。

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