第189話 私たちがいない世界です
結局、夕飯を食べることができなかったローラたちは、無言で女子寮に戻り、そして大浴場に入る。
ここでも誰も認識してくれない。浴槽の中で何度も足を踏まれたり、蹴飛ばされてしまった。
悲しくなって、早々と風呂から上がることにした。
着ぐるみパジャマに着替えて、ローラとシャーロットの部屋に行き、三人と一匹でぼんやりと虚空を見つめる。
「ぴぃ……」
ローラの頭の上で、ハクが悲しげな声を出す。と同時に、ぐぅぅと腹の音も鳴り響いた。
「お腹空きましたねぇ……」
「ですわ……」
「ニンニクたっぷりの冒険者ラーメン食べたかった……」
「それ以上に、皆から無視されるのがこんなに辛いとは思っていませんでした……」
「ですわ……」
「もしかして、本当に一生このまま……?」
アンナの一言を聞き、全員が押し黙った。
すんすんと鼻を啜る音が聞こえる。
ローラはそれが自分の鼻から鳴っているのだと思ったが、シャーロットも同じように泣いていた。
「ごめんなさい……私が半端な魔法を使ったばかりに……」
「ローラさんの責任ではありませんわ……認識阻害の魔法を使おうというのは、皆で決めたことですもの……」
「元はと言えば、私の魔法剣の試し斬りのため。私のせい」
「自分を責めても始まりませんわ……今日はもう寝ましょう……案外、寝て起きたら元に戻っているかもしれませんわ……」
シャーロットが言った途端、全員のお腹がぐぅぅと鳴る。
お腹が減って、何もする気にならない。
確かに、これは寝るしかなさそうだ。
皆でベッドに寝転がり、くっつく。
アンナの部屋はここではないのだが、誰も言及しなかった。
ハクも布団の中に潜り込み、ローラのほっぺに顔を当てて目を閉じた。
この三人と一匹しかいない世界だ。
ローラたちは皆の姿を見ることも声を聞くこともできる。しかし自分たちの姿を見せることも声を届けることもできない。
完全な一方通行。
交わることができない。
ベッドの上にいる仲間だけが、お互いを認識して交わることができる。
離れることなんて、できっこない。
△
目を覚まし、制服に着替え、教室に向かう。
いつもは廊下ですれ違った人たちが「おはよう」と言ってくれるのに、今日は誰も言ってくれなかった。
アンナも一緒に魔法学科の教室に入る。
戦士学科に行ったら一人になってしまうのだから、当然だ。
ローラとシャーロットは自分の机があるが、アンナは座るところがない。
なのでローラは自分の太股をぽんぽん叩き、そこにアンナを座らせた。
ハクはそのアンナの膝の上に座る。
そして鐘が鳴ると同時に、エミリアがやってきた。
始業時間になっても、他のクラスの者が教室にいる――いつもなら説教が始まるところだ。
だが、エミリアはアンナに視線すら向けない。
いや、それどころか。
不可解なことを言い出したではないか。
「あら? 全員いるわよね? どうして机が二つ余っているのかしら……?」
ローラは、心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
何を言われたのか、一瞬、理解できなかった。理解することを脳が拒んだ。
全員いる。エミリアはそう言った。
その上で、机が余っていると。
彼女からはローラもシャーロットもアンナもハクも見えていない。
なのに、全員いる。
おかしい。理屈が合わない。
これではまるで、初めからこの世界にローラたちがいなかったかのようではないか。
「います! 私たちは、ここに、います!」
「そうですわ! 机は余っていませんわ……人数分ですわ!」
「むしろ、私がいるから足りないくらい」
「ぴ、ぴー!」
立ち上がって、黒板まで走って行く。
そしてチョークを手に取って、全員で大きな文字を書く。
――私たちはここにいる。
ありったけの想いを込めた文字だ。
忘れないで。見えなくてもいいから、声が聞こえなくてもいいから、せめて忘れないで。
それに対するクラスの反応は。
「チョークがひとりでに動いて文字を書いた!」
「え、なに、幽霊!?」
それだけ。
ローラたちかもしれないという声は、少しも聞こえない。
「こら。誰よ、こんなイタズラして。飛行魔法の遠隔操作かしら……? こんな高度な魔法を覚えたのは偉いけど、イタズラに使ったら褒めてあげられないわよ。それにしても……本当に誰なの? 一年生でこんなことできるわけが……」
エミリアは本当に分からないという顔で、黒板の文字を見つめている。
「な、何を言っているんですかエミリア先生! チョークの遠隔操作くらいできますよ! 私とシャーロットさん、二人もいるじゃないですか! 自分の教え子を忘れちゃったんですか!?」
ローラの叫びは、届かない。
せめて忘れたと言ってくれたらいいのに。
あるいは覚えているけど聞こえないのならよかったのに。
どちらでもない。
ローラもシャーロットもアンナもハクも、ここにはいないのだ。
「うわぁぁぁぁんっ!」
たまらずローラは泣き叫んで廊下に飛び出た。
後ろからシャーロットとアンナの声が聞こえたが、立ち止まる余裕はなかった。
ハクを連れてくるのも忘れてしまった。
デタラメに走り、校庭に行き、広場の草むらで何かに躓いて転んだ。
「いたた……」
これはローラの声ではない。
ローラが躓いてしまった者の声だ。
草むらに寝そべっていたのは、白銀の髪の持ち主。
今まで眠っていたらしい。
それがローラに蹴飛ばされ、目を覚ましたのだ。
「今、何かがぶつかってきたのに……いないわね……この私が気配を察知できない? まさか……」
この世界で、唯一ローラを超える魔力を有する人間。
麗しき大賢者、カルロッテ・ギルドレア。
しかし、その彼女ですら、ローラを認識することはできなかった。
「学長先生! 私です! ローラです! 私はここにいます!」
ローラは大賢者に覆い被さり、その肩を掴む。
するとローラの手に、大賢者の手が重なった。
「ここに、何かが、いる……? 見えないだけでなく、呼吸も聞こえないけど、触られている感覚だけがある……」
大賢者は目に魔力を集中させている。
見えざる者を見ようとしているのだろうか。
だがローラは今、彼女がいる世界からズレた世界にいるのだ。
こちらから見ることができても、向こうから見ることはできない。
たとえ大賢者といえど――。
「あら、ローラちゃん。今授業中でしょ? こんなところでどうしたの? しかもなんか半透明だし」
「学長先生……私が……見えるんですか?」
「見えるわよ? それ、なんの魔法?」
「声も聞こえてる! 学長先生……学長せんせぇぇぇぇっ!」
「あら? あらあら。よく分からないけど、とにかく落ち着きなさいな」
涙を流して抱きついたローラを、大賢者は優しく抱きしめてくれた。
背中をポンポンと撫でてくれる。
今までで一番、大賢者という人が頼もしく思えた。
この人にできないことなんて一つもないのでは。
過大評価が過ぎるとは分かっていても、そのくらい偉大に見えた。
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