第5話 進路と出張
夕食後、娘が進路希望調査書を持ってリビングへ下りてきた。
寒さが厳しくて、床暖房が有る一階のリビングが居心地がいいのだろう、真弦もずっとここでゲームをしている。
「真弦、もう二時間もゲームやってるぞ。少しは勉強したらどうかな。」
ソファの上でスマホを握ったまま、賢が言った。
口調は決して荒くないし、言葉も柔らかい。
だが、その声はどこか皮肉めいている。そんな夫に、鈴子はコーヒーを差し出した。近寄ると、何か匂う。昨日床屋へ行ってきたせいなのか、整髪料か何かの匂いがする。賢は床屋のシェービングクリームや整髪料の匂いを好まないので、すぐに風呂に入って匂いを落としていた気がするのだが。
長男の真弦は動かない。父親の言葉がまるで耳に入らないようだ。
「聞こえてる?真弦。」
もう一度、父親が声をかけるが、やはり止める気配はない。
「お母さん、これ、ちょっと見て。」
プリントを母親の鈴子に見せに降りてきた優希が、小さくくしゃみをした。
「あら、やっぱり二階は寒いんじゃないの。暖房器具を納戸から出そうか。」
「いいよ、まだ。」
「風邪引いたら大変よ、お父さん、ちょっと手を貸して。優希の部屋にファンヒーター入れて上げないと。」
「優希がいいって言うんだからいいんだろ。まだ我慢出来るんじゃないのか?」
スマホへ視線を落としたまま、賢は鈴子の頼みにすげなく答える。
すると、さっきまでゲームのコントローラーを離さなかった真弦が、ゲーム機の電源をオフにして立ち上がった。
「俺、手伝う。母さん、納戸の奥?」
「そう。助かるな。ありがとう真弦。」
二階へ向かう階段下に納戸があった。リビングを出て三人でそこへ向かう。
廊下の照明を付けて、鈴子は納戸のドアを開いた。真弦が中へ腰をかがめて入り、奥でダンボール箱に入ったファンヒーターに両手を伸ばした。
「俺も自分の部屋に欲しいな。・・・出来れば、ゲーム機とテレビも。」
「うーん、それはちょっと効率悪いわねぇ。真弦も優希も一階のリビングで勉強したりゲームしたり出来たら一番助かるんだけどな。」
各部屋に暖房器具を置いたら光熱費もかかってしまう。そうでなくても床暖房は高く付くのだ。
「じゃあさスマホ買って。そしたらゲームとテレビはナシでいい。ヒーターも一台でオッケ。姉貴の部屋でゲームするから。」
「ちょっと、あんた勉強してるあたしの横でソシャゲやるつもりなの?」
「駄目?」
「真弦も、ゲームやり過ぎじゃないの。するなとは言わないけど、時間を決めてやらないと視力が落ちるわよ。視力落ちたら、バスケなんか出来なくなるわよ。」
「・・・確かに、眼鏡かけてやるのってやりにくそう。」
真弦と優希が二人でヒーターを持ち上げ、二階に上げてくれた。
鈴子が一人でリビングに戻ってきても、夫の賢は何も言わずスマホを眺めている。
テーブルの上のコーヒーは手付かずのままで、すっかり冷めていた。
「真弦がヒーター持っていってくれたわ。」
「そうか。」
「優希だって、進路のことで相談したかったんじゃないのかな。」
「そうだな。まあ、まだ受験まであるから焦らなくてもいいんじゃないか。」
「・・・優希が医者になりたいとか、美大に行きたいとか言ったらどうするの?ものすごくお金かかるわよ?そんな呑気なことでいいの?」
「まあ大丈夫だろ。」
凄く大事な話をしているはずなのに、賢はスマホから目を離さない。
話しかけている鈴子の方を、見ることもない。
「ああそうだ、俺、明後日出張なんだ。一泊するんで、準備よろしく。」
「へえ・・・。」
明後日は日曜日である。
夫の仕事は建設会社の出張所の経理だ。
今まで一度だって出張など無かったというのに、まるで当然のように言う。
鈴子は何もそれ以上なにも言わなかった。
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