セントラルドグマ
第9話 塀の上の卵
陽の光を遮りながら、塀の上を見ながら近づいていくと、そこには少年が立っていた。
ヒーローのようなマントをたなびかせ、真剣な表情で下を向いて立っている。
まだ、小さく見えるその身体ではその塀はとても高く危なく見える。
このセレンディピティがもたらすものは、不思議で悲しいものなのか、気まぐれで悪戯心のあるものなのか……
「どうしたの? そんなところ立ってると危ないよ……」
少年はこちらを一瞥すると、下を睨みつけ直す。
まるで悪者とでも戦っているように。
「わかってる! ボクは、トミオリニサツするの!」
「ん? 時おり警察?」
「トミオリニサツ! たかいとこからトブとしぬんだよ!」
トミオリニサツ……高いところ……飛び降り……飛び降り自殺!?
少年は不機嫌になりながら一際でかい声で叫んでいる。
「え!? は!? うん……飛び降り自殺? なんでそんなことを……」
「トミオリ……テレビでいってたんだもん!」
テレビ……おそらく、何かの事件か、何かの特集か、どのタイミングで見たのか分からないが、この子は独自の解釈をしてしまったのかもしれない。
日本語もおぼつかないこの子にとって、文脈も文間も分からない。見た時の心情やタイミングで、ちょっとしたことでも残酷に悲観的に捉えてしまうこともあるのだろう。
リテラシーのリの字にも行きつかない、そんな子供たちにとっては、情報は情報のまま、自分たちの虚構によって都合のいいように脚色されていくのかもしれない。
「……ごめん……けど一旦落ち着いて、僕にもなんで飛び降りようとしてるのか教えてくれないかな? それくらいいいだろう?」
「どいてよ! ぶつかっちゃう!」
「飛んでしまったら……その方法は一見簡単そうで1番取り返しがつかないことなのに……そこを越えるときっと戻れなくなってしまう……」
リコは眉間に皺を寄せている。
どうやって登ったのか、塀はこの子の倍以上の高さは優にある。この子は危険を分かっていてそこにいるようだ。
落ちても助けてくれる人はいない。自分を元に戻してくれる保証なんてないことを知っているんだ。
この高さがこの子にとって生死にかかわるかは不明だ、だが危ないことに変わりはない。見た感じ、幼稚園児くらいに見えるこの子は、そもそも1人で出歩けるような歳でもなさそうだし。
「どけないよ、ぶつかりたくないと思う君は優しい子じゃないか。そのマントは何かのヒーローのものだろう? 君の好きなヒーローもマントを飛び降りるためには使わないと思うよ」
「これでいいの! コワイから、ユウキがないから、このフクにしたんだ、それにこれはやぶけているからとべない!」
見ると、確かにマントは破けて、片側が垂れている。
飛び降りるための勇気……それは勇気なんだろうか? そんなものは僕からすると絶望でしかない。
少年がマントに望んでいるのは、コウモリの戦士でもなければ、口の裂けたピエロでもないはずだ。
「飛び降りるってことは、壊れてしまうかもしれないんだよ。君はまだ何者にもなれる。それでいいのかい?」
「だって、マントもなおしてくれるっていったのに……ママはボクがすべてだって……大すきじゃって……いった……いっちゃのに!」
少年は、すでに破裂寸前だったのだろう、思いの丈をぶちまけながら、涙をこぼし始めた。
小さい体に何かを押し込んでいたのか、堰を切ったように涙と泣き声は次第に大きくなっていく。
まるで自分の言葉に縛りつけられているように……
僕は、そんな少年を過去に重ねながら左手のミサンガをさすっていた。
「ママが大好きだった……ママに、何かあったの?」
リコは、苦しそうにしている。リコも何かと重ねるように少年に訴えかけているように見える。
少年は泣きじゃくっているままだ。
塀はそれほど太いわけでもなく、目が開いているのか閉じているのか、不安定な足場に立ち続けている少年はいつ落ちてもおかしくなく見える。
「ママは、もうボクのことなんていいんだ」
「それは……ママが言ったの?」
「そんなのわからない!」
リコも、ナニカを変えようとしているのかもしれない。
それは自分であって少年であって、自分のために少年のために、リコも動き出そうとしてるように見える。
少年は塀の上で座り込み目をゴシゴシこすっている――
――その時、リコは、泣きじゃくっている少年の隙を見て脇を掴みひょいと抱きかかえる。
千切れかけているマントを寂しそうにはためかせながら。
「さわらないで! ママにきらわれたら、ママがわすれたいなら! ボクなんていないほうがいいじゃん!」
「ママがどうかはわからないけどあなたはあなた……自分だけ見てればいいの……」
リコは苦しそうな表情をしつつ、少年を抱きしめながら頭を撫でている。
その苦しそうな表情は、少年への想いか自分への想いか。まるで自分ごと抱きしめているようにも見える。
「んんっ!」
――突然少年はリコの胸を揉み始めている……
シャリンシャリンと扇情的な音を奏でながら……
少年は、柔らかそうな、子供のように夢の詰まったリコのそれを……凹凸を交互に歪ませ弾ませている。
男のロマンは溢れかえり、僕の心にも押し寄せてくる。三重奏の誘惑を奏でながら、僕の目はほと走り、脳内に火花が散っていく。
「ほらママのが大きい!」
少年の大きな声に、理性を引き戻されつつも、意識は目の前の現実に、事実に、瞼を閉じるのは厳禁、釘付けだ。
リコは、静かに少年を下ろし、服を直している。
僕の眼には残像が、猫の笑い顔のようにしばらく反芻している。
何が「ほら」なのかはわからないが、子供の行動は本当に常軌を逸する。グッジョブともバッジョブとも、敬いとも怒りとも、聡明さともアホさとも、なんとも言い表せない心持だ。
しかし、ママのもすごいかもしれないけど、リコのもなかなかのもの…… 少年よ、大きければいいってものでもないんだ……
だめだ、頭から離れていかない……もう少し愉悦に浸りたい気分が……
とりま、こいつには後でアイスを買ってやろう。
「ま……まぁ、とりあえずここにいても道路だし危なそうだ、近くの公園にでもいかないかい? 家はこの近くなのかな? 親も心配してるんじゃ……」
少年は、黙りこくってしまっている。
いろいろ、居漏居漏と、思いが錯綜してるのかもしれない。
僕の胸筋でも世界を救えるといいのだが。
残念ながら、それを披露する機会はなさそうだ。
「少し落ち着いてきてくれたかしら」
リコは怒ってなさそうだ。怒るリコも見てみたかったが。
確かに落ち着いている。少年にとっては、先ほどの行為がママとのルーチンであるのならば、今現在は賢者タイムのようなものみたいなのかもしれない。
少年も少女も同じく育っていっているはずなのに、潜在的に乳離れができていないのは老若男男不思議だ。これも共働き社会の弊害なのだろうか。
「コンビニにでも寄ろうか、何か好きなもの買ってあげるよ」
僕らはコンビニに寄り、各々好きなものを買っていく。
少年は、アイスを。リコは、たまごのお菓子を。僕はグミを。
グミはいろんな食べ方がある。いろんな味がある。いろんな硬さがある。口に入れるたびにいろんな世界を見せてくれるから、僕は好きだ。
「じゃあ公園に行こうか」
少年は下を俯きながら、アイスを握りしめて一緒に歩いている。そんなんじゃ、着く頃には中がベタベタになってそうだ。
リコは、ひと口たまごのお菓子をポリポリ食べてマスクがうごめいている。
たまご……この子も、少し衝撃を与えたら割れてしまいそうだ。でも、割れなければ、そこから何かが生まれてくるかもしれない。途中でバロットになるかもしれない。まだ、ナニにだってなれるんだ。
ひとまず飛び降りようとしてた少年は、リコの胸に包み込まれ、割れずに済んだ。リコも自分なりの行動を起こせたんだ。
きっとそこなら割れない、割れて欲しくない。
「ここの公園にしようか」
僕らは、南の公園に入っていく。
少年は俯いたままだ。
何がこの少年を、この小さな体を追い詰めたんだろうか。幼い、生まれたての死生観の中、塀の上に登ろうとした覚悟は無知なりに希望と楽観と絶望が混在していたのかもしれない。
幼稚園児だろうが、赤ちゃんだろうが、悩みや問題は出てくる。そのほとんどは時間が解決してくれるとは限らないだろう。
人は誰しも未熟ながらに乗り越えないといけないものがあるはずだ。きっとその時の選択がその後の後悔の質に影響してくるんだろう。
少年は良くも悪くもその瞬間その時の死生観の都合で一歩を踏み出した。
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