第20話 死闘の果て

「な、何やどうしたというんや…」

 不忍池のほとりで麻里子と激しいつばぜり合いを続けていた桜理子は、間合いを取って下がったその瞬間、自身にこれまで一度も感じたことがないほどの黒い覇力の衝撃を受けていた。

 あまりに唐突な感じはまるで半身をもぎ取られてしまったかのような感覚にも等しい。

「あいつ…」

 理子の突然の変化には当然麻里子にもすぐ察しがついた。彼女もまた激しく邪悪な覇力の一片を感じ取ることが出来たからである。同時にあれほど執拗な攻撃を繰り返してきた鉄鋏も動きを止める。

 視線を業平橋電波塔の方向へ向けた麻里子は、その上空にぽっかりと開いた夜の闇よりさらに深い暗黒の大穴とそこに向けてつながる竜巻を見た。まさにどす黒い覇力の塊そのものである。

「ね、ねえやん!」

 叫ぶ理子とその竜巻がはじけるのはほぼ同時だった。

 浅草の上空に出現した巨大なカマスの姿を見た麻里子と理子。二人とも何が起きたのかすぐに理解することが出来たのだった。

「何でや、何がそこまでねえやんを追い詰めたっちゅうんや。そないなことしたらもう本当におしまいやないか…」

 隅田川の上空に浮かぶ巨大なカマスの姿は理子の目にも良く見えた。不意に全身から力が抜けその場に崩れるのを止めることが出来ない。両手で大鎌を杖代わりにして支えるのが精一杯だった。

「黒短冊を使ったか…桜魔子。人を捨ててモウリョウになりきる。それが何を意味するのか、もちろん知った上でのことだとは思うが」

 麻里子は崩れ落ちた理子を一瞥してからカマスをにらむ。距離を置いて対峙している青龍の体が気のせいか小さく見える。

 雄叫びを上げたように見えたカマスが青龍目掛けて突進し、迎え撃つ巨龍と激突する。その二匹が起こす激しい覇力と覇力のぶつかり合いは、衝撃波となってその一帯を襲い、川岸にそそり立つビルに多大な被害をもたらしていることはすぐに想像できた。おそらく足下の地上ではより激しい惨劇になっているに違いない。

「まずい、志野はまるで青龍をコントロール出来ていない。いや、カマスの猛攻を凌ぐだけで他に気が回せないのか…」

 麻里子は激しさを増す二匹のモウリョウの激闘を見つめ唇を噛んだ。このまま放置すれば間違いなく浅草一帯はすべて消し飛ぶことになるだろう。結界もないままお互いが必殺の一撃を放てばすべてが終わる。

「まったくもう!」と麻里子が体をひねった時だった。真上から鉄鋏の豪腕が振り下ろされ、麻里子の行く手を阻む。

「待ちや、朱雀。あんたをこのまま行かせると思うんか」

 叫ぶ理子の声に麻里子は振り返る。立ち上がった彼女は肩に大鎌を乗せてこちらをにらむ。

「理子、あんたの姉さんはもう人間を捨てた。それが何を意味するかは、お前にも分かっているだろう」

「もちろんや、奥義人獣合身を使えば、己の身をモウリョウとひとつにしてモウリョウになりきる。今はまだ人の心もあるんかも知れんがそれも時間の問題。意識もモウリョウに食われ、二度と人に戻ることはあらへん。あとは狂気のまま目の前の敵を倒すまで止まらんのや…」

 青龍と激突するカマスをにらみ理子は答えた。

「だったらあれはもうこの世界をすべて破壊するまで止まらないのだぞ。そうなったらどうなる?いくら我邪でもそのくらいのことはわかっているだろう」

 カマスを蔵王丸の切先で示し、大声で怒鳴る麻里子の声に、生き残っていた周囲のモウリョウたちが萎縮する。

「そうだとしたら何や、ねえやんはそこまでして青龍を倒そうと決意したんや。なら妹のうちがあんたをここで抑えるんが役割っちゅうもんやろ!」

 麻里子に向けて突き出した大鎌を震わせて理子も叫ぶ。その目には恐ろしいほどの殺意が込められ、全身から吹き出す黒い覇力はこれまで以上に怒りが満ちていた。

「キラスっ!」

 左手を夜空に伸ばして覇力を放ち己のモウリョウを即座に召還した理子は、自分のセーラー服の胸ポケットから黒い短冊を引き抜いた。

「理子っ、お前っ」

 何をしようとするのか察した麻里子は、蔵王丸を構えてその場を蹴った。振り下ろされた鉄鋏の腕を気合を込めて切り捨てて突破すると、一直線に理子に迫る。

「朱雀っ!」

 手順など構わず、全身から沸き立つ覇力を使ってすぐさま朱雀を呼び寄せた麻里子は、己の得物蔵王丸の刀身に自身と朱雀の覇力を集中させる。

 ここでまた、理子に人獣合身を使わせて新たな人獣モウリョウを生み出させるわけには行かなかった。どうあってもこの一撃で決着をつけなければならない。

「じゃかしいわババア、螳螂姉妹の執念思い知れ」

 激高して狂う理子は黒短冊を掲げた左手を夜空に突き出し黒い覇力を呼び起こす。

「翼刀乱舞っ!」

 ほぼ同時に麻里子の蔵王丸が放つ光の刃が、理子を目掛けて撃ち放たれた。激情に駆られ状況を飲み込めていない彼女は隙だらけであり無防備に近かった。

 その場に太陽を生み出したかのような輝きは激しい衝撃を伴って理子を襲う。彼女を中心にその近辺にいた鉄鋏を始め他のモウリョウたちも巻き込まれていく。

「うわああああああ!」

 絶叫する理子はこれまでに受けたことのない覇力に押され全身が、意識が、すべて飲み込まれていくのを感じていた。体か浮き上がり細胞の一つひとつが光の粒になっていくのを感知した瞬間、彼女の全部が四散していく。

 目覚めたばかりの鉄鋏や塚から這い出てきたモウリョウもまた同様に同じ光の中で消散していった。

 まさに不忍池の一帯が光のドームに覆われ、覇力の衝撃波は木々や弁天堂もなぎ倒す。堂の屋根に鉄鎖で囚われていたコタローは杭ごと吹き飛ばされ地面に叩きつけられた。

「や、やばい、力の制御が上手くいかないなんて…」

 肩で大きく息をして叫ぶ麻里子は、不忍池の状況を見て焦った。自分もまた怒りに任せていたということなのか。

 理子だけを倒すと思ったにも関わらずほぼすべてを吹き飛ばし、意に反した結果に麻里子は驚くしかなかったが、理子と鉄鋏を同時に倒せたことはありがたかった。

 青龍とカマスの戦いがこれ以上長引けばここ以上の被害を浅草に与えることは目に見えている。一刻も早く何とかしないともはや誰も止められなくなってしまう。

 麻里子は刀身を鞘に収め、コタローに近寄る。膝を地面につき体に巻かれた鎖とお札をすべて剥がして容態をみた。一見したところでは怪我の類はなさそうだが、実際のところは分からなかった。

「んーんー」と意識が少し戻ったらしいコタローは唸り声を上げる。

「悪いけどコタロー、ここで大人しくしていなさい。この辺を徘徊していたモウリョウはあらかた始末したから、のびていても問題はないと思う」

 麻里子はそう言うと立ち上がり上着から朱色の短冊を引き抜く。

「式術、朱王翼」と麻里子は叫び短冊を真上に投げ放つ、ぱっとはじけた朱色の短冊は明るい光の輪を作り、頭上で輝きながらそのまま全身に降り注いでくると、彼女の背中に翼を生み出した。

「間に合うのかっ」

 まるでそれ自体が意思を持ったような朱王翼が大きく羽ばたくと、麻里子の体はふわりと空に舞い上がった。


 激突する二体の巨大なモウリョウが続ける殴り合いはほぼ互角で、何時果てることもなく繰り広げられていた。両の腕を振り下ろすカマスに強靭な尾を振って対抗する青龍。本来、四神瑞獣である青龍の一撃が、カマス程度のモウリョウ相手に引けを取るわけないのだが、カマスは人獣合身でパワーアップを図っているのに対し、青龍は志野が不慣れすぎて実力を出し切れない故に互角という状況が続いていた。

「ど、どうなっちゃうわけ…」

 青龍の角にしがみつく志野は、縦横無尽に動き回って戦う激しい動きから、何とか振り落とされることのないよう必死で耐えるのが精一杯で、この二体の周囲がどのような状況にあるかなど気にかけることは出来るはずもなかった。

 ただ、隅田川両岸に建つビルが幾つか破壊され、首都高にも被害が及び、地上が騒然としてそこにいる人々が戦う二体の怪獣を戦々恐々と見上げていることは理解できた。

 おそらく蔵前高校や勝鬨橋の時など比べ物にならないほどの大被害が、この周辺一帯に起きていることはもはや明白だった。

「それって、すごくマズイじゃない…」

 志野は何とかして結界をと考えるものの、初心者の自分がこんな状況下で式術を行うなど不可能に近いことであると思い直す。あれは物凄く覇力を集中しなければ成功できないと麻里子も言っていた。

「あーヤバイよ本当にヤバイ…」

 そんな志野の思いとは関係なく、カマスと青龍はさらに激しくぶつかり合う。カマスの放つ光刃裂激を、瞬時に展開した光の盾で跳ね返す青龍。その力が拡散して消滅すれば問題ないが、運悪く少しでも地上に降り注げば大惨事となる。案の定、今の一撃の余波が区役所の屋上を吹き飛ばす。

「わわわー」

 そんな光景を目にして志野が慌てないわけがない。

「そ、蒼牙、ここでこんな風に戦い続けたら浅草が全滅しちゃうじゃない。何とかしてカマスをこの場所から引き離すことを考えなさいよ」

 志野は主らしく命令してみるもの、当の青龍は聞く気はないらしい。そうなってマズイなら自分で何とか考えてみろという意識がその目にありありと浮かぶ。

「出来たらとっくにやってるわよっ」と叫ぶがそれも無視される。

 なら一撃でカマスを倒せばいいのかと志野は思うが、もし失敗したらと考えるにそんな命令は恐ろしくて下せない。青龍が放つ最大の力は簡単に関東を焼け野原に出来るくらいの威力があると聞いている。

 しかしこのままずるずると戦いが続けば、警察どころか自衛隊や米軍なんていう相手も出て来かねないし、何より夜が明けてしまう。そうなればさらに想像もできない厄介ごとが待ち受けているのは明白だった。一秒躊躇すればそれだけ被害は大きくなり、いろいろな揉め事を増やしてしまう。そうなればいろは組の立場を考えるに思わしくないことは志野にでもわかる。

「だったら、なるべく被害が出ないように上手く回り込んで…」

 そんな風に志野は考えるが、果たしてその通りになるという保証はない。こんなアニメもどきの激闘に自分が関わっていること自体がすでに嘘みたいなことなのである。カマスが散華したらその覇力を喰らうべく、青龍も本能のままに動きかねないだろうと考えれば、やってみての結果は想像するのも恐ろしい。

「ええい、もうやって後悔、後はその後考えるっ!」

 こうなればやけくそという気持ちに切り替え、志野は覚悟を決めた。

「蒼牙っ!逃げる振りをして回り込みカマスを狙う。あたしの合図に合わせるんだ」

 志野の声に渋々という感じでこたえる青龍は、カマスの突撃をやり過ごすと体をひねって背を向け逃げる素振りを見せる。相手がそれを好機と捉え追いかけてきた時が勝負だった。

 案の定、不意に攻撃をかわした青龍の動きに釣られカマスは後を追う。

「来たっ、蒼牙、ターンしてっ、龍炎牙吼っ」

 振り返ってカマスの動きを確認した志野は青龍に必殺の一撃を命じる。すべてを焼き尽くす業火に耐えうるモウリョウなどざらにはいない。

 突進してくるカマスを狙い、素早く体の向きを変えた青龍の口が開く。全身が光を帯び喉元から紅蓮の炎がカマスに向けて吐き出される。それが命中すればすべてが終わる。

 が、しかし…。

 まったくの突然に猛スピードで突っ込んできた発光体が強力な光弾を放ち、カマスに向けて放たれた青龍の炎を引き裂いた。グオオオンという激しい轟音が周囲に響き、光弾と相殺された火炎は空しく夜空に一瞬、光の花を咲かせて消えうせる。青龍必殺の一撃を中和消滅させる覇力を持つ存在などいないに等しいはずなのに。

「えっええええ…」と声を上げる志野は想定外の出来事にうろたえるしかない。誰かが、何かがこの攻撃の邪魔をしたということになるからだ。青龍も見るからに機嫌が悪い。

 発光体は距離をおいて止まった青龍とカマスの間に割って入り、徐々にその光を収めていく。

「ま、麻里子さん!」

 志野はその発光体が麻里子であることに気がつく。背中の羽を広げて羽ばたき、カマスと青龍双方をにらむようにして静止している。

「麻里子さん、何で、どうして止めるんですか」

 叫ぶ志野は麻里子の意図が分かりかねた。カマスも動きを止めて麻里子を凝視している。

「志野、狙いはまあまあだが、詰めが甘いよ。あのまま青龍が一撃を放てば、カマスを消し飛ばせたかも知れないけど、その余波は業平橋電波塔にも直撃する」

「え…」

 麻里子の声に志野はカマスの後ろにある巨大な電波塔の存在を初めて意識した。確かにあのまま青龍が全力で龍炎牙叫を放てば、カマスを焼き尽くし倒せただろう。

 しかし、その余波は射線上にあるあの塔の展望台にも直撃していたことは間違いないし、そうなれば崩れた塔が直下の街にどんな被害が及ぶのか想像さえ出来ない。

「う、ううう…」それ以上言葉の出ない志野は、改めて自分の迂闊さを恥じるしかなかった。

「ご大層なこっちゃな、朱雀。そないなことくらいでうちを倒すチャンスをふいにするとはおかしゅうて笑いが止まらんわ」

 突然にカマスの額に浮き出ている魔子の顔が冷笑を浮かべそう言った。

「別にあんたを助けたわけじゃない。勘違いするなよ桜魔子。いやもう人の心を捨てモウリョウと化したカマスそのものと呼ぶべきかしら」

 麻里子も負けずに冷ややかな視線を投げつける。

「そりゃ、おおきに。我らは目的をを果たすまでは手段なんぞ選びはせんのは、よー知ってるはずやろ。それよりも朱雀、あんたがここまで来たってことは、理子と鉄鋏を倒したっちゅうこっちゃな…」

「だったら何だ桜魔子。人を捨てたお前にはもう、関係のないことだろう」

 麻里子の言葉には微塵の慈悲もない。それがどうしたというようにも聞こえる。

「もちろんや、だがこれで、お前に対する憎悪怨念が余計に深くなるわ。それが怒りの覇力をさらに増幅させる」

 刺すような視線を麻里子に向け、魔子が叫ぶ。それに合わせ雄たけびを上げるカマスが両の腕を振り上げ麻里子目掛けて突進する。

 蔵王丸を引き抜いた麻里子も迷うことなく立ち向かう。振り下ろされた鎌腕を真正面から受け止めて力任せになぎ払い、ひるむ相手の隙をついて懐へもぐりこみカマスの細い首を狙った。

「覚悟っ!」

 蔵王丸を両手に持ち、一気に喉元から首を両断するべく刀身をすくい上げた時だった。

「な、」

 カッと開かれたカマスの口からほとばしる閃光が麻里子を襲う。

「ま、麻里子さんっ!」

 叫ぶ志野が度肝を抜かれたのは言うまでもない。あんな至近距離で目も眩む光の渦を受け生きていられるというのだろうか。

 ドドーンと鼓膜も裂けそうな轟音が響き、またも真昼のような輝きを一瞬その場に生み出した。

「はっはー懐に飛び込んで斬りつければ終わりと思ったら大違いやで」

 距離を取って後ろに下がった魔子の勝ち誇る怒声が夜空に轟く。彼女でなくともこれでは無事にすむはずがないと思うのが当然だろう。

 しかし収まっていく光の中には、美しく光り輝く羽を広げた巨鳥を背後に従えた麻里子が何ら変わることなくそこにあった。

「朱雀、出てきおったか…」

 目を細め魔子は唸る。あの距離でも弾かれたとあっては、飛び道具で倒す手段はないのかと思ってしまう。

 魔子は段々と自身の意識が希薄になり、人としての意識が保てなくなりつつあることを感じながらも青龍と朱雀を倒す算段を何とかひねり出そうとしていた。

「麻里子さんが朱雀を従えて出てくるなんて、一体、何時以来なのかしら」

 燐は、上空で対峙する青龍、カマス、そして朱雀の姿を見上げ驚きを隠せない。誰よりもモウリョウの覇力を理解し、その力を使いこなすことが出来る麻里子がモウリョウ自身にその力を直接借りて戦うことなど滅多にないことだったと聞いているからだ。

「そうだな、私も朱雀の姿を見たのは、何時以来になるのか」

 隣でつぶやく譲之介にも驚いた表情がありありと浮かぶ。

 吾妻橋の架かる隅田川の上空で繰り広げられるモウリョウ同士の激闘は、決着がつく気配も見せぬまま時間だけが流れていった。

「あれが、朱雀、麻里子さんの四神瑞獣…」

 もちろんその姿を初めて見た志野が息を飲んだのは言うまでもない。

 華麗にして勇ましく、見るものすべての目を引きつける朱雀の姿は、正に圧倒的と呼べる存在感を持ってそこに君臨していた。

「コウッ!」と叫ぶその声色に覇力を感じるすべての輩が萎縮したことは間違いない。

 朱雀は少しだけ目を動かし、青龍をにらむ。それに気がつかぬ青龍ではないはずだが、当人は無表情を装い動じない。せいぜい敵ではないはずと確認するぐらいであろうか。

「志野、人獣合身したモウリョウは桁外れに覇力が強くなる。そして食われたキズキビトの意識は、時間を追うごとに希薄化してモウリョウ自身に飲み込まれていく。そうなったらもう、モウリョウ自体を御することは誰にも出来ない。目の前の敵を完全に倒すまでひたすら暴れまわるだけの狂獣と化してしまう。一気に倒すには全力で当たるしかない」

 麻里子は動きを止めたカマスをにらんで叫ぶ。

「は、はい…」と答える志野だが、青龍と朱雀が揃ったとはいえ、この場で戦うリスクが減ったというわけではない。むしろ破格の力を持つ二体が本気でかかれば、浅草上野一帯が瞬時にして火の海と化すのは間違いないだろう。そこを認識していない麻里子ではないはずと思うが、ではどうするのか。

 何気に東へ目をやれば、うっすらと空が白み始めているのがわかる。夜明けまでもう残された時間はわずかに過ぎないということだ。

「どうするんですか、麻里子さん!」

 叫ぶ志野は自分の本心とは関係なく、焦る心を抑えることは出来なかった。

 麻里子は石のように固まったカマスを見つめ、恐らくは魔子の意思が相当に薄くなっているのではと考えていた。格の違うモウリョウ相手に戦う方法として、人獣合身は想像以上の力を生み出すことが出来ても自滅覚悟の手段であることに変わりはない。

 たとえ相手を倒したところで人に戻ることはもはや叶わず、モウリョウ自身に身も心も喰われ死んだことと同じになるからである。

 むしろそうなった後のモウリョウの存在が何よりも危険であった。主を失いたがの外れた狂獣には破壊の本能しか残っていない。その目に映るものすべて叩き潰すまで決して止まることなく荒れ狂い、世界を絶対的な恐怖を陥れるのである。

「そんなこと、少し昔にあったか…」ひとりごちする麻里子の目には一瞬、過去の映像が浮かび上がる。忘れたはずでもきっかけさえあれば、昨日のことのように鮮明になる。下手に長く生きすぎた者が背負う業なのも知れない。

 麻里子は両手を組み、バキボキと筋を鳴らす。やるべきことはやらなくてはならない。

「志野、さっきみたいにカマスに向けて龍炎牙吼を放て。ただし今度は完全に真下から上空に向かって放つんだ」

「そ、そんなに上手いことカマスが乗ってきますか、麻里子さん」

 この期に及んでも志野には怖気づいたような科白しか出ない。

「無茶は承知だ、でもやって見せるのが四神瑞獣の主たる者の務めだぞ。それと同時に私がカマスの真上から大結界を展開して余波を受け止める」と麻里子は簡単にいってはみるが、出来る自信があるわけではない。

「それって、麻里子さん、もし蒼牙の覇力が麻里子さんより強ければ、相当の負担になるんじゃないですか」

 志野は驚きを隠せない。麻里子のいうことは蒼牙の攻撃を自分の覇力で抑えきるということを意味するからである。持ちこたえることが出来るなら、ここ一帯には何の被害も及ぼすことはないのかも知れないが、そうでなければ麻里子自身が蒼牙の覇力に打ち負かされることになるからである。その後はどうなるのか。

「ごちゃごちゃ言ってる時間はないよ、もうまもなく夜も明ける。モウリョウには厳しい時間になる。それに他にいい手も思いつかないしね」と言って麻里子はニカっと笑う。

「さあ、カマスが動きを止めている今が唯一のチャンスだよ。下から回り込んで必殺の一撃を放て」

「は、はいっ、蒼牙行くよっ!」

 叫ぶ麻里子に促され、志野は蒼牙に命じる。ざわと動き出した巨龍が川面へぐいと体の向きを変えて動き出した時だった。

 死んでしまったかのように動きを止めていた螳螂モウリョウは、オオオオオーッという雄たけびを上げた。その額に浮き出ていた桜魔子の顔が沈みこむように消えていくと、赤く染まった目をカッと見開いて朱雀へ向け突進を始めた。一心不乱、何の迷いもなく一直線に朱雀へと襲いかかる。

「麻里子さんっ!」と振り返った志野が叫ぶ。

「構うなっ!カマスと朱雀から出来るだけ距離をとったらためらうことなく放て」

 麻里子は目前までカマスが迫りながらも、何ら焦ることなく上着の懐から青い短冊を引き抜く。出来るか出来ないかを問うのではない。自分が今ここでなすべきことを行うだけだと。

「蒼牙、あたしの合図に遅れるな。ここ一度きりのチャンスがすべてだよ」

 ウォウ!と吼えた蒼牙は志野に答え、川面に下りた体をひねり、首をもたげ口を開く。

「大結界、覇王鏡」

 怒鳴る麻里子の振り上げた左手から、放り出された青い短冊が矢のように飛び、白み始めた空に突き刺さる。

 カッと太陽が破裂したような輝きが一瞬だけ隅田川の上空で炸裂し、カマスと青龍を一直線上に並べた上に傘を広げたような光景を見せた。同時にここにあるすべてを現界と切り離し、異界との狭間へ引きずり込んでいく。

「今だ、蒼牙っ」

 叫ぶ志野の声に寸分も遅れることなく、青龍が灼熱の業火、龍炎牙吼を全力で吐き出す。真っ赤な炎の束が濁流のごとく襲いかかり、朱雀と麻里子に迫るカマスを包み込んだ。

 グオオオオッという断末魔を思わせる奇怪な悲鳴が耳に届き、火の玉と化して燃え上がるカマスがのた打ち回る。さらに空に伸びる龍炎牙吼は麻里子が展開した大結界、覇王鏡に命中して拡散し赤い火の雨を降らせていく。

 威力を増して放ち続ける青龍の業火は、何ら衰えることを知らないままカマスを焼き、覇王鏡という名の結界を紅蓮に染める。

「さすがは青龍の一撃、物凄い覇力の衝撃を感じるよ…」

 朱雀と共に大結界を支えることに集中している麻里子は、己の全身から発した覇力を朱雀に注ぎ、そこから展開した圧倒的といえる覇力で結界を支えていたのだが、意外にも青龍の桁外れの覇力に自分が押されていることをひしひしと感じていた。若い志野の底知れぬ覇力が青龍の力を支えているということもあるのだろうが、それにしてもこの力の強さは尋常でない。

「も、持たないぞ、もう…」

 麻里子にしては珍しく弱音が漏れた。

 志野の頭上で空が真っ赤に染まり、巨大な火の玉と化したカマスが見える。その先に伸びる炎は展開された結界の空に当たり八方へと拡散、いや吸収されているのかも知れない。光に包まれた麻里子と朱雀が自身の覇力をそこに注いでいる限りは絶対的な防壁として有効なはずである。が、しかし。

 バリバリとガラスが割れる音が聞こえ、結界の空に亀裂が広がるのを志野は見た。蔵前高校で見たときと同じような状況である。

 蒼牙の一撃が結界の空を突き崩すのか。志野はそう考えてみるが、その後はどうなるのかはまるで想像できない。四散した龍炎牙吼の火の粉が浅草の街を焼くとでもいうのだろうか。このあたりのすべてを何もかも灰にしてしまうと。

 火の玉と化したカマスはその中でもがきながらまだ動きを止めない。

「だめっ、空が割れる!」

 志野がそう叫んだ時だった。

 上野方面から結界に突き刺さってきた金色の光が結界の壁を突破し、麻里子と朱雀の下で急停止する。と同時にその光の玉自体から目も眩む閃光が彼女と背後のモウリョウに向けて放たれた。その刹那、麻里子と朱雀を包む覇力の光がさらに輝きを増し、覇王鏡の力をみるみるうちに高めていくのが良く分かった。

「あ、あの光の中ってまさか、コタローなわけ」

 志野は金色の光体の中にあの狐モウリョウの姿をはっきりと見た。

「何やってんだババア、性根据えて覇力を集中させやがれっつーの」

 吼えるコタローの体毛がすべて逆立ち、かっと見開いた目が麻里子と朱雀、カマスをにらむ。立ち昇る覇力はさらに輝きを増し衰えることはない。

「コタロー、あんたも相当のお人好しだねぇ…」

 ニカッと笑った麻里子は、コタローが注いでくれる覇力を取り込んで最後の踏ん張りを見せる。まったく、大人しくしていればいいものをと思う反面、絶妙のタイミングで加勢に来た手際の良さには感謝せざるを得ない。

 よもや朱雀の覇力が押されるとは…。そんな風に感じていた麻里子は、志野と青龍の覇力の強さに底知れぬ畏怖を感じていた。このコンビ、もしかしなくても大変なことになるかもしれないと。

 次の瞬間に火の玉が割れ、バンと散華した螳螂モウリョウカマスはすべてが光の粒となり覇力を四方へ散らしていく。すべての力を吐き出した青龍が口を閉じる。

「やった!」と志野が右拳を振り上げたときだった。

 バリバリガシャガシャパリンというガラスが割れる音がほぼ同時に耳を打ち、それで浅草の空に展開された結界が崩れだしたのだと分かった。

 崩壊する結界から切り取られていた空間と麻里子に朱雀、コタロー、志野と青龍が現界に復帰していく。

 志野は粉々に崩れていく結界の残滓の中に仁王立ちする麻里子の姿を見つけた。が、次の瞬間その体が糸の切れた操り人形のように力が抜け落ち、真っ逆さまに隅田川へと落ちていくのを目撃する。ほぼ同時に朱雀が姿を消した。

「や、やばいよ麻里子さん」

 志野は即座に蒼牙に命令してと考えるもの、そんな暇さえなく麻里子は落ちていく。

 同じ光景は墨田川上のモーターボートにいた燐と譲之介も目撃していた。

「ボートを、麻里子さんが落ちる」

 何が起きたのか悟った燐は大きな声を上げるが、間に合うはずもなかった。

「たく、もうババアがぁ!」

 刹那、落下する麻里子に気がついたコタローがダッシュで真下に滑り込む。

 ドスンという音が聞こえ、コタローの背中に麻里子が落ちたのが志野にも、燐、譲之介にも見えた。

「あそこ、早くして」と叫ぶ燐と譲之介を乗せたモーターボートが、川面で麻里子を背に乗せこらえるコタローに近づく。

「早くしろよ、このババア絶対に前より重くなりやがった…」

 譲之介が麻里子をコタローの背中から抱き上げ,ボートに移す。見たところ怪我などは無さそうだったが、意識は完全にない。

「コタロー、あなたも早くこっちに」と燐が手を伸ばすが、コタローは首を振る。

「んんんーちっとばかり覇力使いすぎだっつーの。やっばいわ」

 そう力なく答えるや否やコタロー自身の体が眩い光に包まれた。

「ちょ、コタロー」

 驚く燐の前でコタローは全身が光の粒と化して、四散したモウリョウのようにゆらゆらと昇天していく。

 その様子は未だ上空に浮かぶ志野にもよく見えた。コタローはどうなったというのか。力を使い果たして他のモウリョウと同様に散華してしまったというのだろうか。

 急ぎ空からボートへと降りていく志野は、立ち上る光の粒と交差し全身を包まれる。

『志野、かなりのドジは踏んでいるが、今回はまあまあだったな。オイラはちょいとばかり休むことにするぜ…』

「え、えええ」

 志野の耳には確かにコタローの声が聞こえた。

 ボートに降り立ち、志野は明け始めた空を見上げる。白光が広がる中にコタローの光の粒が消えて行き、同時に青龍もまた姿を消していく。

 これですべてが終わったというのか。確かに螳螂姉妹を倒すことが出来たのかもしれないけど、志野には終わったという感触を得た気にはなれなかった。

 ざわざわした街の音が志野の耳に届く。見回せば昨日とはまるで違う姿に成り果てた隅田川周囲の光景が目に飛び込んできた。

「ボートを急いで回せ。取りあえず両国までいく」

 譲之介の声が響き、目の前に燐の姿が入る。

「志野さん大丈夫、どこか怪我はない、疲れてない…」

 そんな声が聞こえているのだが、志野の頭も体もどうしたわけか反応しない。

 麻里子さんはどうしたのだろう。コタローが助けたところまでは覚えているのに。志野は棒立ちのまま目だけをうつろに動かして彼女を探す。

『ああ、そこにいたんだ、大丈夫なのかな。倒れたままみたいだけど…』

 心に叫ぶ志野は毛布に包まれて意識を失っている麻里子の姿を見つける。

 どうしてこんなことに、私は何を考えて何をしたのだろう。頭と体がとても重くてあちこちがぶつけたように痛い、痛い、痛いな。

 朦朧とする志野の意識はその瞬間にぷつりと切れた。

「し、志野さん!」

 崩れ落ちた志野の体を受け止めた燐の声は、彼女には聞こえていなかった。


「では未明にから朝方にかけて浅草周辺で起きた一連の出来事は、隕石の落下による衝撃波が起こしたものだとお考えなのですね」

「東京湾方面に落下したという隕石については、まだ発見されておりませんが、当局では現地において空を斜めに横切っていく発光体の目撃や、物凄い轟音を幾度となく耳にしたという証言も得ており、また地震などによる被害でもない以上は、その線で原因の追究を進めております」

「しかし別の目撃者の証言として、巨大な生物が隅田川の上空で激突していた、というものあり、またその動画が投稿サイトにライブで流された、というものもありますが」

「君、そんな馬鹿げた話が本当にあると思うかね。漫画や映画ならいざ知らず、現実世界で持ち出すにはあまりにも突拍子過ぎると考えるのが常識だろう」

 そこまでの話を聞いたところで、朽木相馬は手にしていたTVのリモコンをオフにした。聞き苦しい男二人の会話が突然途切れ、部屋の中は一瞬、沈黙に包まれる。

「隕石とはまあ、話を持ち出すにしても苦しそうないい訳だな」

 そう言って口元に笑みを浮かべ、相馬は豪華なソファセットの左側に座る二条瞳子の顔を見た。

 一見して明らかに機嫌が悪いことがわかる。子飼いの配下を二人一度に失っては、それも当然と言えるが、さすがに堪えたというとこであろうか。

「役人と名のつく連中のすることは昔からこんなもんや。いつでもその場を繕い、立場が悪いならなかったことにする。違うのか相馬」

 何ら表情を崩すことなく瞳子は答えた。凍りつくような視線はまた相馬を捉える。

 京都六波羅、我邪が本拠を置く一帯に構える豪勢な屋敷のとある一室で、朽木相馬と近衛瞳子は、浅草で起きた一連の事件を解説したニュース番組を最後まで見ることなく投げ出したところだった。

「世間に対する始末はこんなものだろう。個人が何を見た、聞いたとしてもそれは所詮、一人芝居に過ぎない。時が立てばすぐに忘れられる」

「そうやな、モウリョウがどんなに暴れても普通の人間に気がつかれることはない。不可解な現象、それでしまいや。そして何も変わらないように見える日常の繰り返しや」

 今度は顔を相馬に向けて瞳子は言った。鉄面皮の相馬は瞬き一つすることもなく正面を見ている。

「今度のことで、いろいろと得たものもあるし、失ったものもある。そこを理解して次を考えねば、逝った者には顔向けできんな」

 相馬は蟷螂姉妹のことを気にかけているのか、瞳子は一瞬そう思うがすぐに否定する。我邪の中でも己の目的のためには一番手段を選ばないはずの男である。本心はうかがい知れないが、言葉にしたことは記憶しておこうと考える。

「せやな。それでこそ浮かばれるというものや。うちらかて同志には限りがあるんや」

「そうだ、だからこそ、今回の件で生まれたはずの新たなキズキビトは我らに取り込み同志としていくことは必要となるだろう」

 相馬の口調は、『もちろんわかっているのだろうな』と瞳子に確認を求めているようにも聞こえなくもない。

「我邪が求める目的のために、ということやな」

「そうだ、そのために必要な力の出現もこうして確認することが出来た。四神瑞獣、四凶死獣のすべてを揃え、その日のために備えなければならん」

 相馬は淡々と語るが、その意思に微塵も揺るぎはないと言っているようにも思えた。

「次の手はすぐに準備させる。瞳子にもまたひと働きしてもらうことになる」

「分かっていると思うんやけど、今度は当て馬はご免や、ええな」

 そこで瞳子も少しだけ表情を崩し、それでいて殺気も含めた視線を変わることなく相馬に向ける。

「厳しいな。無論わかってはいる。お前の力は当てにしているのだからな」

 口元で笑う相馬は珍しく和らいだ表情を見せて瞳子に答えた。それが偽りであることを瞳子が知っていてもである。

 相馬にとって今回はほんの序の口、始まりに過ぎない。この先に彼が求める光景とは遥かに遠くまだその鱗片さえ望むことは出来ないが、必ずや達成出来ると信じていた。

「それにしても青龍蒼牙、予想以上に恐るべき四神瑞獣だな。いやその主たる綾川志野の覇力こそ、尋常ならざる力として認めなくてはいけないのか。だとしたら…」

 独りごちする相馬は目を閉じた。夜も更け静まり返った都の闇の中、怪しく徘徊するモウリョウたちの覇力がそこかしこに放たれ、互いに威嚇し牽制し合い獲物を求めて夜行する姿が目に浮かんでくる。

 いかに人が世界を支配していても、その実はどうであるのか。伺い知ることの出来ない真実が闇の中にある。これが現実であると言わんばかりに京に巣食うモウリョウどもが気勢を上げ己の存在を鼓舞していた。

 その光景に朽木相馬は満足し、さりとて冷ややかに、夜に沈み恐れおののく京の町を俯瞰して笑みを漏らすのであった。

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