『おふろ』

やましん(テンパー)

『おふろ』


 ぽとん。


 ぽとん。


 天井から、水滴が落ちる。


 なあに、我が家の小さなおふろ。


 小さな浴槽。


 体を、Vの字にまとめないと、入れないくらいだから。


 それでも、静かだな。


 お正月だものな。


 お正月が静かなのは、良いことだよ。


 まあ、やましんちは、いつも静かだけどね。


 まさか、60歳も半ばにまで、一気にワープするとはね。


 サラリマンとしての、有終の美とかいうのは、ぶっ飛ばしてしまった。


 体調悪くして、定年1年半前に、逃げるように退職した。


 最後の日は、裏口から、みんなに送られて、花束をもらって、さよならするものだと思っていたけれど、花束は頂いたけど、ぼくを、出口まで見送ってくれたのは、後輩、独りだけだった。


 それでも、ありがたいもんです。

 

 もう、5年以上前のことだから。


 あれ以来、一度も、30年以上勤めた職場には行っていない。



 また、ぽとん。と、落ちる。




 『あの、もし、やましんさん。』


 ふと、小さな声がする。


 え?


 だれ、


 だれかがいるはずもない。



 『あの、お尋ね申します。』



 なんと、かなり、でっかい、やすでさんである。


 『あの、下の、ねこママさんの店で聞きましたら、やましんさんなら、分かるかもと。じつは、家内とはぐれてしまいまして。見なかったでしょうか。』


 たしかに、昔から、やすでさんとかは、必ずペアで、しかも、ばらばらに現れる。


 『あ、いやあ。最近は見てないですな。外を探してみてはいかが?』


 ぼくは、コップに、やすでさんを掬い上げ、窓から、となりの駐車場に放出したのだ。


 ほかに、良い方策は考え付かないからね。


 

 なんだか、情けない想い出に浸っていたものだな。


 なんと、一時間は、Vの字で、ぼやっとしていたらしい。


 あたりは、静かなままだ。


 もう、あがろう。


 湯船からあがって、扉を開けようとした時である。


 

 『あの、もし。』


 はい?


 と、また、声がする。


 あらまあ、またまた、でかい、やすでさんである。


 『あの、じつは、夫とはぐれてしまいまして、ねこママさんのお店で尋ねましたところ、・・・』


 『わかった、わかった。さっき来てたよ。旦那さんは。ほら、まだいるかどうかは、わからないよ。』



 ぼくは、また、例のコップに、やすでさんを拾い上げ、窓から同じくらいの角度で放出した。


 すると、ほどなく、外から声が聞こえる。



 『あなた。よかったあ。さあさあ、ここは、寒いから、やましんさんちの地下に………』



 ぼくは、窓を、ばたん、と閉めようとしたが、なにか思い直して、ゆっくりと閉じて、それから、静かに、お風呂場から退出した。


 

 だから、悪い気はしなかった。

 


 

           😃♨️🎶 😸

 


 


 

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『おふろ』 やましん(テンパー) @yamashin-2

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