第7話 紅蓮地獄からの脱出
生きた人間が焼け焦げる臭いを初めて嗅いだ。スーパーで売っている肉が焼けるのとは全然違う。鼻の奥を抉るような不快さで吐き気が込み上げてくる。何が違うのだろうとマレンは考える。多分、肉の他に血と髪の毛が焼ける臭いが混ざるからだ。それに加えて断末魔の悲鳴が重なって耳まで犯してくる。
「助けてぇっ! 助けてくれぇっ!」
「熱い、熱い、熱い、誰か! 誰かぁ」
燃え移った火を消そうと地面に転がる兵士。意識が朦朧としているのかブツブツとうわ言を告げながら倒れる兵士。仲間をどうにか助けようと躍起になるが何もできない兵士。
ほんの数分前までに野営をしていた輸送団は一気に地獄に叩き落とされていた。オレンジ色の火球が爆ぜると衝撃が空気を震わせ、辺りは火の海となる。馬車もテントも全部が燃えてしまうのだ。
先頭を走るミアの表情には全く余裕がない。足の遅いマレンとミリィの姿を振り返って確認するのがやっとといった感じである。周囲の熱気に炙られてマレンの額から汗が流れた。走っても走っても火の手からは逃れられそうにない。すぐに足が痺れてきた。だが迫り来る死の気配を前にしてもマレンには不思議と焦りがなかった。それどころか新たなオレンジ色の火球が見える度に足を止めてジッとそちらを観察する。
火球は最初のものよりも随分と小さく、速度も遅い。炸裂すると衝撃波が走って周囲を吹っ飛ばし、やがて火の粉を散らす。
(あれが魔法? てっきり、現実世界と同じ自然法則だと思ったのに)
観察する限り、この異世界を支配する法則は地球と変わらない。そう結論付けた矢先に魔法などというファンタジー丸出しの代物を見せられたのではスッキリしなかった。マレン本来の知識にも魔法なんて言葉は見当たらない。
(そもそも聖女扱いされているのに、薬草で直すなんて地味だよ)
不満の矛先は不可解な現象を操るものに向いた。あの光の球が飛んでくる先に魔法使いがいるなら、そいつは一体どんな奴なのか。熱でチリチリと焦げる前髪よりもずっと気にかかった。
「聖女マレン! 足を止めないで!」
「マレンさま! 急いでください!」
ミアが強く手を引っ張ってくる。ミリィも必死の形相だった。立ち止まっていたので呆けてしまったと思われたのだろうか。ジッとしていれば焼け死ぬのは分かりきっている。しかし、生き残りの者たちは皆が同じ方向に向かって逃げ出していた。火の弱い方、まだ焼けていない方へと集まっている。
「誘導されています」
「何を言っているんですか!?」
「最初の火球が一番大きかったし、爆発範囲も広かったんです。そのあとに飛んでくるのは小さくてあまり爆発しません。死んでいない人間を一箇所に集めて狙うつもりじゃないでしょうか?」
「……なんでそんなに冷静なのよ? ぼーっと突っ立ってたら死ぬんだぞ?」
声のトーンをガクンと落としたミアは乱暴な口調になっていた。態度の変化には今更驚かず、マレンは続ける。その横を逃げ惑う兵士たちが通り過ぎて行った。まるで川の中に突っ立っているかのように押しへされ、どうにか巻き込まれずに耐えている。
「火は処刑に使われます。苦しめるにも、痛めつけるにも、あまりにも強くて勝手が悪い」
「魔砲使いに文句でも言ってやれ。いいから逃げるぞ」
「確か、火に囲まれても生き延びた消防団の事例が…… あれは確か…… 自分たちの周囲にあるものを意図的に燃やして……」
「気でも狂ったか! 逃げるんだよ!」
付き合っていられないと言わんばかりに強い力で腕を引かれた。騎士であるミアとの腕力は比べるまでもない。ミリィも背後に回って背中を押してくる。しかし、マレンは抵抗してその場に留まる。それから目を細めてあたり一帯を見渡した。遠く背後には自分たちの乗ってきた馬車が転がっており、煌々と燃えている。
「ミアさん」
「なんだよ!?」
「観察して分かりました。小さい火球が爆発すると、その周囲の炎が少しの間だけ消えます。それと燃え広がった炎は、単なる燃焼のようです。燃料を浴びせて燃やすような魔法じゃないと思われます」
「だからなんだってんだ、今は関係ない!」
「爆風の影響で一時的に炎が吹き飛ばされるんです。あっちの方角を見て。あのあたり……一番最初に大きな火球が爆発した場所です。そこの近くに小さい火球が飛んでいったのを確認したら、走りましょう」
指差した先には何もない。代わり映えしない赤い景色が広がるだけだ。つまりは火に飛び込めと言っている。
「馬車から持ち出した薬草の中に痛みを誤魔化すものもあります。爆発の瞬間は息を止めてください。吸い込むと肺を焼かれて助かりません。髪の毛や背中は焦げますが、炙り焼きになるよりマシだとは思います」
煤けた顔のまま、マレンは微笑んでしまった。こんな死にそうになっているのに白状すれば楽しい。あらためて自分が異常な人間だと思った。ミアやミリィのように生きるために当たり前の行動を選ぶことができない。死ぬかもしれないなら、ただでは死なない。自分の作った首絞め拷問器具で窒息した女の考えることは当然のように正常じゃなかった。
「もし、私が間違っていると思うなら兵士たちと同じ方向に進んでください。私は小さい火球の方に向かって走ります」
「あんた、本当に聖女か? 何がしたいのかまるで分からない」
「最初の爆発は馬車や兵士やテント……周囲のものを吹き飛ばしました。あの地点は可燃物が残っていない。そして小さい火球が爆発すれば、吹っ飛ばされます。私の身体も、邪魔な炎も、全部一緒にです。方向さえ合っていれば燃えるものが残っていないところに落ちます」
「狂っている」
「火傷で死ぬか。一酸化炭素中毒で死ぬか。爆風で死ぬか。どうせなら派手な方がいいでしょ?」
「いっさんか……? ま、マレンさま? 何をおっしゃっているのですか?」
「あぁ、くそっ…… なんでこんなイカれた女の護衛なんて引き受けたんだあたしは」
小さな火球が宙を飛んでいった。速度は早くない。マレンは笑顔のまま走り出す。興奮した身体は恐ろしいほど軽くて力強かった。
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