Replay ball

荒海雫

第1話 Replay

 身を焦がす程の熱が颯を包む。跳ねる心臓が息を切らして、十八メートル先のミットグローブが霞んで見えていた。漠然とした意識のまま、投球モーションに入る。

 その体は重く、腕のしなりも不完全なまま、球は手元を離れていく。たった一秒後。その一秒が全てを決めてしまった。

 気づけば、球は颯の遥か頭上を通っていく。颯は球を目で追うこともせず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 湧き上がる歓声が颯の青春の終わりを告げているようだった。


「是非! 空手部に入ってくれぇい!」

「断る」

 数十分と渡る交渉も虚しく、屈強そうな男子生徒がとぼとぼと帰っていく。彼の大きな背中を丸めているのが見えても、颯は眉を動かさない。

「この帰宅部生徒は本当に人気だねぇ」

「全く嬉しくないけどな」

 昼頃、パンを頬張りながら颯は友人の祐介の小言を往なす。

「でも少しくらいは話聞いてあげてもいいんじゃないかな。みんな廃部にならないために必死なんだぜ」

 少子化の影響を受ける東陽高校はクラス縮小に伴い、教員数は減ることとなり、一部の部活動や委員会が無くなる、という事態に陥っていた。各部活動の部員たちは成績不振を理由に廃部とならないよう、日々活動に励んでいた。

 現在どの部にも所属していない三年の颯を勧誘する程、部員たちは成績を出すために躍起になっているのだった。特にこの四月は一年生の争奪戦にもなって、学校中が騒がしい。

 颯はその事情を察しながらも、部員たちの勧誘を意にも留めない。

「自分たちの部は自分たちで守れ。誰かの手を借りようとする時点でただが知れている」

「手厳しいねぇ。まあ、運動神経抜群の颯に勧誘が来るのも仕方ないと思うけどねぇ」

 加えて元野球部員たちがこぞって他の運動部で功績を挙げるものだから、颯への部活動の勧誘は珍しくはなかった。

「いい迷惑だ。……ほら、言ってるうちにもう一人来た」

 教室の扉の前で、颯に向かって手招きする人物が居た。短く切り揃えられた爪と果実のような瞳が颯の方を向く。

「隣のクラスの青海さんだ。幼馴染なんだっけ」

「学校が偶然にずっと同じなだけだ。行ってくる」

 パンの袋を捨て、夏芽と共に廊下に出た。

「ここじゃなんだから……空き教室行こ」

「何だよ改まって」

 階段を下っていく。階下の一年教室にはクラス縮小の影響によって空き教室がある。学生が自由に使用するのは禁止であり、鍵が掛かっているはずだ。

「じゃーん! 鍵は持ってるよ」

「盗んできたのか」

「借りてきたの! 私、先生の前じゃ真面目ちゃんだから、その恩恵だね」

 清掃の名目で借りたの、と言って夏芽は教室を開けた。

 カーテンの隙間から見えた散る桜と教室内で舞う埃がじゃれあっている。中に入ると途端に学校の喧騒が遠ざかったようで、夏芽が扉を閉めればより二人だけの空間になったようだ。

 机は後ろに並べられている。少しだけ広く感じる教室内で颯と夏芽は向かい合った。目線はどこにも逃げられず、必然的にお互いの視線が重なり合う。夏芽の表情が赤らんでいて、颯は教室の時計と同じように緊張の鼓動が響くのがわかった。

 颯は夏芽に対して異性という意識はあまり向けたことはない。だが何故だか颯は息が苦しかった。

 夏芽がゆっくりと口を開く。その息遣いと唇の赤が颯にはコンマ一秒ごとに目に刻まれていた。颯がその言葉を息を呑んで待った。

「わ、私たちのコーチになって欲しいの!」

「……」

 颯は急速に鼓動が収まっていくのを感じた。舞う埃もやたらに目につくようになる。

 颯は夏芽の真意がわからず、夏芽に言葉を返せずにいた。

「ダメ、かな」

「待ってくれ。つまり、勧誘ってことか?」

「うん」

「でも夏芽は女子野球部だろ。女装は絶対にお断りだ」

「そうじゃなくて! 部員としてじゃなくコーチになって欲しいの」

 コーチ。つまり指導者という立場になってくれ、ということだ。同学年の生徒に頼む内容ではないのは颯にも明白だった。

「段階を踏んで説明してくれ」

「ご、ごめん。私もつい早まっちゃった。えっと、私たちの顧問の先生の塩田先生が入院したのは知ってるよね」

 颯は頷く。

 塩田先生とはもう定年間近のお年寄りの教員だった。依然から腰を悪くしており、今年の初めには入院をしていた。

「学校側は塩田先生の代わりの先生は呼ばなかった。元々教員は少なくする予定だったから。そして塩田先生はもう復帰はしないで辞めることになったの」

「ってことは今も顧問は不在なのか」

「そう。塩田先生が今年も顧問を引き継ぐ予定だったんだけど……そうもいかなくなっちゃった。それで――」

 夏芽が神妙な顔つきになる。

「私たちの女子野球部は来年には廃部になるの」

「……そうか」

「でも条件はあるの。今年で成績を出すこと。そしたら来年は誰かの先生が掛け持ちで顧問になってくれる。だから、私たちは絶対に成績を出さなくちゃいけなくなったの」

「それで、俺にコーチをやって欲しいと」

「颯がコーチになってくれればきっと良い成績を残せる。颯は部活動に入ってないよね。それなら――」

「待て」

 颯は夏芽を手で制止した。

「俺が部活動の勧誘を断っているのは知ってるだろ。それにもう野球は……野球を続ける気はない。もう決めたことなんだ」

「……コーチをにはなってくれないってこと?」

 颯は一つ頷いて応える。

「言いたいことはそれだけだな」

 颯は教室から去ろうとする。

「ま、待って!」

 夏芽が颯の手を掴んだ。

「お願い、もう少しだけ考えて。滅茶苦茶を言ってるのはわかってるよ。でも……!」

「すまん。……他をあたってくれ」

 颯は夏芽の手を強引に振りほどいた。颯には夏芽の手が震えているのがわかった。揺れる瞳も見えていた。しかし颯は夏芽の願いに応えることはなかった。


「なるほど。コーチとして颯を勧誘とはねぇ」

「論外もいいところだ」

 夕焼けの指す校舎入り口で上靴を脱ぐ。

「でも青海さんって去年は何十人も女子を野球部に勧誘しているらしいよ。今年は廃部が決まったらしいから無理には誘えないんだろうけど……。かなり切羽詰まってるんじゃないかな」

「……一回断っただけで諦めるようなら、大したことのない覚悟だ――」

 靴箱の中に紙が入ってることに颯は気づくと、そこには『コーチになって!』という言葉が書かれていた。視界の隅には角に隠れる夏芽の姿があった。小悪魔のように微笑を浮かべている。

「それなりの覚悟はあるみたいだよ」

 紙を折りたたんでゴミ箱に捨てた。廊下の方から小さく声がする。颯の相手にもしない態度に動揺しただろうか。

 颯の意思は固かった。しかしここから颯を困惑させる日々が続いた。


「コーチやらんかーい!」

「だからやらないって!」

 登校中、背後から突然現れた夏芽に追いかけ回されたり。

「こんな曲いれたか?」

『コーチになって!』

 音楽のプレイリストに勝手に音声が追加されていたり。

 家の入口にも張り紙がされていたり……。

 どこに居ても、夏芽の姿、文字、声がある。やり方を選ばない勧誘に颯の日常は振り回されていた。


 そんな日々が一週間は続いて、ある日の昼休みだった。夏芽の猛攻に耐えかねて、颯は屋上で食事を済ませていた。涼しげな風が吹いて、しばらくぶりの静寂を告げている。人も居ない屋上は颯にとって安息の地であった。

 しかし、屋上の扉はあっさりと開き、敵の侵入を簡単に許してしまう。それは他の誰でもない、夏芽の姿だった。

「あ、いた」

「いないぞ」

「その鋭い目は誤魔化せないぞー。……まだ頷いてくれない?」

「……ああ」

「それなら今度からパンの中に紙とか入れようかな。教科書中に落書きするのもいいかも!」

「辞めろっ! いい加減事件にできるレベルだぞ!」

 風が肩程の夏芽の髪を揺らしていく。

「簡単には頷けないよね」

 雲が二人の陰を濃くする。

「パヤは頑固者だから、納得できないと、意地でも自分の意見を曲げない。……それでもコーチになって欲しいの」

「何でだ、何で俺なんだ。……放っといてくれよ」

「放っておけないよ! ……正直に言うね。去年の夏からのパヤ、めちゃくちゃ中途半端でかっこ悪いもん。また野球を始めたり、別の夢中になれる何かを見つけるんだと思ってた。でもあの時からパヤは止まったまま。その手、マメあるよね。まだ球やバットに触ってるんでしょ。諦めきれずに、でも続けることもできなくて、凄い中途半端だよ!」

 夏芽が空き教室で颯の手を掴んだ時、颯の手にできたマメに気づいたのだった。颯はその手を隠しても、刺さるように痛みは感じる。

「諦めたいなら、綺麗に諦める! でももし続けてくれるなら」

 夏芽は颯の手を取った。夏芽の手にも怪我の跡がある。夏芽も痛いはずなのに、颯とその手を重ねた。

「私たちと続けて欲しい。また野球を、始めよう」

「……言い訳だ。ただ自分たちが勝つための方便だ」

「当たり前じゃん! 勝つためなら何でもするよ。颯もそうだったでしょ」

 颯は夏芽の手からゆっくりと離す。

「それ程大切なチームなんだな」

「うん。みんなで勝ちたい。大好きなチームだよ」

 颯は大きく息を吸い、吐く息の代わりに想いが吐露するようだった。

「……少しだけだぞ。少しだけならやってもいい」

「え、い、良いの?」

「何で頼んどいて驚いてるんだ。久しぶりにここ数日でお前の情けない顔が見れたからな。俺は今気分が良い。ただそれだけだ。後パヤ呼びは止めろ」

「みんなの前じゃ言わないよ~」

 夏芽が喜びのあまり颯の腰をバシバシと叩いた。颯は押されるように日光のもとへ出た。眼下の街がやけに色鮮やかに見えたのは、気のせいではないはずだ。

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